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59:幻覚の森



 濃い霧が発生したためむやみやたらと動き回らず、しばらくその場に留まっていたのだが、霧は晴れるどころか濃くなる一方だった。伸ばした自分の手の先すら見えない濃さだ。

 危険を承知で一度引き返した方がいいかもしれない――そう思い始めたときだった。



「――ぐあっ!」



 背後から男性の悲鳴が上がった。

 一気に空気が張り詰める。エデュアルトが前に出て、私を背後に庇った。



「オリエッタ、俺の肩を掴んでくれ、この霧だとはぐれそうだ」


「ルーナ様、手を繋ぐっす」



 目の前のエデュアルトが辛うじて見えるだけで、すぐ近くにいたはずのアウレリオ様の姿もジーナ様の姿も霧に飲まれて見えない。

 びくん、と掴んだエデュアルトの肩が震えた。かと思うと腕を掴まれ、そのまま走り出す。



「エデュアルト!?」


「魔物の気配だ、それもかなりの数の! 囲まれたら袋叩きにされる!」



 情けないことに魔物の気配を察知できない私は腕を引かれるまま、エデュアルトの後についていくので精一杯だった。

 走っていくうちに、徐々に霧が薄れて視界が晴れてきた。ほっとしたのもつかの間、霧の中にぼんやりと人影が浮かび上がってくる。

 その人影は子どもだった。一瞬ジーナ様かと思ったが、体つきが違う。おそらくは少年だ。

 エデュアルトに手を引かれたまま、人影の横を通り抜ける。――その瞬間、少年の正体に気が付いた。



「エ、エデュアルト!?」



 霧の中、木の傍に立っていた少年は過去何度か見た幼い頃のエデュアルトにそっくりだった。私の手を引いていたエデュアルトも少年の正体に気づいたのか、歩みを緩める。

 先ほど見たものが信じられず、私は思わず振り返った。そこにはやはり、霧の中立ちすくむ少年のエデュアルトが“いる”。若干距離があったため表情までは分からなかったけれど、俯き、落ち込んでいるように見えた。

 魔物に幻覚を見せられているのか。そう思いあたりを見渡すが、穢れや呪いの臭いは一切しない。その代わりに、複数の人影を見つけた。

 その人影はそれなりに長身で、明らかに大人の体格をしていた。しかしアウローラ王国の騎士団でもアウレリオ様でもない。

 ぼんやりと霧の中に浮かび上がる人影の正体は、一体。



『エッセリンクの呪いを受け継いだ』


『近寄るな! 呪いがうつる!』



 どこからともなく聞こえてくる声に、エデュアルトは足を止めた。

 私は声の発生源を探そうとあたりを見渡す。すると先ほど見つけた人影が、私たちに向かって指を突き付けていた。もしかしなくても、先ほどの言葉は“彼ら”が私たち――いいや、エデュアルトに向かって放った言葉なのだろう。

 エッセリンク家の呪いを蔑む言葉。近寄るなと怒鳴りつける声。

 足を止めてしまったエデュアルトの腕に手を添え、顔を覗き込む。その顔は苦痛に歪んでいた。

 ――あぁ、きっと先ほどの言葉は、実際に幼い頃のエデュアルトに投げかけられた言葉なのだろう。彼が心の奥底にしまい込んだ、忌々しい記憶だ。



「……進もう」



 顎を上げ、エデュアルトはゆっくりと歩き出す。私はその背になんと声をかけていいか分からず、ただはぐれないようにぴったりとくっついて歩いた。

 私たちの行く道の傍らに、多くの人影が現れては消えていく。彼らは皆、エデュアルトの記憶の中の人物のようだった。



『父親と違い、呪いを制御できないようだ』



 そう吐き捨てるように言ったのは鎧を着た騎士。



『竜の呪いは利用できてこそ。エッセリンク家も今代までだな』



 そう嘲笑ったのは複数人の村人。



『そもそも爵位をはく奪されておきながら、王家から重宝されていたのがおかしいのだ。身の程を弁えろ!』



 忌々しいというように声を荒げたのは、豪華な衣服を着た貴族。

 この声は、人影は何なのだろう。幻覚や幻聴の類なのは間違いない。しかしこのような幻覚を見せるにはエデュアルトの心を覗く必要がある。そのような高度なことがただの魔物にできるだろうか。

 それにしてもこれらの心ない言葉が、実際に幼いエデュアルトにかけられたものだと思うと胸が痛む。エデュアルト自身は何も悪いことはしていない。ただ呪いを継ぐ家に、長男として生まれてしまっただけ。それなのにどうしてこんなにひどい言葉をかけられるのだろう。

 先ほど霧の中で俯き、立ちすくんでいた幼いエデュアルトの姿が脳裏に蘇る。その小さな体を抱きしめてあげたい、と思ってしまうのは過ぎた願いだろうか。



『――兄ちゃん!』



 呼びかけられて、エデュアルトは再び足を止めた。

 彼の肩越しに前を見る。そこには小さな少年が満面の笑みを浮かべて立っていた。この少年もまた、“何か”に見せられている幻覚だろう。

 エデュアルトを「兄ちゃん」と呼んだこの少年の正体は、おそらく。



(……パウエル様)



 エデュアルトはパウエル様の幻覚を避けるようにして再び歩き出す。

 思わず私は振り返ったが、そこにはもう幼いパウエル様の姿はなかった。その代わり、こちらを指さす人影が複数現れる。



『次男も中々優秀なようだ』


『それなら次男に継がせるべきだな』



 背後から追いかけてくる声。

 その声から逃げるようにエデュアルトの歩く速度が上がった。



『しかし長男に随分と懐いているようだが……まさか竜に魅入られているのでは?』


『あり得るかもしれんな。ならば弟も欠陥品か』



 ――瞬間、木の根っこに足を取られたのかエデュアルトが前につんのめった。おそらくは私を巻き込まないようにするためだろう、咄嗟に掴んでいた私の腕を離したエデュアルトは、そのまま地面に手をつく。

 弟も欠陥品。鼓膜に焼き付いた残酷な言葉に、エデュアルトが弟・パウエル様と関わらないようにしている理由が分かったような気がした。

 エデュアルトは自分と関わることで、弟の評判まで落ちることを気にしているのではないだろうか。幼い彼に心ない言葉を投げかけ、追い詰めた大人たちのせいで、エッセリンク兄弟は同じ騎士でありながら道を違えてしまったのだ。



「エデュアルト、大丈夫!?」



 倒れこんだエデュアルトの前に回り込んで体を支える。こちらを見た瞳は――光を失っていなかった。



「大丈夫。君がいてくれる」



 エデュアルトは真っすぐ私を見た。力強い瞳にほっと安堵する。

 大丈夫。彼は幻覚に飲まれていない。

 私はエデュアルトの腕をぎゅっと掴んだ。そして立ち上がろうとする彼に手を貸す――



『万年聖女候補生オリエッタ・カヴァニス』



 その声には聞き覚えがあった。

 私は勢いよく振り返る。そこに立っていたのは、



「シ、シスター!」



 コレット大修道院で散々お世話になった、シスター・イネスだった。彼女の冷たい瞳が私を見下ろしている。

 幻覚攻撃のターゲットがエデュアルトから私に変わったのだと気づくのに、そう時間はかからなかった。



『あなたはいつまでたっても半人前。聖女の名を汚す半端物』



 ――幻覚だと分かっているのに、思わず体が強張った。

 シスター・イネスは劣等生である私に誰よりも寄り添ってくれた。彼女からこのような言葉をかけられたことは一度もない。けれど、私は心の奥底で怯えていたのだ。優しい笑顔の裏で、シスターは私を嫌っているのではないか、と――

 ぐい、と肩を抱き寄せられる。そして半ば強引に立たせられた。



「オリエッタ、足を止めるな」


「は、はい」



 肩を抱かれたまま歩き出す。

 先ほどまでの幻覚とは明らかに違う。エデュアルトに向けて仕掛けられた幻覚攻撃は、おそらく実際に彼が経験した過去だ。けれど先ほどのシスターの幻覚が口にした言葉は、過去実際にかけられた言葉ではなく、私が恐れていた言葉で――

 どちらにせよ、この幻覚を司る“何か”に心を覗かれたのは確かだ。心を覗いた“何か”が私の過去にはエデュアルトと違って攻撃材料になりそうな記憶がないと判断し、作戦を変えてきたのだろうか。

 私たちの行く手を遮るように、一つの人影が現れた。こちらを見つめる銀の瞳にドキリとする。

 新たに現れた人影は間違いなくエデュアルトだ。私の専属騎士を務めてくれている、エデュアルト・エッセリンク。

 彼は私を真正面から見つめ、口を開く。



『君のような聖女に、仕える気は――』


「俺の顔でオリエッタを愚弄するな!」



 エデュアルトが腰から鞘ごと剣を抜き去り、エデュアルトの幻覚に突き立てた。すると幻覚は呆気なく霧散してしまう。

 他の誰でもないエデュアルト本人の手で忌々しい幻覚を振り払ってくれたことに胸を撫で下した。幻覚のエデュアルトが口にしようとしていた言葉も、私が心の奥底で恐れていたものだ。出来の悪い聖女に、いつかエデュアルトが愛想を尽かすのではないか、と。



「これは魔物の幻覚なのか?」


「わ、分からないわ。でも穢れや呪いに対する嫌な感じはないの!」



 大きく首を振って答える。すると右の肩に僅かな重みが現れた。その重みの正体は確認するまでもない、アラスティア様だ。

 彼女は私の耳元で囁くように言った。



「これ、女神の力ね」


「えぇ!?」



 思わず右の肩に座るアラスティア様を見た。彼女は私の肩の上で腕を組み、忌々しそうに顔を歪めている。



「穢れや呪いに備えて、女神や聖女以外は追い払うような細工でもしたんじゃないかしら」


「で、でもナディリナ様はそんなこと一言も……!」


「どーせあいつのことだから忘れてたんでしょ!」



 走りながら話しているせいで、だんだんと息が上がってきた。

 女神であるアラスティア様が言うのだから、この幻覚が女神の力によるものなのは間違いないだろう。そしてここからはアラスティア様の推測だが、ワルモノが近寄らないように施された細工が幻覚の正体なのだとしたら――細工をして守らなければいけない存在が近くにあるということだ。

 その存在とはもしかして、女神の大樹なのだろうか。



「幻覚を見せる原因がいるのか、それとも細工されている場所を抜ければそれでいいのか! どっちだ!」


「わっかんないわよ! どっちの可能性もあるわ!」



 アラスティア様もいらだっているのだろう、どんどん語気が強くなる。

 珍しくエデュアルトが小さく舌を打った。そして先ほど腰元から引き抜いた剣を元に戻すと、すばやく私を抱きかかえる。そして、



「それなら――オリエッタ、掴まれ!」


「きゃ――!」



 いつの間にやら再び背負っていた竜の翼で、霧の中を一気に駆け抜けた。

 しかしどれだけ飛ぼうと霧が晴れる様子はない。



「……抜ける気配がないな」



 ――そう呟き、エデュアルトが速度を落とした瞬間だった。“何か”が左の茂みからすごい勢いで飛び出してきたかと思うと、私たちに向かって突撃してきたのだ。



(な、なに――!?)



 大きな衝撃にエデュアルトの体が揺らぐ。私は咄嗟に目をつむってしまったのだけれど、エデュアルトに強く抱きしめられたことは分かった。

 それから数瞬後、再びドン! という大きな衝撃が襲ってくる。恐る恐る目を開けると、苦痛に歪むエデュアルトの顔が目の前にあった。どうやら大樹に強く背中を打ち付けてしまったようだ。

 慌てて声をかけようとしたが、それより早くエデュアルトが私を背後に庇う。大きな竜の翼で視界が半分ほど遮られていたものの、エデュアルトが睨みつけている先に“それ”を見つけた。

 “それ”は――どす黒いオーラを纏い、不気味な動きでこちらに剣を向ける“鎧”だった。



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