48:聖女イレナの記録
仄かに明るくなってきた東の空を確認しながら、街へ向かって森を抜けている最中の出来事だった。
「あ、やばいかも」
女神アラスティア様が突然呟いた。かと思うと、私の前を歩く少年エデュアルトの頭に肘をつく。そして、
「エデュアルト、あと十秒ぐらいで元の体に戻るわよ」
そんなことを言い出した。
元の姿。それはつまり――十九歳の姿ということだろう。
突然告げられた言葉にエデュアルトは慌てふためき、
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
近くの茂みに姿を隠した。
それから数秒後、彼がいる方向の茂みがピカッと光る。きっと元の姿に戻ったのだろう。
茂みががさがさと揺れて、程なくしてよく知る姿のエデュアルトが現れた。大急ぎで着替えたのか、若干髪が乱れている。
「危なかった……」
ほっと息をついて、エデュアルトは前髪を掻き上げた。その顔をじっと見つめる。
女神様の力で体の“時”を戻してもらい、エデュアルトは少年の姿になっていたのだ。きっと村人たちに警戒されないようにするための最善の策だったのだろうけれど、体に負担がかかっていないかと不安になる。
「エデュアルト、体は大丈夫?」
「あぁ、特に違和感はない」
そう頷いたエデュアルトの顔色は悪くないし、嘘をついている様子もない。
安堵していつの間にか強張っていた体から力を抜いたのだが、
「あたしに労いの言葉はないのー?」
視界に割り込んできたアラスティア様の姿に驚いて、再び全身に力が入った。
確かに彼女にもきちんとお礼をしなければ。今回、アラスティア様がいらっしゃらなければ、こんなにスムーズに村を脱出することはできなかっただろう。
私は改めてアラスティア様に向かって頭を下げる。
「あ、ありがとうございました。アラスティア様がいらっしゃらなければ、私は今頃村で乙女の後継者になっていたかも……」
「本当よ。感謝しなさい」
「はい……」
今度何かお礼の品でも贈ろう、と秘かに考える。しかし女神様に贈り物をするとなると相当難しい。一体何がいいだろうか――
ううん、と頭を悩ませたときだった。くらりと眩暈がして、思わず近くの木に手をつく。するとすぐさまエデュアルトが肩を支えてくれた。
「オリエッタ、顔色が悪い」
彼は私の顔を覗き込んで、心配するように眉尻を下げる。
大丈夫、と笑おうとして、再び足元がふらついた。今回の騒動のせいで気疲れしてしまったのだろうか。
木から手を放し、どうにか一人で立つ私をアラスティア様は鼻で笑う。
「力をほとんどあの偽聖女にやったからよ。馬鹿ね」
偽聖女。それはおそらく、乙女アドリアナ――元聖女イレナのことを指した言葉だろう。
「とにかく大修道院に急いで戻ろう」
エデュアルトは有無を言わさず私をおぶり、力強い足取りで街まで向かった。
街についたのは朝日が顔を出し始めた頃。幸いにも街はそれなりの規模で、すぐに馬車を捕まえることができた。
馬車に乗り込んですぐ、疲労からか安堵からか私はすぐに眠ってしまって――次に目が覚めたときには、馬車は大修道院に到着していた。
「オリエッタ、立てるか?」
若干まだ眠気を引きずったままではあったが、一人で立ち上がっても眩暈はしないし、ふらつくこともない。エデュアルトの問いに首肯する。
彼はそれでも心配してくれている様子だったけれど、休むより先に、私にはやらなければならないことがあるのだ。
私は足早にシスターの許へ、今回の事件の報告のために向かった。
「そうですか、そのような村が……」
報告を聞いたシスター・リュクレースは頷いたきり、黙り込んでしまう。
私が報告したのは必要最低限の情報だ。アドリアナ村の村人に攫われたこと、その村は女神と聖女を憎んでいること、しかし指導者は元聖女であること、そして村の所在地。
数秒後、シスターは顔を上げる。
「分かりました。あとのことはこちらに任せなさい」
それきり、彼女はその場から立ち去ろうとした。
私は思わずその背に声をかける。
「あの! どうか、力で押さえつけるようなことは、その……」
足を止めたシスター・リュクレースは振り返った。そしてこちらを一瞥したかと思うと、まるで私の願いに応えるように小さく頷いた。
「今ここで強引な手を使えば、彼らだけでなくそれ以外の人々の不信も招くことになります。できる限り、対話で解決できるよう努力するつもりです」
そして口角を少しだけ上げる。いつだって厳しいシスター・リュクレースの笑顔を、私はこの時初めて見たのだった。
――今の私にできることは、シスターたちを信じることぐらいだ。
「よろしくお願いします」
大きく腰を折ってシスター・リュクレースを見送る。頭を上げたときにはもう、彼女の後姿はずいぶんと小さくなってしまっていた。
「大丈夫かしらね」
リスの姿になったアラスティア様が私の肩の上で呟く。
「シスターたちを信じることしか、私にはできませんから」
――その後、すぐに次の任務を告げられなかったため、時間に余裕が生まれた。
私は迷わず大修道院の図書室に向かった。そこには歴代の大修道院卒業生の名前が綴られた名簿が置かれており、資料から当代の乙女アドリアナとなったイレネ・フォルマーの名を探そうと考えていた。
ついてきてくれたエデュアルトと一緒に名簿に目を通す。攫われたのが七年前ということは、当然大修道院を卒業したのはそれより更に前になる。
大修道院の卒業生自体、そこまで多くはない。探す作業はそこまで手間取らなかった。
「イレナ・フォルマー……あった!」
どうやら彼女は私の二十期先輩――春と秋にそれぞれ卒業生がいるから、年で言えば十年先輩――のようだった。
同期生の中で一番上に名前が書かれているのを見るに、主席で卒業したようだ。
「かなり優秀な聖女だったようだな」
エデュアルトが私の手元を見ながら呟いた。
目線で資料を辿る。名簿には卒業年とともに、入学年も書かれているのだが――
「えぇ。大修道院に入ってすぐ、次の試験で合格してる……」
入学の同年に卒業している。間違いなく優秀な聖女だ。
そんな彼女がなぜ――と言っては失礼だろうか。
ぼんやりとイレナの名前を指先で辿っていたところ、
「……待て、彼女も一度任務に失敗している記録がある」
「え?」
エデュアルトが別の資料を持ちだしてきた。
彼が私に見せてくれたのは、聖女の任務報告書だ。聖女本人が書くこともあれば話を聞いたシスターが代理で書くこともある報告書だが、聖女の任務はすべてこうして記録に残っている。
誰が、どこに、どのような任務で赴き、どのような結果を得たか――それが分かるようになっているのだ。
エデュアルトが見つけたのは、イレナが聖女になってから一年経とうとしていた頃の、穢れの浄化任務の報告書だった。
任務結果の欄を目で追う。どうやら強い穢れをすべて払いきることができず、小さな子どもが犠牲になってしまったようだ。
「本当だ……」
正確にいうと、穢れの影響を受けた魔物が近隣の村を襲い、そこで犠牲者が出た、と報告書に綴られている。
――彼女はこのときのことを、今も鮮明に覚えているだろう。私が同じ立場だったら、一生悔やんでも悔やみきれない。
もしかしたら、と思う。
「このときの経験が、乙女になるきっかけになったのかしら」
「……そうかもしれないな」
答えたエデュアルトの声は沈んでいた。
私は思わず横のエデュアルトを見る。彼の視線は下を向き、表情も暗い。疲れが溜まってしまったのだろうか。
「エデュアルト、疲れた? 大丈夫?」
「いや、二度も君を目の前で攫われるなんて、専属騎士失格だな、と思って」
報告書を閉じ、エデュアルトは私を見つめる。
私に口を挟む隙を与えず、エデュアルトは続けた。
「すまない」
真摯に謝られて、私は咄嗟に首を振る。
確かに私は短期間で二度誘拐されたけれど、それはエデュアルトが力不足だったせいではない。一回目は私が勝手に首を突っ込み、二回目は人質を取られていたのだから。
「ううん! どちらもどうしようもない状況だったもの、そんな風に自分を腐さないで」
それでもエデュアルトの表情は晴れない。
私は彼をこの表情のままにしておくことはできなくて、思いつくままに続けた。
「それに、すぐに助けに来てくれたじゃない。本当にありがとう。私の方こそ、何度も迷惑をかけてしまってごめんなさい」
それはずっと思っていたことだ。いろんな意味で普通の聖女とは違う私は、エデュアルトに普通の専属騎士とは比べ物にならないぐらいの負担を強いているに違いない。何度謝っても足りないぐらいだ。
私からの謝罪に、エデュアルトは首を振って応えた。
「いや……君のような聖女に仕えることができて、俺は幸運だった」
「私のような聖女?」
「なんというか……躊躇わないだろう、オリエッタは」
躊躇わない。
いまいちエデュアルトの表現にピンとこず、首を傾げる。
「そうかしら?」
「あぁ。ダニエラ様が攫われたときも、ガブリエル様を助けるときも、リアナが人質に取られたときも、いつだって」
そこでようやくエデュアルトが言わんとしていることを察した。それと同時に苦笑する。
彼が躊躇わないと称してくれた私の面は、むしろ――
「考え無しなだけよ」
そう、後先のことを考えず行動しているだけだ。だからエデュアルトに迷惑をかけてしまう。
あはは、と己のことを笑ってこの場の空気を和ませようとした私の手首を、エデュアルトが掴んだ。――数時間前、少年の姿であった彼に掴まれたときは簡単に振りほどけたのに、十九歳の彼の力はとても強くて、振り払おうにもびくともしない。
「人を助ける際に咄嗟に動けることを、考え無しとは言わない」
銀の瞳がじっと私を射抜く。
数秒見つめ合い――先に視線を逸らしたのは私だった。
掴まれた手首が熱い。こうも真正面から見つめられると照れてしまう。
「て、照れるから、これぐらいにしましょう。ほら、イレナのことを――」
「聖女オリエッタ!」
不意に女性の声が私の名を呼んだ。
慌ててそちらを見やると、シスター・イネスがこちらに駆け寄ってくるところだった。だんだんと近づいてくる彼女の顔には汗が浮かんでおり、大層急いでいる様子なのが窺える。
手首を掴むエデュアルトの手の力が弱まった一瞬を見逃さず、私は逃れるように数歩前に出た。そうすれば自然とエデュアルトの手が外れる。
離れた熱にほっとしつつ、ほんの少しだけ寂しさを感じてしまった。
「シスター・イネス、どうされたのですか?」
正直言って、嫌な予感がした。シスターが汗をかくほど急いで呼びに来る用事は一体何なのだろう。
目の前の彼女は数度深呼吸をして、息を整えてから口を開いた。
「コレット様がお呼びです。すぐに来るようにと」
――大聖女コレット様からの呼び出し。
予想外の出来事に息を飲む。顔から血の気が引いたのは、破門一歩手前を告げられたあの日を思い出してしまったからだ。
今回は呼び出されるようなことはしていないはず。確かに制服を汚してしまって早々に新調した、といったことはあったけれど、大聖女様が出てくる局面ではないだろう。それならば、今回の報告に関することで? まさか――また破門の危機!?
シスター・イネスに腕を引かれるまで、私はその場に立ち尽くしていた。




