46 祭のあと
ーーパァンッ!
わたくしの渾身の平手打ちが第一王子の左頬に炸裂した。
「なんてことを……なんてことをしてくれたのよっ!? なんで……わたくしが……またあなたの婚約者にならないといけないの!? なんでよっ……!」
胃がはち切れるような緊張状態から解放されて、堰を切ったように滂沱の涙が流れ出す。悲しみはどんどん深まって麻痺したように身体に力が入らなくなり、わたくしはその場に崩れ落ちて嗚咽した。
……もう、うんざり。第一王子なんて大っ嫌い。
なんで、またこうなってしまったの?
前回の人生の二の舞いにならないように、ハリー殿下たちと頑張ってきたのに。もう二度とあんな惨めな思いはしないって、第一王子との婚約を回避しようと頑張ってきたのに。
これじゃあ全部ご破算じゃない!
わたくしの二度目の人生も第一王子に翻弄される運命なの? 結局わたくしは彼の駒の一つでしかないの?
「泣かないで、ロッティー」
そのとき、背後からふわりと抱き締められた。この陽だまりのような優しい声はハリー殿下だ。
「で、殿下……」
わたくしは殿下に飛び付いて幼い子供のようにわんわんと声を出して泣いた。彼はぎゅっと強くわたくしを抱き締めて、あやすようにゆっくりと背中をさすってくれた。
心地よかった。
このまま彼の腕の中で眠ってしまって二度と目覚めなかったら、どんなに幸せだろうか。
「良かったな、シャーロット」
第一王子の氷のような冷たい声がわたくしの背中に放たれた。
はっと我に返る。……これは夢ではないのね。目を背けたくなるくらいの辛い現実は、じっと座ってわたくしを待っているのだ。
「俺のおかげで念願の男爵令嬢への復讐が達成できたな。お前に花を持たせてやったんだ、感謝しろよ」
「なにを――」
「兄上っ!!」
出し抜けにハリー殿下が猛然と第一王子に飛びかかって、拳で殴り付けた。食器類が割れるけたたましい音を立てながら、第一王子はテーブルの上にどさりと倒れる。
「きゃあっ! 殿下っ!」
わたくしは慌ててハリー殿下の腕を掴む。彼は全身を震わせながら憤怒の形相で第一王子を睨み付けていた。
「お止めください! いくらご兄弟でも不敬罪になりますわ! 今度は謹慎程度では済まないかもしれません!」
「こいつはっ! 殴ってでも分からせないといけないんだよ! ロッティーの人生を弄んでっ! 彼女のことを一体なんだと思っているんだ!? お前の玩具じゃないんだよ!! それに、モデナ王国の王女との婚約はどうなった? 私情でめちゃくちゃにして、仮に戦争になって国民を巻き込むことになったらどうするんだっ!?」
「…………」
第一王子はおもむろに立ち上がったと思ったら、瞬く間にハリー殿下に回し蹴りを食らわせた。
「っ……!」
殿下はドスンと鈍い音を立ててソファーに倒れ込む。
「殿下っ!」
わたくしは庇うように彼を抱き締めた。
「分かっていないのはお前のほうだ、ヘンリー」
第一王子はゆらりと一歩前へと踏み出す。わたくしは殿下をお守りできるように腰を浮かせた。
「モデナの王女は今頃は愛しい平民出身の騎士団長と逃避行中だ」
「えっ!?」
「なんですって!?」
にわかには信じられなくて、わたくしも殿下も目を見張った。
第一王子は鼻で笑って、
「最初からこの婚約は成立していないんだよ。そろそろあちらから誠心誠意の謝罪の言葉が届く頃だろうな」
「なんで……兄上はそのことを知っているんだ?」と、殿下が訊くと第一王子はうんざりした様子で嘆息した。
「ヘンリー、俺はお前に常日頃から国内だけではなく外国の情勢にも目を向けろと言っているだろう? なんのための二度目の人生なんだ。馬鹿か、お前は」
ハリー殿下は少し思案顔をしてから、
「あっ……! そう言えば、前の記憶ではモデナ国の姫様の婚姻で揉め事が起きたって……」
「それが平民との駆け落ちなんだよ。王女は我を通して結局は女公爵となった自身の婿入りという形でそいつと婚姻している」
「「…………」」
わたくしとハリー殿下は押し黙った。衝撃的な話にくらくらと目眩がした。
第一王子はこれを見越して婚約を承諾したのね。彼は最初から自身の婚姻は破談になるのを分かって、わたくしとハリー殿下の婚約内定も承知して……そして最後はわたくしを今回も自分の婚約者にする、と。
わたくしは愕然として、目を剥いた。肌がチリチリとして、炎で炙られているような感覚だった。
これじゃあ全部が彼の意のままだわ!
本当に、今回の人生もわたくしは彼の見えない糸に操られるだけなの……?
「だが……なんでロッティーを自分の婚約者にするんだよ! 前の記憶でも彼女のことを蛇蝎のごとく嫌っていたじゃないか」
「それは、まだこの女に利用価値があるからだ」
「りっ、利用価値だって!? ロッティーになんてことを――」
「安心しろ。用が済んだらこの女はお前にくれてやる」
「ふざけるなっ! ロッティーは物じゃないんだよ! 彼女の気持ちも考えろ!」
第一王子はわたくしを一瞥して冷笑を浮かべて、
「こっちから願い下げだ、こんな女」
「エドワードっ!!」
第一王子はハリー殿下の抗議を黙殺して、外へ出ようと踵を返す。
「待って!」と、慌ててわたくしが呼びかけると彼は足を止めた。
「あなたは……モーガン男爵令嬢のことを愛しているのではなかったの? なぜ、今回は彼女を陥れるようなことを……?」
前回の人生では第一王子は男爵令嬢のことを心から愛しているように見えた。それは、わたくしが悋気でおかしくなってしまうほどに……。
彼は微かに振り返り、わたくしをじっと見つめて、
「お前には関係ない」
小さく呟いて去っていった。
わたくしと殿下は茫然自失と彼の姿を見送る。しばらく二人とも無言で虚空を眺めていた。
「ロッティー」
ふいに、殿下がわたくしに声を掛けて右手を優しく握る。
「ちょっと腫れているね。大丈夫かい?」
「あっ……」
さきほど第一王子を思い切り平手打ちした右手はまだ少し赤かった。言われてみると、ちょっとだけじんじんと痛んだ。
「わたくしは大丈夫ですわ。それより、殿下こそお怪我が……」と、わたくしは彼の顎にそっと手を触れる。赤黒くなって熱を帯びていた。
「これくらいの怪我は剣の稽古で日常茶飯事さ」と、殿下は片目を瞑ってみせた。
わたくしは苦笑いをして、
「とりあえず応急処置として、冷やしましょう。後でちゃんとお医者様に診てもらってくださいね?」
懐からハンカチを取り出して水に浸して患部に当てた。
「これから……どうしましょう」
わたくしは独り言のように呟いた。
ハリー殿下は深いため息をついて天井を仰ぐ。彼の苦悩がありありと伝わってきた。
「……少し頭を冷やそうか。今は僕たちはまだ頭に血が上って、冷静な判断ができないかもしれない。これっぽちも力になれなくて、ごめん…………」
「そんな。殿下が謝ることでは――」
「いや、もっと僕がしっかりしていれば、こんなことには……」と、殿下は唇を噛む。
「違います! 当事者はわたくしなのに、殿下やお兄様に甘えてばかりだったのが悪いのです!」
「そんなことないよ」
にわかに殿下がわたくしを抱き締めて、そっと耳元で囁く。
「ロッティーは前の時からずっと一人で頑張ってきたじゃないか。今回は周りの人間にいっぱい甘えていいんだよ。君は一人じゃない」
「殿下……」
再び、わたくしの瞳が湿った。
「大丈夫。きっとなんとかなるよ、大丈夫……」
殿下はわたくしの頭を撫でる。
わたくしは彼の胸に頭をうずめて静かに涙を流した。
そうだったわ。今回の人生のわたくしには心強い味方が沢山いるのだから、大丈夫。
わたくしたちは、きっと、大丈夫……。




