11:ポンコツ聖女
翌日、私は早朝から一人で女神の力を使う練習をしていた。先日の感覚を忘れないうちに、少しでも掴んでおきたかったのだ。
目を閉じる。体の中をあたたかなものが巡るイメージを脳裏に描く。ぐぐ、と意識を集中させて――ふわりと浮遊感にも似た眩暈に襲われた。ふらつく足元を、机に手をついてどうにか踏ん張る。
(あれ……?)
倦怠感、というか、気持ち悪い、というか。
嫌な予感を抱えたまま、気づけば出発の時間になり、私はエデュアルトと二人馬車に乗り込んだ――のだが。
「うぇえ……」
私は馬車の中で死にそうになっていた。
乗り物酔いをしたような気持ち悪さだ。今朝の練習で失敗してしまったのだろうか。けれどシスターたちに付き合ってもらって実技練習をしていたときは、どれだけ失敗しようとも、こんな症状は出なかったのに。
馬車の窓を開けて風にあたりながら、情けないうめき声をあげる私の背を、エデュアルトは優しくさすってくれる。
「大丈夫か」
「なんとか……」
力なく微笑む。あぁ、情けない。またエデュアルトに迷惑をかけてしまう。
馬車の揺れも相まって足元がふわふわする。もう眠ってしまおうと目を閉じれば、体の中をあたたかいものとは別の何かが駆け巡るような感覚に襲われた。それは縦横無尽に私の中を駆け巡って、あっちこっちで悪さをする。
貧血、乗り物酔い、二日酔い。それらが一緒くたになったような気持ち悪さだ。
(体中を何かが巡っていく感じ……きもちわるい……)
眠ることもできず、ただぼやっと窓の外を眺める時間が続いた。その間ずっと私の背をさすってくれていたエデュアルトの気配がふ、と近づく。おそらくは余計な刺激を与えないようにするためだろう、耳元で、囁くように彼は伝えてくれた。
「オリエッタ、もうすぐ街につく。そこで馬車を乗り換えるようだから、少し休もう」
「ごめんなさい……」
もう謝罪することしかできない。任務の朝に体調を崩すなんて、聖女以前に働く者として不出来だ。自己嫌悪に陥って、エデュアルトの顔を見られない。
やがて馬車は動きを止める。先にエデュアルトが降りて、私も彼の後に続こうとしたところ、専属騎士は私を抱きかかえようと身を屈めた。今にも持ち上げられそうになった瞬間、咄嗟に胸元に手を置いて首を振る。
「運ばれた方が酔いそう」
「それは……そうか」
エデュアルトは私の言葉を聞き入れてくれて、抱き上げるのではなくエスコートするように手を差し出した。その手を取って、一歩、また一歩と自分の足で地面を踏みしめる。
乗り換えの馬車が待機しているというところまで、ゆっくりと歩いて向かった。その最中、やはり周りには私が聖女だと気づかれてしまう。純白の聖女の制服は、世界中の人々が知っているのだ。
「聖女さまー!」
だから、無邪気な子どもが駆け寄ってくることも、よくあることなのだと教科書に書いてあった。
数人の少年少女が目を輝かせてこちらに向かってくる。普段であればとても嬉しいことなのに、今日ばかりはそうはいかない。あぁ、朝に余計なことをしなければよかった。
息を整えて、私は彼らを笑顔で迎える準備をする。――と、不意にエデュアルトが私の前に出た。
「オリエッタ」
心配そうな表情で彼は私を振り返る。きっとこちらに駆け寄ってくる子どもたちを、それとなく躱すつもりなのだろう。
私はなけなしの気合と根性で彼に笑いかけた。
「大丈夫よ」
少年たちにこちらから歩み寄る。無邪気な瞳で聖女を見上げる彼らと目線を合わせるように、しゃがみこんで雑談を交わした。
(声をかけられたら、笑顔で対応)
それは聖女候補生に最初に教えられることだ。
聖女という制度は、人々の信仰心と良心によって成り立っている。だから彼らを邪険に扱うようなことは、何があってもしてはいけない、と。
彼らは私たちを一人の人間としては見ない。聖女という存在として認識している。だから私がここで少年たちの声に応えなければ、聖女の評判が落ちてしまうのだ。ただでさえ教団に迷惑をかけている私が、足を引っ張るようなことはできない。
幸いなことに、少年たちは数言交わすと興奮したように走り去ってしまった。聖女様と会話できたのが随分と嬉しかったようだ。その背中を見送った後、最後の気力を振り絞って馬車の許まで辿り着き――
「うぇ……」
馬車の座席に倒れ込んだ。
「オリエッタ!」
すかさずエデュアルトが体を支えてくれる。そして先ほどと同じように、優しい手つきで私の背をさすった。
人の体温は安心する。ついついその逞しい体に身を預けてしまいそうになるが、それは流石に理性が押しとどめた。
「ごめんなさい、情けなくて……」
「そんなことはない、立派だよ。どれだけ体調が悪くても、君は聖女として恥じないよう振る舞っている」
弱った心にエデュアルトの言葉が染みる。彼の優しさと温かさに、そして何より自分の愚かさに涙が出そうだ。
「ただでさえ落ちこぼれだもの。だからせめて、立ち振る舞いぐらいは」
聖女の立ち振る舞いは私にも“できること”だ。できないことが多い劣等生は、せめて“できること”だけは完璧に成し遂げたい。――そう、思っているのに。
無理をしたせいか、心臓がバクバクと嫌な音を立て始めていた。明らかに先ほどよりも悪化している。
世界がぐるぐる回る。体の中を何かが暴れまわっている。心配そうに顔を覗き込んでくるエデュアルトの表情も、霞んでよく見えない。
(だめ、気持ち悪い、心臓がばくばくする)
荒くなる自分の息を、まるで他人事のように遠くで聞いていた。
これは本当に駄目かもしれない――
意識を手放しかけた、そのときだった。
『――て!』
すぐ近くで、誰かの声が聞こえた。
エデュアルトではない。彼の声はもっと低い。この声は、女性の声――
『――を、調整して!』
「ちょう、せい?」
脳裏に響いた言葉を繰り返す。
この声は、どこから聞こえてくるのだろう――
『さっさと力を調整しなさい、この下手くそ!』
「へ、下手くそ!?」
いきなり罵倒されて、私は思わず体を起こした。瞬間、遠のいていた意識が戻ってくる。
やっぱりさっきの声はエデュアルトじゃない。けれど馬車の中には他に誰もいないし、窓の向こうに村人たちの姿も見えない。それに、先ほどの罵声は本当に近く――自分の“中”から聞こえたような気がする。
「オリエッタ、どうした……?」
突然起きた私に驚いたのだろう、エデュアルトは当惑していた。今までになくおろおろしている彼の様子が新鮮で、微笑ましくて、自分のせいであるのも忘れてくすりと笑い――気が付いた。先ほどまでの気だるさが、全くない。
「今、変な声が聞こえたんだけど、急に体が楽に……」
体調不良のあまり、幻聴でも聞こえていたのかもしれない。そう自分を納得させようとしたとき、
『――っと! 回路まで閉じたら――』
先ほどと同じ、女性の声が聞こえた。
私は再び周りを見渡す。立ち上がって、馬車の座席の下や窓の外も確認したが、やはり女性の姿はどこにもない。それならこの声は一体――?
『――の、ポンコ――』
プツン、と、何かが切れたような感覚があった。それから十数秒、待ってみたが声はもう聞こえなかった。
女性の声に言われた言葉を思い返す。力を調整しなさい、この下手くそ。回路まで閉じたら――
力とは、女神の力だろうか。力の調整がうまくできていなかったせいで、体調に不調を来たしていたのだと考えれば話が通る。けれど私自身も自覚がなかったのに、力の調整がうまくいっていないと分かって、更にはどこからかそれを伝えられる存在なんているのだろうか。
「……今、女性の怒った声が聞こえなかった?」
「い、いや、何も……」
念のための確認でエデュアルトに尋ねる。彼は何が何だか分からない、といった表情をしつつも、首を振った。
女性の声は私にだけ聞こえていた。となると、やっぱり、私の幻聴――?
「大丈夫か?」
気遣わしげな視線を寄越してくるエデュアルト。彼の「大丈夫か」には色々な意味が込められている気がして、私は慌てて首肯した。
体調を崩していたと思ったら、突然変なことを言い出して、果てに「女性の声が聞こえなかった?」なんて尋ねてきた。こんなの、エデュアルトからしてみれば頭がおかしくなったと思われても仕方ない。
真面目な彼はそんな冷たいことは思わず、ただただ私の体調を心配してくれているのだと思うけれど――
「た、多分。とにかく、気持ち悪さはなくなったわ」
「よかった」
エデュアルトはほっと息をついた。かと思うと、私の肩をそっと押して、座席にもたれかからせる。そして、
「もう少し休んでから出発しよう」
彼の手が私の目元を覆った。目を閉じろ、ということらしい。
促されるまま私は瞼を閉じた。気持ち悪さはもうない。体の中で何かが暴れまわっているようだったあの感覚も綺麗さっぱりなくなっている。
謎の女性の声が言う通り、力の調整がうまくできなかったのが原因なのだろうか。だとしたら、今は調整がうまくできているのだろうか。
安心しかけて――最後の言葉を思い出した。
回路まで閉じたら、と女性の声は怒っていた。そしてその後に続けられたのは、ポンコ――
(さっき、まさかポンコツって言われた?)
思わず目を開ける。しかし視界は暗いまま。依然エデュアルトの手のひらは私の目元を覆っている。
手を払うことも憚られて――私が眠るときに日の光が邪魔にならないように、というエデュアルトの気遣いだと分かっていたから――再び目を閉じる。そうすれば少しずつではあるが、睡魔が襲ってきた。
女神の力がうまく使えない聖女。力の調整がうまくできない聖女。任務当日に体調を崩す聖女。
なるほど確かにポンコツ聖女だな、なんて一人で納得して、少しだけへこんだ。




