始まりの時
「幸せになるんだよ」
父はそう言ってハイデマリーの手を取った。
王と次期王女として接するばかりで、親子らしい会話は覚えていない。
大広間の扉が開かれ、これからロレンツォの待つ祭壇の前に行く。
「ありがとうございます、お父様」
いつも陛下と呼ぶばかりで、父と呼ぶのは照れてしまう。
はにかんだ笑顔で父親を見るハイデマリー。
ハイデマリーの長いベールが赤い絨毯の上を滑って進む。
一歩一歩、ロレンツォに近づき、結婚するんだ、その思いが現実になっていく。
ロレンツォがハイデマリーを父親から受け取る為に手を出したのだと思った。
その手には剣が握られていて、グレートヘン王の胸を突き刺した。
「きゃああああ!!!」
悲鳴が広間に響き渡る。
返り血を浴びたロレンツォが、グレートヘン王の胸から剣を引き抜き、振り上げた。
ああ、殺されるんだ。
避けようとか、逃げようとか、思わなかった。
なぜ?
剣を抜かれた父王が、血を吹きながら崩れ落ちる。
ガッチーン!!
ハイデマリーの前に男が飛び込んで来て、ロレンツォの振り下ろした剣を止めた。
その男は、ハイデマリーを自分の後ろに引き寄せると剣を振り上げ、ロレンツォの剣を弾き飛ばした。
男はハイデマリーの手を取ると扉に向かって走り出した。
ハイデマリーは男に引きずられるままに走る。
ウェディングドレスの裾がジャマで、ハイヒールの靴は走るのに向いてない。
一番ジャマなベールを外そうと引っ張ると、止めてあるピンが弾け飛ぶ。
どのピンにも小さな宝石がついているので、キラキラしながら落ちていく。
追いかけて来たロレンツォの手が届きそうになって、ハイデマリーは手に持つベールを投げつけた。
長いレースのレーンは、ロレンツォの視界を隠すように
ロレンツォの身体にまとわりついた。
思考がハイデマリーに戻ってくる。
父が刺された。
ロレンツォに殺された。
剣の音が聞こえる。
周りで戦いが始まっていた。
だが、グレートヘンの騎士達は礼装で儀式用の装飾剣であるのに対し、マヌエルの近衛は装飾剣ではなく、真剣で剣の性能の差は一目瞭然である。
許さない!
ロレンツォ、貴方を許さない!
今は逃げるしかない。
絶対に貴方に復讐する!!
私を守る為に戦っているのは、この国にとって大事な命。
「皆、逃げなさい!
私は死んでも戻って来るから!」
しっかりしなさいハイデマリー!
私はグレートヘンを継ぐただ一人の人間。
父亡き今、女王になるのだから。
自分を叱咤しながら、ハイデマリーは走る。
私を助けてくれたこの人は誰だろう?
賓客のリストは覚えているはずなのに、頭が回らない。
泣いている場合ではないのに、心の涙が止まらない。
自分を裏切ったロレンツォを憎くてたまらない。
やっと父親の愛情を感じたと思った父親はいない。
憎い。
悲しい。
辛い。
生き延びてやる。
様々な思いが、ハイデマリーの中に渦巻く。
「姫様」
ハイデマリーを呼ぶ声がする。
「あれは、私の侍女です」
控室の扉を開けて侍女のカルロッタが、ハイデマリーを呼んでいる。
その部屋から外に出て、厩に向かった。
走り続けて心臓は破裂しそうだけど、思考が戻ってきた。
この男性は、同盟国フェルホルムの王太子ディートフリート殿下だ。
大広間では、ハイデマリー達を逃がそうと貴族や騎士達が不利な状況の中、戦って足止めをしてくれているおかげで、軍馬を選んで逃げ出せた。
きっと戻ってくるから!
もう私は王女の身分はない。
けれど女王として戻ってくる、必ず!
ディートフリートの馬に遅れないように、馬を走らす。