39:悪霊の正体
この日記の持ち主が噂の“悪霊”かもしれない。
その事実に私とアロイスさんは顔を見合わせて、しかし何も言えなかった。
長い沈黙が耳に痛い。私は再び日記に視線を落とし、女性に思いを馳せた。
若様との再会、そして駆け落ちに心躍らせる日記の文章に胸が痛む。
「きゃあああ――!」
――女性の悲鳴だ。
二人して弾かれたように扉を見た。
そう遠くない。隣か、せいぜい更にもう一つ隣の部屋から聞こえた。
「こっちです!」
アロイスさんが廊下に出る。そして彼が駆け付けたのは二つ隣りの部屋だった。
扉の前で顔を見合わせ頷きあう。アロイスさんが剣に手をかけたまま、勢いよく扉を蹴破った。
「――ぐっ!」
瞬間、まるで私たちを拒絶するように部屋の中から風が吹き荒れた。
アロイスさんの背後に守られながら私は目を凝らす。――と、見慣れた背中が床に膝をついているのを見つけた。
エデュアルトだ!
「エデュアルト!」
私は慌てて駆け寄る。彼は右腕を守るように抱きかかえていた。
右手の爪が鋭くとがり、手の甲には竜の鱗が浮かんでいる。竜の呪いが穢れに反応してしまっているようだ。
「すまない、ガブリエルさんが……」
エデュアルトの視線の先を辿る。そこには――まるで黒い靄に守られるようにして宙に浮かんでいるガブリエルの姿があった。
明らかに普段の様子と違う。蜂蜜の瞳は曇り、光を映していない。まるで何かに意識と体を乗っ取られているようだ。
「何があったの!?」
「声に導かれてこの部屋に辿り着いたんだが、扉を開けた瞬間に何かが襲いかかってきた。それで……すまない、何が起きたのか俺にも分からないんだ」
エデュアルトは険しい表情のまま首を振った。
先ほど聞こえた女性の悲鳴は、“何か”に襲われたガブリエルのものだったのだろう。
「ガブリエル!」
呼びかける。しかし彼女は応えない。
「まさか、穢れに体を操られてる……?」
「あり得なくはないわね」
アラスティア様が手乗りサイズの女性の姿で現れたかと思うと、私の耳たぶを引っ張る。そして、
「よく聞いてみなさい」
ガブリエルを指差した。
私はじっと宙に浮かぶガブリエルを見上げる。そしてアラスティア様のアドバイス通り目を閉じ、耳を澄ませた。
『裏切った……許さない……どうして来てくれなかったの……苦しい……助けて……』
――聴こえてきたのは女性の声。か細い声は、ガブリエルのものではない。
裏切った。許さない。どうして来てくれなかったの。
胸を締め付けるような悲痛な嘆きに、私はつい先ほどまで読んでいた日記を思い出した。
「やっぱり、あの日記の女性が……?」
若様と駆け落ちすることが叶わず、盗賊に殺されてしまった使用人の女性。
彼女は来てくれなかった若様を恨んでいるのだろうか。未練を残し、屋敷を彷徨う内に悪霊になってしまったのだろうか。
「オ、オリエッタさまぁ……」
アロイスさんが匍匐前進でこちらに近寄ってくる。
彼の顔は汗と涙でぐしゃぐしゃだった。しかし瞳は強い光をたたえたまま、戦意は失っていない。
彼はガブリエルを救おうとしている。
私は頷いて、アロイスさんに手を差し伸べた。彼はその手を取り、倒れこんだ状態から体を起こす。
「先ほどの日記を書いた女性の恨みが……この屋敷を呪っているのかもしれません」
人々の諍いで穢れはいとも簡単に生まれてしまう。であるならば、女性の嘆きから穢れが生まれ、この屋敷を呪っていたとしても不思議ではなかった。
死してなお、穢れを招くほどの女性の怨恨。大きな恨みは、彼女自身をも苦しめているはず。
「どうして……来てくれなかったの……」
ガブリエルは――女性は繰り返す。
本当であれば、女性がただ一途に待ち続けた若様を連れて来ることができれば一番いいだろう。しかし当然そんな時間はないし、そもそも若様がまだ生きているかすら分からない。
だから今から私がしようとしていることは、女神の力という大きな力を使った一方的な解放だ。女性がそれを望んでいるかどうかも分からない、押し付けともいえる行為だ。
――しかしたとえ独りよがりだと非難されようと、この場所に彼女一人を残したくはない。
「浄化しないと!」
私は立ち上がり、ガブリエルに向かって一歩踏み出した。しかし黒い靄がその行く手を阻む。強い向かい風に邪魔をされて前に進めないような状態だ。
しかし浄化をするためにはある程度近づかなければならない。力を使いこなせない私であればなおさらだ。
負けるもんかと足を踏ん張って、私は一歩踏み出した。その瞬間つるっと足元を滑らせてしまい――あ、と思ったとき、強い力で下からすくい上げられるように肩を抱かれた。
「オリエッタ!」
耳元でエデュアルトが名前を呼ぶ。彼が助けてくれたのだと理解した刹那、視界の半分を銀色の翼が覆った。
――この翼には見覚えがある。竜のエデュアルトの翼だ。
慌てて斜め後ろのエデュアルトを見た。私の肩を掴む右腕は完全に鱗に覆われており、頬にまで鱗が現れていた。若干目つきも鋭くなっているように思う。そして何より、彼の背から右片方だけではあるものの立派な翼が生えていた。
「大丈夫なの、エデュアルト!?」
明らかに竜の呪いがエデュアルトの体を蝕んでいる。今まで何度か爪が鋭くなっていたり、鱗が現れているところは見たけれど、翼が生えているのを見るのは初めてだ。
エデュアルトは眉間に皺を寄せて、しかし好戦的に笑った。
「呪いは、使いこなせば役に立つんだ……!」
黒い靄を大きな翼で振り払って、エデュアルトは一歩、また一歩と前に進む。彼に肩を抱かれたまま、私もまた着実にガブリエルに近づいて行った。
――エデュアルトの体が心配だ。けれど今は彼を信じて、ガブリエルの浄化を優先しなければ。
私は前を見据える。そして耳を澄ませ、“彼女”の声を聴いた。
「どうして……なんで……」
つ、と涙が頬に一筋の道を作った。
(彼女を蝕んでいるのは怨恨じゃない、深い深い悲しみだ!)
呪いを解くには、そして穢れを浄化するには、その原因を知る必要がある。
一人孤独に想い人を待ち続けた彼女。再会することなく、不運にも盗賊に殺されてしまった彼女。
その心に巣くうのは深い悲しみ。愛する人と結ばれなかった嘆き。そして今もなお屋敷を彷徨い、生まれ変わることもできずにいるほどの、未練。
私は腕を伸ばす。そして宙に浮かぶ彼女を引きずり下ろすように、その足元に抱き着いた。
(気づけなくて、ごめんなさい。長い間ずっと一人にしてしまって、ごめんなさい)
必死に呼びかける。私にはそれしかできなかった。
ゆっくりと、彼女の体が下りてくる。私はその体を抱き寄せるようにして、胸元に抱き込んだ。
(どうか、ゆっくり眠って……)
全身をかけ巡るあたたかな何か。そしてあたりに満ちる光。
ずっしりと体にまとわりついていた重々しい気配が消え、ふ、と体から力が抜けた。
私は自分ごと床に倒れこむようにして、ガブリエルの体を寝かせる。彼女は瞼を閉じていたが、顔色は悪くない。
安堵のため息をつき、ガブリエルから体を離す。するとすかさずアロイスさんがすごい勢いで飛んできたかと思うと、ガブリエルの体を抱き抱えた。
「ガブリエル様! 大丈夫だが!?」
アロイスさんの横顔は汗と涙でぐちゃぐちゃだ。
彼の声に意識を取り戻したのかガブリエルはゆっくり瞼を開ける。そして、
「……それ、どこの言葉?」
ふ、と優しく笑った。
まさかガブリエルの意識が覚醒するとは思っていなかったのだろう、アロイスさんは狼狽えたように視線を泳がせたが、ガブリエルの柔らかな笑みにつられるようにして、彼もまた微笑んだ。
「き、北の言葉、です」
「今度、教えて……」
再びガブリエルは瞼を閉じる。今度こそ意識を失ったようだ。
アロイスさんの腕の中で、ガブリエルは穏やかな寝息を立てていた。もうきっと大丈夫だと思い、私も最後の力を振り絞って起き上がる。
あたりを見渡す。ガブリエルを覆っていた黒い靄はどこにもない。それどころか窓からは暖かな日差しが差し込んでいる。
穢れ特有の焦げ臭さもすっかり消えた。さてこれで一安心だとほっと息をついたところ、
「う……」
「エデュアルト!」
背後でエデュアルトが膝をついて俯いていた。その背に翼はないことから、彼を蝕む呪いも多少は落ち着いたのだと推測できるが、苦しんでいる様子を見るのは心臓に悪い。
「だ、大丈夫!? 翼は!? どこも痛くない!?」
「背中……」
「見せて!」
私は慌ててエデュアルトの背後に回る。
翼によって服の背中部分はボロボロになっており、肌が露出していた。翼が生えていたのであろう部分は赤い切り傷のようになっている。しかしその周りに竜の鱗が浮かんでいる様子はなく、ひとまず安心した。
背中の切り傷のような跡は消える様子がない。傷であるのならば女神の力で治癒できるかもしれないと思い、そっと手を当て、意識を集中させた。
ポゥ、と淡い光を発したかと思うと、切り傷はきれいさっぱり消える。どうやら無事に治療できたらしい。
エデュアルトは丸めていた背を伸ばし、
「……もう大丈夫だ、ありがとう」
力なく微笑んだ。
疲労からか顔色が悪いが、無理をしている様子はない。エデュアルトの言った「大丈夫」という言葉を信じていいだろう。
――浄化任務は完了、満身創痍だが聖女も専属騎士も全員無事だ。
力を使った疲労感と安堵感で、私は再びその場に倒れこむ。
「よ、よかったぁ〜」
冷たい床が気持ちいい。聖女の純白の制服はドロドロに汚れているけれど、これ以上なく清々しい気持ちだった。
どこからか入ってきた風が頬を撫でる。その風に誘われるようにあたりを見渡すと、バルコニーへ出るガラス張りの扉を見つけた。
ガラスはほとんど割れてしまっているから、風の通り道ができているのだろう。心地よい風に目を細めた瞬間、
『ありがとう』
耳元で誰かがそう囁いたような気がした。
振り返る。そこにはエデュアルト以外、誰もいない。
女性の声だった。当然エデュアルトではないし、アラスティア様の声にしては穏やかすぎる。それに、彼女が私にお礼を言う理由もない。
――もしかしたら、と思う。
私に都合のいい空耳かもしれなかった。しかし、それでも。
「どうか……安らかに」
窓の向こうに広がる青空を見上げながら、そっと囁いた。




