02:最後のチャンス
アウローラ王国の国章が刻まれた馬車で連れてこられたのは、自然豊かな港町の一角にある、それなりに立派なお屋敷だった。貴族の屋敷と比べると多少見劣りするが、上品な外観に十分な広さで、古くから続く騎士の家という肩書きにぴったりな、とても素敵なお屋敷だ。
両開きの扉が開いた先で私とシスター・イネスを出迎えてくれたのは、髭を蓄えた壮年の男性だった。
「シスター、聖女様、ようこそいらしてくださいました! エッセリンク家当主・クレマンと申します」
目元に刻まれた皺は優しげで穏やかな印象を受けるが、流石は騎士の家の現当主、体つきは服の上から見てもかなりがっしりしているように見える。交わした握手も力強く、自信と活気に満ち溢れている当主クレマン様の姿に私は気後れしてしまう。
名門の騎士の家に生まれ、成果を挙げ、美しい妻を娶り、妻との間に得た子を跡継ぎとして育てる。そんな誰もが羨む人生を送ってきたのだろう。その裏には苦難がありそれ相応の努力もされてきたのだろうが、確かな自信に裏打ちされた堂々とした振る舞いは、私の目にはとても眩しく映った。
――私は呪いを解けなければ破門される。本当に成し遂げられるだろうか。万年聖女“候補生”の、私に。
私とシスターは広間へと招き入れられて、勧められるがままに上品なソファへと腰掛ける。
「お恥ずかしい話ですが、我がエッセリンク家は竜に呪われている家系でしてね。呪いの紋章が代々引き継がれていくのです」
クレマン様はため息をつきながらテーブルの上に一枚の肖像画を差し出してきた。
描かれていたのはまだ幼さが抜けきらない少年だった。彼の剣のように研ぎ澄まされた銀の瞳はこちらをじっと見つめている。かなりの美少年だ。
「これが私の若い頃の肖像画です。ほら、右の手の甲に不思議な形の痣があるでしょう」
美しい顔立ちに気を取られるばかりで、クレマン様に教えてもらうまで“紋章”の存在に気づくことができなかった。言われてようやく少年の右の手の甲に目線をやれば、なるほど確かに不思議な形の痣が描かれている。
これが竜に呪われた証、呪いの紋章か――としみじみと眺めていたところ、血管が浮かぶ逞しい手が視界に割り込んできた。わっ、と驚きに居住まいを直し、
「しかし、今はない」
「あ……」
突然割り込んできた手――現在のクレマン様の右手の甲に、若い頃の肖像画に描かれていた変わった形の痣がないことに気がついた。
私は絵に描かれた若きクレマン様の右手と、実際に今目の前にあるクレマン様の右手を何度か見比べる。
「今、このあざは倅の右の手の甲にあるのですよ」
そう言ってクレマン様は手を引いた。
引っ込んでいく手を目で追ってしまい、最終的にはクレマン様の銀の瞳と目線がかち合う。すると明らかにこちらに向かって微笑んだものだから、私は曖昧に笑ってから目線を逸らすように自分の手元を見た。
クレマン様の堂々とした振る舞いに劣等感を刺激される。彼は何も悪くないけれど、正直苦手なタイプだ。
「エデュアルト様が生まれたときに痣が消えたのですか?」
隣に座っていたシスター・イネスが問いかける。するとクレマン様は「そうです」と大きく頷いたようだった。
「正確には妻が息子を身籠ったときでした。朝起きたら痣が綺麗さっぱり消えているものですから、これは息子が生まれてくるぞと大喜びしましてね」
はっはっは、と大きな声をあげて笑うクレマン様。その豪快な笑い声はこの場に不釣り合いのように思えた。
――その“息子”が呪いで竜の姿になっているのだ。呑気に笑っている場合だろうか。
私は思わずクレマン様の顔をじっと凝視していた。
(この方は息子のことが心配ではないの?)
私の視線に気づいたのか、再びクレマン様と目が合う。すると何故か彼は目を輝かせてテーブルに手をつき、ずい、とこちらに身を乗り出してきた。
「ははーん、その顔は……さてはなぜ我が一族が竜に呪われているのかと、その理由が聞きたいのですね?」
私は慌てて首を振る。
「い、いえ、部外者の私たちにそんな込み入ったお話を――」
「よいのですよいのです! 助けていただくのですから、隠し事はいたしません」
何を勘違いされたのか、クレマン様は納得したように数度頷くと、ゆっくりと口を開いた。
「簡潔に申しますと、大昔エッセリンク家の者が王家からの命令で竜を討伐した結果恨みを買い、末代まで呪われてしまったんですな」
クレマン様の口から語られた呪いの理由は察せられた内容ではあったが、こうもさらっと明かされてしまってはかえってこちらが慌ててしまう。私はシスター・イネスと顔を見合わせた。
戸惑う私たちをよそに、クレマン様は話を続ける。
「しかし呪いと同時にエッセリンク家は竜の力を得ることとなりました。呪いは呪いでも、うまく使いこなせればこちらのものです」
話終わりにぱちん、とウインクをするクレマン様。あまりに自然なウインクに、パリピだとか陽キャといった前世の俗語が脳裏を掠めたが、伝わるはずもないので表に出さずに飲み込んだ。
「――が、倅はうまく使いこなせず呪いに飲まれてしまった訳ですな。はっはっはっ!」
(笑いごとなの……?)
相変わらずこの場に不釣り合いな笑い声をあげるクレマン様に驚きつつ、呪いによって竜の姿になってしまうのなら、その状態で自我を保つことができれば確かに強力な力を得たのと同じことかもしれない、と納得する。エッセリンク家はときに竜の力をうまく利用して今日まで続いてきたお家なのだろう。
今回聖女が呼ばれたのは、いつものように竜の力を使おうとして失敗してしまい、自我を保てなくなった結果、元の姿に戻れなくなっているから――?
「旦那様」
いつの間にそこいたのか、燕尾服を着こなした白髪の執事がクレマン様に耳打ちする。するとクレマン様は小さく頷き、にっこりと私たちに微笑みかけた。
「エデュアルトの準備ができたようです。地下までご足労願います」
――準備とは、一体何の準備なのだろう。
私は疑問に思いつつも、促されるままに立ち上がる。そして何と驚くべきことに一度屋敷を出て裏に回り、別の扉から入り直した。
扉の先に広がっていたのは暗闇。入ってすぐに階段があり、等間隔に置かれている灯りが薄ぼんやりと足元を照らしていた。
ゆっくりと階段を降りてゆく。コツ、コツ、と足音が不気味なほどに反響して、じわじわと恐怖が背後から迫り上がってくるようだった。
「この地下牢はもしものことがあった場合にと作られたものですが、実際に使用するのはエデュアルトが初めてでしてね」
クレマン様のやけに明るい声が響く。
もしもの時に作った地下牢。今まで一度も使われてこなかった地下牢。
私はこれからその場所に行くのだ。そしてそこで、竜の呪いに苦しむ騎士が待っている。
呪いを解けるだろうか。救えるだろうか。呪いで我を忘れた竜に、襲われはしないだろうか――
ようやく自分の置かれている状況に実感が湧き、感情が追いついてくる。緊張と恐怖で足がすくむ。
不出来な聖女候補を呪われた竜の許に向かわせるなんて、いくら最後のチャンスを与えるためとはいえ、大聖女様も酷いことをする。破門で済めばいい方かもしれない。最悪、命を落とす可能性もあるのだから。
――前を行くクレマン様の足が止まる。そしてガガガ、と重量のある扉が開かれる音がした。
「さぁ、どうぞ」
ゆっくりと扉の向こうへ足を踏み入れる。部屋の中はひやりとしており、灯りも入り口付近に幾つかあるだけで、先が見えない暗闇に緊張も相まって私は身を震わせた。
震える私の指先を、シスター・イネスが温めるように掴んだ。温もりにほっとシスターの横顔を見上げれば、彼女は私を励ますように優しい微笑みを浮かべて頷いてくれる。
――大丈夫。今の私にできることをやって、それでも無理なら大人しく破門を受け入れよう。今は呪いで苦しんでいるであろう騎士エデュアルトを、救うことだけ考える。それが“聖女”としての正しい在り方だ。
「エデュアルト! 聖女様が来てくださったぞ!」
クレマン様が暗闇に呼びかける。私も暗闇に潜む“それ”を見ようと、目を凝らした。
ズズ、と何かが動く気配がする。チャリ、と鎖が擦れる音が聞こえる。そして――ギョロリと、銀の瞳が暗闇に浮かび上がった。
溢れそうになった悲鳴を喉奥で必死に押し殺し、私は現れた銀の瞳から“それ”の輪郭を辿る。暗闇に目が慣れたというのもあるのだろう、徐々にぼんやりと輪郭が浮かび上がってきた。
大きな体、鋭い爪、傷ついた翼。どしん、と大きな足音を立ててこちらに近づいてきたことによって、より鮮明に“それ”の姿を視界に捉えることができた。
目の前に現れたのは、鎖に繋がれた竜。
(思ったより、かなり、しっかり、ドラゴン……)
言われなければ元が人間であったと気づくことはできないだろう。そう思ってしまうほど、絵に描いたような竜で。
恐ろしいはずだった。実際、足がすくんで今にも腰が抜けそうだった。けれどそれ以上に――こちらを見つめてくる銀の瞳が宝石のようで、傷ついている鱗も僅かな灯りをキラキラと反射して輝いて、竜の姿は今まで見たどんな宝石よりも美しく思えた。