49:女神ナディリナ
シスター・イネスに腕を引かれてやってきたのは、大聖女コレット様の執務室だった。
「コレット様、オリエッタを連れて参りました」
大聖女の執務室は大修道院の一番奥にある、限られた人間しか立ち入ることのできない空間だ。聖女候補生時代に足を踏み入れることなど一度もなかったし、“普通の”聖女であれば一生近寄らずに人生を終えるはずだった。
コレット様は私の横に立つシスター・イネスをちらりと見やると、
「オリエッタと二人だけにしてください」
そう言って微笑んだ。
隣でシスターが体を強張らせたのが分かる。しかしすぐに彼女は笑みを顔面に貼り付け、深々と頭を下げて退室した。――その間際、鼓舞するようにぎゅっと腕を強く握られる。
シスターが退室し、大聖女コレット様と執務室に二人きり。コレット様は私をじっと見つめるばかりで、口を開こうとしない。
(な、なに? どうすればいいの?)
こちらから呼び出された理由を尋ねた方がいいのか、それとも。
今取るべき言動が分からず、私はただその場に立ち尽くす。すると突然、コレット様が大股でこちらに歩み寄ってきた。
思わず後退しそうになった体に力を入れ、どうにか踏みとどまる。今にも鼻先が触れそうな距離で瞳を覗き込まれて、私は心の中で悲鳴を上げた。
コレット様は一体何を考えていらっしゃるのか――
「アラスティア、いるんだろ!? 顔見せろ!」
――鼓膜を揺らしたのは、初めて聞く女性の声。
ぱちり、と一度瞬きをする。目の前にあったコレット様の顔に驚きの表情が広がったかと思うと、背後から両肩を掴まれ、そのまま百八十度回転させられた。
ぐるん! と勢いよく強引に体の向きを変えられたことでふらついてしまう。咄嗟に体勢を立て直そうと下を向いたら、“誰か”に胸倉を掴まれた。
「く、くるし……」
自分の胸倉を掴んでいる人物の正体も確かめないまま、反射的に呻く。かなり強い力で制服の胸元をねじりあげるように掴まれているから、息が苦しいのだ。
「ナディリナ様! オリエッタに乱暴しないでください!」
背後でコレット様が声を荒げた。
助け舟を出してくださったことにほっと安堵し――そこでようやく、目の前の人物に意識が行く。
私の胸倉を掴んでいたのは金髪の女性だった。女性にしてはかなりの長身で、意志の強さを感じさせる釣り目にすっと通った直線的な鼻筋、そして大きな口も相まってかなりの迫力だ。
コレット様は彼女を、ナディリナ様と呼んだ。
(ナディリナ様……ナディリナ様って、あの?)
ナディリナ。その名前には聞き覚えしかない。
この世界を作ったとされる、女神様の名。世界中の人々が信仰する、女神様の名。私たち聖女に力を授けてくださる、女神様の名。
――今私の胸倉を掴んでいる迫力ある美人は、まさか。
「アラスティアがさっさと出てこないからだ。おいアラスティア!」
金髪の女性は眉を吊り上げ、私に向かって――違う、私の中にいるアラスティア様に向かって声を荒げる。
じわじわと、今自分が置かれている状況を理解しはじめた。
きっかけは分からないが、私の中にアラスティア様が“いる”ことがコレット様に露見したのだ。だからこうして呼び出され、コレット様、そしてナディリナ様(仮)に問い詰められている。
女神をこの身に宿しながら、シスターたちに報告しなかったことを咎められるだろうか。あぁ、どう説明したらよいのだろう。どのようなことを言われるのだろう。何も分からない。ただ一つ分かるのは――この場を収められるのはもう、アラスティア様しかいないということだけ。
「うっさいわね、ナディリナ!」
私の祈りが通じたのか、アラスティア様が私とナディリナ様の間に割って入るようにして現れた。――見慣れた手乗りサイズの女性姿で。
数秒、時が止まる。ナディリナ様とコレット様の表情から、すべての感情が抜け落ちる。
ナディリナ様が私の胸倉から両手を離した。かと思うと、緩慢な動きでアラスティア様を指さす。その指先は震えていた。
「ぎゃはははは! なんだそのちっせー姿! だせぇー!」
ナディリナ様は腹を抱えて大笑いした。体を折り曲げ、肩と指先を震わせ、目尻には笑いすぎたのか涙をためて、体全身で笑っている。おかしくてたまらない、といった様子だ。
(な、なんて笑い方を……)
その姿は“女神ナディリナ様”のイメージからはあまりにもかけ離れていた。
ナディリナ教の歴史が綴られた文献、女神様を讃える絵画、そして子どもに読み聞かせるおとぎ話の絵本など、ナディリナ様の姿が描かれたものは少なくない。媒体によって多少姿に違いはあるものの、慈悲深い笑みを浮かべ、お淑やかにたたずんでいるナディリナ様が“一般的”だ。
人々を見守り、導き、救う。美しく、穏やかで、優しい、慈愛にあふれる女神様――
「黙りなさい、ぐうたら女神!」
「うっせーマヌケのアラスティア!」
こんなに口汚く言い争うお姿が女神様の本当の姿なんて、きっと誰も信じないだろう。
やさぐれ女神のアラスティア様と出会ってから、女神という存在に対して夢を見ることはやめたはずだった。彼女たちにもそれぞれの考えがあり、感情があり、下手をすれば人間よりもよっぽど“人間らしい”のだと認識を改めた。
――それでも、目の前で罵り合う二人の女神様の姿に、大きなショックを受けずにはいられない。
「ナディリナ様、落ち着いてください!」
見かねたコレット様が女神二人の間に割って入った。すると思いのほかあっさりとナディリナ様は口を閉じる。
急に静かになった執務室にコレット様の咳払いが響いた。
「オリエッタ、あなたは女神の力のほとんどを乙女アドリアナに渡しましたね?」
「……は、はい」
突然問いを投げかけられて、私は何も考えず素直に頷いてしまう。
乙女アドリアナへ力を渡したことはシスターたちにも報告していない。それなのになぜコレット様は知っているのだろう。
「大修道院に帰ってきたあなたを見て、ナディリナ様が女神の力をほとんど失っていることに気づいたのです。……そしてその体の奥に、自分とよく似た、しかし違う力が息づいていることにも」
ジョウロが空になってしまったが故に、底に沈んでいた異物の存在にナディリナ様が気づいた――そういうことらしい。
ナディリナ様がコレット様の横に立つ。こうして立つとまるで姉妹のようだった。
「このふるくせー力はアラスティアじゃね? って思ったらビンゴ!」
ナディリナ様は手を叩いて笑う。黙って立っていればとても美しい女性なのに、口調はずいぶんと乱暴だ。
どう返せば正解なのか分からず、しかし何も反応しないのも不敬だと思い、辛うじて口角を上げる。そんな私の耳たぶをアラスティア様が力強く引っ張った。
「あんたのせいでバレたじゃないの!」
「す、すみません!?」
アラスティア様の言う通り、ナディリナ様にばれるきっかけを作ったのは私の軽率な言動だ。そのことには謝罪しつつ、内心アラスティア様のことがばれたという事実に安堵感を覚えていた。
エデュアルトを含めた三人でただ闇雲に聖地を訪ね歩いても、近いうち限界が来ていたのは明らかだ。今回大修道院側に女神アラスティア様の存在を知られたことで、コレット様たちの協力を得られるのではないか、とほのかな期待が胸を掠める。
先のことを考えると、今回の出来事は後々いい方向へ転びそうに思う。
「なぜアラスティア様があなたと一緒に行動しているのか、教えて頂けませんか?」
コレット様の問いかけに、私はアラスティア様を横目で見た。
私とやさぐれ女神様が行動を共にしなくてはならなくなった理由。それを知られたくないとアラスティア様が騒いだから、私たちはこそこそ三人で動いていたのだ。
「……話していいですか?」
「しょうがないわね」
アラスティア様は渋々頷いた。腹をくくったようだ。
正直ナディリナ様がどのような反応を示すのか、出会って数分の私でも見当がついた。きっと大口を開けて大笑いするに違いない。
自分がアラスティア様から聞いたことをそのまま、余計な情報や推測を挟まず端的に伝える。
私の魂が重かったせいで、アラスティア様が疲れ果ててしまったこと。赤ん坊の私の体の中でアラスティア様が眠っている間、愚かな私が女神様の力を吸い上げてしまったこと。そしてその結果――力を失ったアラスティア様が、私の体に閉じ込められてしまっているということ。
すべてを話し終えた瞬間、
「ぎゃはははは! だっせー! 赤ん坊の体に閉じ込められて出られなくなったとか! ダサすぎ!」
予想通り、ナディリナ様の笑い声が執務室に響いた。
あまりの大声に、声が部屋の外まで漏れてしまっているのではないかと心配になってしまう。
「いい加減その下品な笑い声をとめなさい!」
「ぎゃははは!」
「やめろっつってんのよこの女神!」
我慢できなくなったのか、アラスティア様はナディリナ様の顔面に突撃した。そして両手で頬を掴み、小さな体全身を使ってナディリナ様の顔をこねくり回す。
ナディリナ様も負けじとアラスティア様の体を鷲掴み、女神二人、ぎゃーぎゃーと言い争いながら床を転げまわって――
私の視界を遮るように、コレット様が顔を覗き込んできた。
「大修道院にはナディリナ様が特別な結界を張っています。ここにいれば、女神の力も自然と戻るでしょう」
「あ、ありがとうございます」
アドリアナ村でのアラスティア様の推測通り、大修道院でジョウロに水を継ぎ足しているようだ。
「それで、アラスティア様はまだあなたと繋がれている状態なのですね」
「はい。私が力をうまく使いこなせるようになって、たくさんの女神の力をアラスティア様の許まで届けられたら、離れられるようなのですが……。今は力の修行のために、御言葉の地を巡っています」
私はちらりとアラスティア様を見る。ナディリナ様との取っ組み合いの喧嘩は一段落したらしく、ぼさぼさになった髪を直しながら私の肩に腰かけた。
「ちまちま力をもらってても決定力に欠けるのよ。前に聖地でちょっとトラブルがあったときは、一気に力が流れ込んできていい感じだったけど」
「じゃあ放置された聖地の場所教えてやるよ。似たようなトラブルが起こるかもしれないだろ?」
ナディリナ様が肩で息をしながらニッと歯を見せて笑う。アラスティア様同様、美しい金の髪がぼさぼさだ。
聖地でのトラブルというと、守り主である大蛇に襲われたことを指しているのだろう。確かにあのトラブルを境にナディリナ様は多少力を取り戻したようだったけれど、正直言って似たようなトラブルは避けたい。
――なんて、言い出せるはずもなく。
「どこよ。さっさと教えなさいよ」
「待てよ、思い出すから」
「はぁー? 覚えてないの!?」
「アラスティアも覚えてないだろ!」
売り言葉に買い言葉。数言交わすだけで喧嘩をおっぱじめる女神様二人に、コレット様は大きなため息をついた。
大聖女様も普段ナディリナ様に手を焼いていらっしゃるのかもしれない。教団の運営に女神様のご機嫌取りもしなければならないとなると、随分と負担のかかる立場だ。
「どちらにせよ、オリエッタの力が回復するまでは大修道院でゆっくりしてもらいます」
間接的な休暇を言い渡されて、私の心は浮き立った。
しかしアラスティア様は納得しない様子でナディリナ様を睨みつける。
「あんたならさっさと回復させられるんじゃないの?」
「特別扱いはしねー主義だかんな」
「はぁ? ただ聖地の場所を思い出すのに時間が欲しいだけでしょ。あたしに恩売りたいのよ、このくそ女神は」
ぴき、とナディリナ様が青筋を立てたのが分かった。
「うるせーな! 教えてやらねーぞ!」
「別に頼んでないですぅ!」
そして再び言い争いを始めた女神様二人に今度こそコレット様は愛想が尽きたのか、無言で私の背を押して退室するよう促す。私は抗うことなく扉の前まで進み、深々と一礼してから執務室を後にした。




