26:守りたい場所
招かれた孤児院は、あまりよくない言い方をしてしまうけれど、孤児院とは思えないほど豪華で美しい建物だった。どこか教会と似た作りをしていて、高い天井にゆとりを持った間取りはそんじょそこらの民家なんて目じゃない。半開きになったドアから覗いた室内は、聖女候補生の寮より居心地がよさそうだった。
一方で案内された応接室は質素な作りになっており、この孤児院はどこまでも子どもたちのことを考えて作られたものなのだと言われずとも分かった。
『孤児院にしては綺麗すぎじゃない?』
リスの姿になって私の胸元に潜んでいたアラスティア様は、呆れるような声音で続ける。
『こんな孤児院を建ててたんじゃあ、金がなくなるのも当然ね』
悲しいかな、女神様の言い分はもっともだった。
いくら貴族と言えど、こんなに立派な建物をいくつも建てていては資金も底がつくに決まっている。孤児院はこの一棟だけではないのだろうし、これだけ立派だと暮らせる子どもの数も多いはずだ。一か月の生活費も馬鹿にならない。
「ここ数年、不作が続いておりまして。このままだと、孤児院をいくつか畳まなければならなくなりそうなのです」
ホルガー様がテーブルの上に紅茶を差し出しながら、端的かつ分かりやすく教えてくださる。
紅茶からはとてもいい香りがしたけれど、私もエデュアルトもとても手を伸ばす気にはなれなかった。
「教団からの支援金で、解決できるとはとても思えませんが……」
エデュアルトの指摘に私も小さく頷く。
確かに教団からの支援金はそれなりの額だ。しかしそれはあくまで一般家庭が生活に困らない程度の額であって、こんなにも立派な孤児院を支えていけるような額ではない。
多少の足しにはなるだろうけれど、そもそもの原因――不作をどうにかしなければ、またすぐ資金難に陥ってしまうのではないか。
ホルガー様は頷いて、向かいのソファに座った。
「不作の原因は、領地外から持ち込まれた害獣です。教団からの支援金は害獣駆除に宛てたいと旦那様は考えております」
なるほど、とエデュアルトと目を合わせて頷き合う。
原因ははっきりしていて、その原因を取り除く方法も、おそらくは見当がついているのだろう。けれど資金が足りない。だからダニエラ様が聖女候補生になることで、その資金を調達しようとしている。
至極分かりやすい理由だった。だからこそ、ダニエラ様もどれだけ聖女になりたくないと喚こうが、心の奥底では諦めているのだろう。
教会で見た、俯く彼女の姿が脳裏に蘇る。
「オリエッタ様。ダニエラ様は……うまくやっていけるでしょうか」
問いかけてくるホルガー様の声は若干震えていた。
ここで彼を安心させるために、取り繕うのは簡単だ。けれど、それはあまりにも不誠実な気がして、私は言葉を詰まらせた。
劣等生だった私は、それ故にたくさんの候補生を見てきた。その中には言動が多少雑な子もいたけれど、聖女になる頃にはしっかり淑女の振舞を身に着けていた覚えがある。
ダニエラ様も、彼女のようになれるだろうか。
「……正直、大修道院での生活は、ダニエラ様には窮屈だと思います」
あの子も、言葉遣いにテーブルマナーに、と周りよりいっそう苦労しているように見えた。一番しんどそうなときは目の下に濃い隈を作って、もう帰りたい、なんて弱音を吐いていた。
きっとダニエラ様も、苦労なさるに違いない。――けれど。
「シスターたちは面倒見がよく、候補生たちも各地から集まってきますから、きっと気の合う友人にも巡り合えると思います」
その言葉は決してホルガー様を安心させるための嘘ではなかった。
前代未聞の劣等生だった私でも、シスターたちは決して諦めず最後まで付き合ってくれた。候補生たちだって、全員が全員仲が良いというわけではないけれど、生活を共にする中で互いに情が湧いてくる。私のことを万年候補生として遠巻きに見てくる子もいれば、気さくに声をかけてくれる子だっていた。生まれも年齢もバラバラで、きっとダニエラ様と気が合う候補生だっているだろう。
ホルガー様は何も答えない。己の組んだ手をじっと見下ろして、考え込んでいるようだった。
沈黙に支配された応接室に、遠くから子どもたちの笑い声が聞こえてくる。
穏やかな日差し。爽やかな風。子どもたちの笑い声。これ以上なくあたたかな空間だった。
「素敵な場所ですね」
ホルガー様はバッと顔を上げる。かと思うと、僅かに口角を上げた。初めて見る笑顔だった。
「私たちは、お嬢様は、この場所を守りたいのです」
あなた方にこの場所をお見せしたかった、とホルガー様は言う。
多くのことを語らない彼がなぜそのように思ったのか、教えてくれることはなかった。ダニエラ様への悪印象を払拭したかったのか、私たちに力になって欲しかったのか、それともまた別の理由なのか、分からない。
それきり会話は途切れて、ダニエラ様に見つかる前にと孤児院を後にした。裏口から通りへ出た際、孤児院を振り返る。すると庭で笑顔で子どもたちと遊ぶダニエラ様の姿が見えた。
家族のために、子どもたちのために望まぬ運命と向き合おうとしている、貴族の少女。
単純だ、騙されやすい、なんて言われるかもしれないけれど、つい先ほどまで感情的に叫ぶ少女だと思っていたダニエラ様の横顔が、やけに大人びて見えた。
***
シャイベ子爵の屋敷へ戻る途中、リスの姿をしたアラスティア様の指先が、右頬をつんつんと遠慮なく突いてくる。
『んで? これからどーすんのよ?』
「そう言われましても……」
言葉に詰まる。
私が子爵やシスターから依頼されたことはあくまで聖女として質問に答えるだけであって、ダニエラ様の説得ではない。正直依頼は達成したと言っていいだろう。――しかし、気持ちが晴れない。
俯いた私の横で、エデュアルトがため息交じりに口を開いた。
「これ以上俺たちにできることはないだろう。そもそもダニエラ令嬢は納得していないとはいえ、聖女候補生になるつもりのようだったしな」
エデュアルトの言う通りだ。
ダニエラ様は既に覚悟を決められているようだったし、私が呼ばれたのも彼女の希望ではなく、シャイベ子爵の親心からだ。きっと子爵は娘が抱いている疑問を直接聖女に答えてもらうことで、少しでも不安を取り除けたら、なんて考えていたのだろうけれど――
正直、あまりいい方向に進めることはできなかった。彼女の素を盗み見るような形で知ってしまってからは、きちんとした応答すらできていない。
「そうね……。あんまり私が来た意味なかったかも」
ベテラン聖女であればダニエラ様の質問から、彼女が心の奥底に抱いている不安をうまく紐解いて、導くこともできたかもしれないが――私にはまだまだできない芸当だ。
「オリエッタの話で、大修道院での生活のイメージは多少ついたんじゃないか」
落ち込む私を見てか、すかさずエデュアルトがフォローしてくれる。その言葉を嬉しく思うのと同時に、ますます己の力不足を実感した。
彼のように、相手が欲しいと思う言葉を敏感に察知して、伝える能力が私にもあればいいのに。
「もっと色々話してくれたら、少しでも不安を取り除くお手伝いができるかもしれないけど……」
それこそ、“素”のダニエラ様ともう一度きちんと話をしてみたかった。なんでもあけすけに聞いてもらった方がこちらも答えやすい。
どちらにせよ聖女候補生になるのなら、嫌々なるのではなくて、納得した上でなった方がいいに決まっている。親切心を押し付けるようだが、少しでも彼女の気持ちを軽くしてあげたいと思うようになっていた。
しかし“素”を知ってしまった私たちと話す気はダニエラ様にはあまりないようだし――と、そこで鞄にしまったままの“パンフレット”の存在を思い出した。ナディリナ教団や大修道院について簡潔に書かれた、前世で言う学校の入学パンフレットのようなものだ。
「そうだ、パンフレット! 渡し損ねていたから、夕食後にお部屋に届けて、少しだけ話してみるわ」
とにかくもう一度、会話を試みたかった。
「俺も行こうか?」
「大丈夫。休んでて」
エデュアルトの気持ちは嬉しかったが、首を振って断る。
一対一の方が話しやすいこともあるだろう。腹を割って、互いに取り繕わず、話すことができたら。拒絶されたときは深追いせず、大人しく引き下がろう。
そう心に決めて、その晩私たちは子爵家でお世話になった。夕食の場にダニエラ様が現れず――体調不良と本人は言っているらしい――早速雲行きが怪しくなってしまったが、私は自分を奮い立たせて彼女の自室の前に立つ。そして何度か深呼吸をしてから、扉をノックした。
「ダニエラ様、遅くに申し訳ありません。オリエッタです。お渡しするのを忘れてしまった大修道院の案内パンフレットを――」
そのときだった。
部屋の中から、ガラスが割れる音がした。そこまで大きな音ではない。カップか花瓶か、小さな何かを割ってしまった音だろう。
私のノックで驚かせてしまったのかもしれない、と扉越しに謝るべく身を寄せて――小さなくぐもった悲鳴が、聞こえた。
反射的に「失礼します!」と私は目の前の扉を開けていた。鍵はかかっていなかった。
「ダニエラ様!?」
扉を開けた先、視界に飛び込んできたのは熊のような大男に抱き上げられるダニエラ様。布で口を塞がれているせいで声が出せず、それでも必死に抵抗する彼女を、小さな人影が二つ、抑え込むように囲んでいる。
男たちはその顔に、麻袋をかぶっていた。
――誘拐だ!
そう判断した私は、とにかくダニエラ様を助けなければという一心で、彼女を抱き上げる男の体に勢いよく突進した。そして無礼だと分かってはいたが、ダニエラ様のドレスを両手でむんずと掴む。
『ちょっ、オリエッタ!』
アラスティア様が焦ったように私の名を呼んだ。どうやら服の胸元に潜んでいたアラスティア様――リスは、私が男に突進した拍子に外へ放り出されてしまったらしい。
床の上で足をばたつかせるリスの姿に、きっと後で怒られるに違いないと心の中で謝罪しつつ、腹の底から叫んだ。
「誰かー! 助けてー!」
私が助けを呼ぶと、小さな人影がにわかに焦りだした。
「どうすんだよ!?」
随分と声が高い。もしかしたら子どもかもしれない。
「連れてくしかない!」
瞬間、両足が浮いた。抱き上げられたのだと気づいたときには、男の小脇に抱えられて、バルコニーへ出ていた。
「オリエッタ!」
私の声を聞きつけたエデュアルトが、鬼気迫った表情でやってくる。しかし、彼の手がこちらに伸びた瞬間、私たちを抱えた男がバルコニーから飛び降りた。
――ここ、二階なのに。
初めて感じる浮遊感と、確かな恐怖に、私は情けなくも気を失ってしまった。




