32:女神様が愛した湖
御言葉の地に心あたりがある。
突然そんなことを言い出したエデュアルトは、その後すぐに馬車を用意して、私を連れだした。
あまりに突然のことで促されるまま馬車に乗り込んだ私は、流れゆく景色を眺めながらしばらく唖然としていて――馬車に揺られること数分、ようやく我に返る。
聞きたいことは山ほどあったが、まず行き先を知りたかった。
「どこに向かっているの?」
「叔母の家だ。俺はまだ幼い頃、呪いのせいで他人からの視線に過敏になっていて……山の麓にある叔母の家に身を寄せていたんだ」
エデュアルトの幼少期を思い、胸が痛む。
エッセリンク家が竜に呪われている話はそれなりに有名なのだろう。呪いのことで後ろ指を指されたことだってきっとあるはず。
幼い子どもが周りからの目を恐れ、敏感になってしまうことは、悲しいかな、当然のことかもしれなかった。
「そこで女神様が愛した湖の話を聞いたことがある」
『何でそれを早く言わないのよ、ポンコツ』
エデュアルトの頬をつつく小鳥はアラスティア様だ。彼女は攻撃手段を持つ小鳥や猫、前足をある程度自由に動かせるリスの姿を好んでいるようだった。
アラスティア様の嘴が頬に突き刺さろうと、一向に気にしない様子でエデュアルトは答える。
「幼い頃のぼんやりとした記憶だったし……任務があるだろう。オリエッタに無理はさせられない」
『へーへー、過保護ね』
アラスティア様の視線がこちらに向く。私としては苦笑で躱すことしかできなかった。
エデュアルトが専属騎士になった理由は家から逃げるためだったとしても、向けられる心はずっと本物だ。いつだって私を慮り、体を張って守ってくれた。アラスティア様に「過保護」と揶揄されようと、彼の心遣いが嬉しい。
――やがてついたのは、山の麓に建てられた小さいながらも立派な山小屋だった。どうやらここが“叔母様”の家らしい。
エデュアルトのエスコートで馬車から降りている最中、扉が開いて一人の女性が現れた。家の前に突然馬車が止まったのだ、不審に思ったのだろう。
怪訝な表情で目を細めてこちらを見ていた彼女だったが、数秒後、馬車の前に立っているのが甥――エデュアルトだと分かったようだ、笑顔を浮かべて駆け寄ってくる。
「エデュアルト!」
「ティナ叔母さん!」
私の目の前で、エデュアルトと“ティナ叔母さん”は抱擁を交わす。随分と親しいように見えた。
エデュアルトは再会の感動で瞳を潤ませる叔母様に、自分の近況を手短に説明した。竜の呪いで聖女の世話になったこと、そしてその聖女に今専属騎士として仕えていること、目的地が近かったので寄らせてもらったこと――
叔母様の視線が私へ向く。叔母様と呼ぶのにためらいを覚えてしまいそうなほど若々しい女性だった。
「オリエッタ、叔母のアルベルティナだ。彼女は俺が今仕えている聖女オリエッタ」
「あらまぁ! お世話になっております!」
アルベルティナ様は溌溂と笑われる方で、エデュアルトのお母様・マリエッテ様と血のつながりを感じさせた。女性が元気な家系のようだ。
「こちらこそ、エデュアルトには助けられてばかりで――」
その後ひとしきりの挨拶を交わした後、叔母様は山へ山菜を摂りにいくと出かけてしまった。エデュアルト曰く、じっとしていることができない方のようだ。
叔母様を見送った後、エデュアルトは勝手知ったる様子で屋敷に入ると、客間まで案内してくれる。
『んで? 噂の湖はどこ?』
「裏の山を登った先にある。明日の朝発とう」
だから今日はもう休め、と言われた気がした。
私はエデュアルトの頬を未だにつつくアラスティア様を回収して、案内された客間に落ち着いた。ただ荷物も何も持っておらず、身一つで来てしまったためやることがない。
アラスティア様はすっかり飽きてしまったようで、私の中へと戻った。
部屋の窓から外を眺める。このお屋敷自体は山の麓にあるから、周りを木々に囲まれている――とまではいかないけれど、なんだか空気がおいしい気がした。澄んでいるというか、なんというか。
ベッドに座ってぼんやりしていたら、夕食のお誘いを頂いた。二つ返事で頷いて、叔母様がとってきた山菜がふんだんに使われた夕食を頂く。
「まったく、手紙の一つも寄こさないんだから。聖女様が来てくださったのに、こんな質素な食事しか出せないなんて……」
「そんな、大修道院の夕食よりよっぽど豪華です」
ぼやくように言った叔母様にフォローの言葉をかける。決して嘘ではなかったのだけれど、叔母様は私が慰めのために嘘をついていると思ったのか「お優しいんですね」と控えめに笑った。
「それにしても、あの坊やが聖女様の専属騎士なんてねぇ。名誉ある仕事じゃないか」
嚙みしめるようにしみじみと、エデュアルトを見つめながら言う叔母様。その瞳にはもしかしたら、幼い頃のエデュアルトが映っているのかもしれない。
「聖女様、この子のこと、どうかよろしくお願いします。ちょーっと厄介な呪いを持っているけど、剣の腕は間違いないし、真面目で一生懸命ないい子ですから」
叔母様はこちらに身を乗り出して、更には頭を下げた。その際、彼女の美しい髪の先がスープに入りそうで内心気が気でなかったのだけれど、一刻も早く顔を上げてもらうべく「はい」と力強く頷く。
「エデュアルトが優れた騎士だということも、とても誠実な方だということも、一緒にいればすぐに分かります。むしろ私の方がこれからもよろしく、とお願いしたいくらいで……」
彼女は私の答えに顔を上げて、横に座るエデュアルトの脇腹を小突いた。
エデュアルトは若干居心地の悪そうな、なんとも言えない顔をしていて、こちらと目を合わせようとしない。
「なぁに照れてるのさ。いい聖女様に拾ってもらったね」
「……あぁ」
拾ってもらったのはむしろ私の方では――と思いつつ、まるで親子のような叔母と甥の間に割って入ることは憚られて、私は二人の様子を微笑ましく見守っていた。
――翌朝、山菜をふんだんに使った朝ごはんを頂いた後、私たちはさっそく“女神様が愛した湖”に向かうべく屋敷を出た。
最初は意気揚々と足取り軽く裏の山を登り始めたのだが、
「結構、登るのね……」
思ったより山道は険しく、十分も登ると息が切れてきた。
「情けないわよ、オリエッタ」
そう言うアラスティア様は背中に生えた羽で優雅に宙を飛んでいる。ずるい。
「だったらアラスティア様がおぶってください」
「やーよ」
煽るように私の目の前でくるりと回転してみせるアラスティア様。その額には汗一つ浮かんでいない。憎らしい。
額どころか顔全体に浮かんだ汗をハンカチで必死に拭う。今日、聖女の制服を着ていなくてよかった。こんな山道を歩いては、あの純白の制服は泥だらけになっていたことだろう。
近くの木の幹に手をついて、はぁ、と一瞬足を止めたとき、
「俺がおぶろうか?」
エデュアルトがとんでもない提案をしてきた。
驚きに顔を上げる。しかし彼は冗談を言っている風でもなく、むしろ眉尻を下げて心配そうにこちらを見ていた。
――こういうところ、あるのよね。
いつか彼は天然で女の子をひっかけてしまうのではないか、と若干心配に思いつつ、私はぶんぶんと首を振った。
「それは流石に大丈夫!」
――その提案を断ったことを後悔しだしたのは、それから更に十分後。
険しい山道は緩むことなく、私の足は悲鳴を上げていた。汗のかきすぎで顔が溶けているかもしれない、なんて馬鹿なことを考えるぐらいには、心身ともに疲弊していて。
「もうすぐだ」
エデュアルトがそう言って励ますように私の背を軽く叩いた。
ゴールが近いと聞いて、少しだけ足取りが軽くなる。額の汗を拭って、大きく息を吸った。
一歩一歩確実に前に進む。だんだんと傾斜が緩やかになり、そして――周りを木々に囲まれた、“女神が愛したという湖”にたどり着いた。
「きれい……」
その場に立ち止まり、呟く私の手をエデュアルトがとる。そして湖の近くまで手を引いてくれた。
水面を覗き込む。汗と土でドロドロになった自分の顔が映って咄嗟に「うわっ」と声がこぼれたけれど、鏡代わりになるほど水面が透き通っているのだ。こんな美しい湖が、山頂にあるなんて。
「あら、ここ……見覚えがあるわね」
「本当ですか!?」
アラスティア様の言葉に、もしかしたら“当たり”かもしれない、と気持ちが高揚する。
周囲を興味深そうに飛び回る女神様を横目に、エデュアルトに問いかけた。ようやく息が落ち着いてきた。
「エデュアルトは叔母様からこの場所を聞いたの?」
「いや、叔母の家に預けられて、一人では何もすることがなかったんでな、暇つぶしに探検していたら迷い込んだんだ。叔母にその話をしたら“そこは女神様が愛した湖なのよ”と教えてくれた」
「へぇ……」
“女神様が愛した湖”。それが真実か偽りかは別として、そう呼ばれるのも納得の美しさだ、と再び水面を覗きこんだ。――そのときだった。大きな咆哮が耳を劈く。
咄嗟にエデュアルトに抱き寄せられた。彼の腕の中で、私はあたりを見渡す。
「なっ、なに!?」
「魔物か!?」
エデュアルトは私を背後に庇い、剣を抜く。
再び咆哮が響いた。水面がびりびりと震える。――湖の中に、何かいる!?
アラスティア様が水面を指さす。そして叫んだ。
「違う……聖地の守り主よ!」
まるでアラスティア様の声が合図だったかのように、湖から一つの影が飛び出てきた。
――“それ”は大蛇によく似た姿をしていた。
唖然と見上げる私の肩を、エデュアルトが力強く押す。ここにいては彼が思うように戦うことができない。とにかく離れなければと、急いでその場から離れた。
大きな木の幹を盾にするようにその影に隠れ、様子を伺う。
太く長いしっぽがエデュアルトに襲い掛かっていた。彼はどうにか剣でそれをいなしていたが、全身を覆っている鱗のせいで剣が通らないらしく、苦戦しているようだった。
アラスティア様は“あれ”を聖地の守り主と言った。それならばなぜ、私たちを襲うのだろう。
「聖地の守り主がどうして襲ってくるんですか!」
「長くこの場所を放置してたせいで、穢れが溜まったんだわ!」
じっと目を凝らせば、大蛇の後ろに黒いオーラが漂っている。遅れて、焦げた臭いが鼻孔をくすぐった。
――どうやら穢れに襲われ、我を失っているようだ。
「あの石碑の穢れを浄化しなさい!」
アラスティア様が指差した先、そこには小さな石碑が倒れていた。長年放置されていたのか、苔に覆われている。あの石碑から黒いオーラが生み出されているように見えた。
石碑の許にたどり着くには、大蛇の近くを通らなければならない。できるだろうか。いいや、やらなければ。
激しい戦闘を繰り広げる専属騎士と守り主の様子を横目に、じりじりと石碑への距離を詰めていく。――あと少しのところまできたとき、大蛇の尻尾がエデュアルトの体を激しく打ち付けた。
「エデュアルト!」
起き上がりかけて、ぐしゃりとその場に崩れてしまうエデュアルト。すかさず大蛇は追撃を食らわせようと尻尾を振り上げる。
――もう、無我夢中だった。
「だめ――!」
エデュアルトを守りたい。彼に傷ついて欲しくない。その一心で手を伸ばす。
光があたりに満ちて――私は意識を失った。
***
どしん、と体に衝撃が走って、強制的に意識が覚醒した。高い場所から落とされたような衝撃だ。
ごほごほと咳込みながら、私はあたりを見渡す。
「ここ、どこ……?」
背後には湖。周りには木々。――女神様が愛した湖だ。
しかし穢れた守り神の姿も、エデュアルトの姿もどこにもない。彼は無事なのだろうか。もしや私はあの後死んでしまって、ここは天国――?
一体何が起こったのか分からず、唖然と専属騎士の名を呟いたそのとき。
「――……っあー! 石碑!」
女性の声が鼓膜を揺らした。
一瞬驚いたものの、聞き慣れた声に体から力が抜ける。この声はアラスティア様だ。
ほっとしたのもつかの間、アラスティア様は私の頬を引っ張る。
「今ゴトッて言ったわよ!?」
彼女が指さしたのは倒れてしまった石碑だった。
この石碑は私が浄化しようとしたもので――壊してしまったかもしれない、と顔から血の気が引く。
「そんなこと言われても! だって私、意識なくて……!」
とりあえず直そうと倒れた石碑を拾い上げる。――と、ここで違和感を覚えた。石碑が苔に覆われていない。多少汚れてはいるものの、先ほど見た石碑と比べるととても綺麗だ。
どういうことなのだろう。守り主もエデュアルトもいない。石碑も汚れていない。けれどアラスティア様はいる。ここは天国? 夢? 幻?
途方に暮れて、手の内の石碑を唖然と見下ろしていたら――がさり、と背後の草木が揺れた。
「誰!?」
慌てて振り返る。そこに立っていたのは、一人の少年だった。
彼は私――見知らぬ女性の姿に、銀の瞳を丸くしていた。数秒その場に立ち尽くしていたが、何を思ったのかこちらに向かって走ってくる。
「あ、あの、大丈夫ですか? 顔色が……」
どうやら彼は、私のことを心配してくれているらしい。
優しい少年の心遣いに感謝しつつ、とりあえず安心してもらおうと微笑みかける。すると少年はほっとした表情を浮かべ、こちらに向かって手を差し伸べた。
小さなその手を取って立ち上がる。きらり、と日の光を受けて輝く銀髪がまぶしい。
――ん? 銀髪、銀目?
その容姿的特徴に、ある一人の人物が脳裏を過ぎ去る。この少年は、まさか。
(ううん、ありえないわ!)
銀髪銀目。珍しい髪色と瞳の色ではあるけれど、そんなまさか。
思い浮かべてしまった可能性を即座に否定する。だってありえない。この少年が――
「ねぇ、こいつ、竜臭いわよ」
ぽつり、と耳元で呟いたのは女神・アラスティア様。
――竜臭い。
彼女がそう称した人物は、一人しかいない。
そう――私の専属騎士、エデュアルト・エッセリンクただ一人。
(そんな、まさか……エデュアルト?)
こちらを不思議そうに見上げる銀の瞳。その宝石のように美しい瞳をじっと見つめ――面影を、見つけてしまった。
この少年は、エデュアルト? だとしたら――私たちは過去の世界に来てしまったのだろうか。




