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稲葉くん視点。
佐保さんの馴染み客ということもあり、身元もしっかりとしているので息子さんと帰るついでに委員長も一緒の帰宅となり、俺と若様でタクシーを見送った。
「さて、若様はどうされますか?」
もう1台タクシーを止めてもいいし、駅かバス停まで送ってもいい。
若様のとこの親はともかく、我が子のように心配をするだろうお手伝いさんの存在も知っている。
「えっ…まだ帰りたくない…」
…潤んだ目で上目遣いに言われたいセリフではあるが言われたい相手は微塵もコイツじゃない。
まださっきのお練りでやった新造役引きずってるのかどうにも同性には見えない。
どっかでちんこ落としてきたか?
「とりあえずケツ掘られたくないなら歓楽街での発言には気をつけてくださいね?」
まぁ、若様がいつも立つ限られた空間の舞台とは違って野外の、しかも好意的な客が揃って同じ方向から見られるわけでもないアウェーのゲリラライブみたいなもんだったからまだ興奮も抜け切らないんだろう。
客席で大人しくジュースを飲んでいる姿も新鮮だったが、グラスを持つ手が少し震えていたのも意外だった。
ああいう古典芸能の家に生まれれば、生まれた時からカメラがあって人目があるのが当たり前と慣らされて緊張とは無縁だと思っていた。
箱入りは箱入りで外部を遮断し尽くして、ある瞬間だけ扉を開けて外気に触れさせ、その新鮮さを強烈に細胞に刻んで忘れないように成長させるんだなと垣間見た気がする。
俺たち一般人が忘れていくことをこういう奴らはひと粒たりとも溢さず忘れない。
きっとそんな事を繰り返して、あと数年もすれば代わりの利かない役者になるんだろう。
頬を桃色に色付かせているので公共交通機関の選択肢は無くなってしまった。
仕方なく妥協点として若様の言い分も拾って近くのコンビニへ寄ってから事務所へと戻ることにした。
鍵は誰か役職者が持ってるだろうし若様の親父もここの顧客だ、佐久間さんが連絡先も知ってるだろう。
コンビニでアイスを物色しつつスマホで連絡を取ればすぐに返信メッセージが飛んできた。
「じゃ、事務所戻りますか」
「兄ちゃんは働かなくていいの?」
「…もう私の働ける時間は終わってるんですよ。っていうか私のこと知ってます?」
「え?あや姉の付き人でしょ?」
「よし、お前問答無用でシメる。ぜってー泣かす。もーこっちはバイト上がってんだからこっからはお前が敬語使えバカ」
金のある箱入り息子ってどうしてこうも無邪気なバカなんだ!
ああ!俺もそうだったって思い知らされるからヤなんだよクソッ!!!
で、迎えが来るまでの1時間で懐かれてしまった俺はもっとバカだと思う。
「坊ちゃん、帰りますよ」
「俺も高校生になったら稲葉みたいになれるよう頑張る!」
ならんでいいから早く帰ってくれ。
運転手というかどこぞの代議士秘書みたいな男に引き取られ、さぁ俺も帰るかと思っていたら岬さんが現れ「持って帰れ」と黒く重い物体を投げつけられた。
「あの…持って帰りたい人が違うっていうかそっちの趣味はないですし…」
「あ?」
ガンっと書類の乗った机が蹴り倒され紙が舞う。
あ、コレうちの黛店長の机だ。
誰が片付けると思ってんだって俺か俺ですよね。
「明日キッチリ使えるように仕上げとけ」
「畏まりました」
返事をしっかり聞き届けてからフロアに戻る岬さん。
ああ、確実に合格ラインに乗せないとこれ俺の責任になるやつじゃん。
残ったのは俺の腕の中にいるうららスタッフの石田さん。
抱きたいのも間違いなくコイツじゃない。
ああもうこんなゴツくて臭い野郎のせいで色々上書きされて感触忘れそうでホント嫌。




