54:初めて知る一面
――あの後、女神に絡まれ酒を飲まされたエデュアルトは、
「エデュアルト、大丈夫?」
今、机の上に突っ伏していた。
「あら、酒弱かったのね」
エデュアルトの倍は飲んでいたであろうアラスティア様は真っ赤な顔で笑う。彼女はまだまだ元気そうだ。
アラスティア様の周りには、彼女に潰された人々が倒れている。死屍累々という表現がぴったりだ――なんて、口が裂けても言えないけれど。
「お客さん、大丈夫かい? ほら、水」
酒屋のお姉さんが心配そうな表情で水を持ってきてくれた。それを受け取り、エデュアルトの顔を覗き込む。
土気色の顔に、半開きの瞳。普段のエデュアルトからは想像がつかないほど情けない姿だが、意識はまだ辛うじてあるようだ。
「立てる? 帰れる?」
「オリ、エッタ……」
彼はにへら、と笑う。おそらくは私を安心させようとしてくれたのだろうけれど――普段より無防備で幼い笑顔に胸がときめいたのは秘密だ――その後すぐ、机に頭突きした。どうやら完全に“落ちた”ようだ。
外は真っ暗。既に街も静かになり始めている。こんな遅くに酔いつぶれたエデュアルトと、真っ赤な顔で高らかに笑っているアラスティア様を連れて大修道院に戻れるかと聞かれると、正直自信がない。
「お客さん、家はどこだい? 送らせようか」
途方に暮れていたところ、先ほど水を差しだしてくれたお姉さんが再び問いかけてきた。
家、という単語に数秒固まってしまう。ここで大修道院と答えたら、間違いなく私が聖女だとばれる。
聖女という立場をむやみやたらと明かすことはあまりしたくなかったけれど――答えないわけにもいかないだろうと思い、口を開いた。
「えぇっと……実は、大修道院で」
「……驚いた、聖女様か」
お姉さんは数秒私の顔をまじまじと見る。その視線に体が強張るのは、つい先日のアドリアナ村での出来事のせいだろうか。
数秒の後、お姉さんはにこりと笑った。人好きのする笑顔に、ほっと体から力が抜けていく。
「それじゃあ、馬車まで送ろうか?」
「でも……」
夜馬車は運賃が嵩むし、何より馬車から降りた後、エデュアルトを寮まで運べる自信がない。こんな夜遅くとなれば、流石の大修道院も寝静まっている。助けは期待できないだろう。
お姉さんの申し出はありがたかったものの、返答に迷っていたら、
「ちょっとなーに情けないツラしてんのよ。立ちなさい、ほら!」
アラスティア様がこちらに千鳥足で歩み寄ってきた。かと思うとエデュアルトの体を支え、立たせようとする。しかしいくら女神様と言えど、意識がない騎士の体を酔っ払い状態で支え切れるはずもなく、二人そろってその体がぐらぐらと揺れた。それはもう、盛大に。
私は思わず立ち上がり、二人の横に立つ。そして支えようとしたのだが――
「重い」
「ぎゃあ!」
アラスティア様が突然エデュアルトの体をほっぽり出してしまったことで、意識のない専属騎士の体がこちらに倒れこんできて、支えきれずその下敷きになってしまった。
「大丈夫かい!?」
慌ててお姉さんが助け出してくれる。幸い怪我はなかったが、意識を失ったエデュアルトの体は思った以上に重く、抜け出すまで時間がかかってしまった。
肩で息をしながら、床に伸びたエデュアルトを見下ろす。駄目だ、完全に落ちている。運べそうにない。
力を貸してくれたお姉さんも同じことを思ったのか、労わるような笑みを浮かべて、ある提案をしてくれた。
「そうだ、落ち着くまで上の部屋を貸すよ。一部屋余ってるんだ」
「でもご迷惑じゃ……」
「聖女様にはたくさん世話になってるからね。ちょっとした恩返しさ」
――“聖女”に向けられる好意が今まで以上に嬉しいと感じるのは、アドリアナ村での出来事があったからに違いない。
私は申し訳なく思いつつ、お姉さんの提案に素直に頷いた。正直ここで意固地になって断り、寒空の下三人ほっぽり出されてしまっては途方に暮れてしまう。部屋をお借りできるというのは、これ以上なくありがたい話だった。
「よぉし、飲みなおしよー!」
アラスティア様は相変わらず一人で騒いでいる。その足元に転がっている死体――ではなく、彼女に潰された人々は全く反応を示さない。大丈夫だろうか。
「元気だねぇ、聖女様のお姉さん」
「え?」
「違うのかい? 似てるからてっきりそうかと……」
「あぁ、いえ、そうです。姉です」
似ていると称されたことに若干首を傾げつつ、姉妹と間違われた方が好都合だと思い頷く。“姉”と見比べるように何度か顔をじっと見られたが、苦笑で躱す他なかった。
絶好調の“姉”はしばらく放っておこうと決め、お姉さんが呼んだ恰幅のいい男性従業員の手によって、エデュアルトは二階の客室に運ばれる。質素なベッドは若干エデュアルトの体には小さかったようだけれど、どうにか寝かせることができた。
ベッドの上で泥のように眠るエデュアルトを見下ろしながら、お姉さんが問いかけてくる。
「聖女様はどうする? 下にいてもいいし、ここにいても……」
私は数秒迷ったが、最終的には首を振って応えた。
エデュアルトの様子は気がかりだが、私も休みたい。下で椅子を借りて寝かせてもらおう。
「人の気配があるとエデュアルトが起きてしまうかもしれませんから、私も――」
エデュアルトに背を向けて歩き出そうとした、まさにそのときだ。くん、と服の裾を引っ張られたような感覚に、私は足を止めた。
振り返る。そこにいたのは――
「おや、ここにいて欲しいってさ」
私のワンピースの裾を握りしめるエデュアルトだった。
眠っているはずなのに、どうして。
驚きと、戸惑いと、――喜びと。
自分でも無意識の内に、エデュアルトの方へ向き直っていた。そして引き寄せられるように数歩前に出る。
「……水、ここに置いておくから好きに飲んどくれ」
お姉さんは私の様子を見て、ここに残るつもりだと判断したようだ。ありがとうございます、と振り返ったときには部屋の扉はもう閉められていた。
私はベッドの横に置かれた木の椅子に腰かける。ワンピースの裾はエデュアルトが握ったままで、皺になってしまうのではないかと若干不安が胸を掠めたが、その手を振り払う気にはなれなかった。
(お酒、苦手なんだ……)
初めて知ったエデュアルトの一面。それがたまらなく嬉しい。
まだまだ知らないエデュアルトがいるはずだ。これからどんどん知っていけたらいいな――なんてぼんやりと考えて、ふと“その可能性”に行きついてしまった。
幼い寝顔を見つめながら、思う。
(いつまで、私の専属騎士でいてくれるのかな)
こうして今は手の届く距離にいるエデュアルトとも、いつかは必ず別れる日が来る。その日は案外近いかもしれない。
エデュアルトの呪いはとても強力だ。それこそ、女神様が匙を投げるぐらいには。彼の呪いを解ける保証などどこにもないし、私が呪いを解ける可能性より、彼が契約破棄を申し出てくる可能性の方がずっと高いだろう。
彼は優しい人だ。けれどだからと言って、いつまでも一緒にいてくれるわけではない。いつまでも甘えていてはいけない。
(いつまで、この三人でいられるんだろう)
下で大騒ぎしているであろう女神アラスティア様も同じことだ。彼女と別れられるよう、試行錯誤しているのだから。
いつの間にか、三人でいることが当たり前になっていた。心地よさを感じるようになっていた。――この時間がもっと続いて欲しいと、願うようになっていた。
(近づきすぎると、別れが辛くなる……)
エデュアルトとアラスティア様に頼りきっている現状から抜け出さなければ、と思う。近すぎる距離のままでいては、きっと別れの際、身を引き裂かれるような大きな悲しみに襲われるだろう。
休み明けの任務ではよりいっそう気を引き締めて、二人にできるだけ頼らないよう、程よい距離感を保てるよう心がけよう。目指すは独り立ちだ。
――なんて、心の中で硬く決意していたら、
「オリ、エッタ……」
「はい!」
名前を呼ばれて、反射的に返事をした。――が、私の名を紡いだ唇の持ち主は、硬く目を閉ざしたまま。
これは、もしかしなくても。
「……寝言?」
まさか寝言で私の名前を呼ぶなんて、どんな夢を見ているのだろう。夢の中の私も、エデュアルトに迷惑をかけていたりするのだろうか。
気になって、ついついエデュアルトの安らかな寝顔を覗き込んでしまう。起こさないようにそっと首を伸ばし――微笑を浮かべて眠る彼に、心臓が跳ねた。
そんな優しい表情を浮かべて、どんな夢を見ているのだろう。夢の中の“オリエッタ”に微笑んでいるのだろうか?
自然と口元が緩む。誰に見られている訳でもないのに、隠すように手で口元を覆い、目の前で眠る専属騎士にそっと囁いた。
「おやすみなさい、エデュアルト」




