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委員長の回想。
駅から繁華街を抜けて歓楽街へと続く道の境目あたりに、周りと似つかわしくない日本家屋があった。
子供の目から見たその家はたいそう大きく、立派なものだったけれど、文化財になるほどの価値まではなかったようで、このあたりの最後の一等地として、数年前に売り出され、今では立派な商業ビルが建っている。
その家には確かに柿の木があった。それはそれは立派なものだった。
父親に手を引かれ、店の事務所でお留守番という名の放置をされること数ヶ月、実が色付き始めてから食べ物だったのだと気づいたときの衝撃は今でも忘れていない。
***
父も母も水商売の人間で、母は私が喋れるようになった頃、離婚届に判を押して違う街に旅立ったらしい。
キレイなドレスを着ていると、ふつうの幸せというものに憧れて主婦になるのが夢だと言っていたのに、いざ仕事を辞めて、これが幸せの形だと信じていた郊外の一軒家でだんなを子供と待つだけの生活になると「こんなはずじゃなかった」と元の世界へと戻っていった、らしい。
らしいとしか言えないのは、母が居た記憶というものが私には無いから。
さすがに同じ街でそのまま夜の蝶をやるほど無神経ではなかったらしく、今でもこの街に居ないことは佐久間さんが確認している。
母と出会って少しでも安定した収入になるようホストから黒服に転職していた父は、またホストに戻り自暴自棄に陥ってお客の金で飲んで、たまにお客の体で発散してクズまっしぐら。
郊外にある家と私のことなんて記憶に残したくもない悪夢だったんだろう。
もしも佐久間さんが無断欠勤の父を見捨てていれば、私もその時点で死んでた。
無断欠勤で転職して飲んだくれてるとは思わず、家で倒れてるんじゃないかと訪ねてきてくれて、倒れそうだったのは子供だったと、通報モノの事態に対処してくれた。
あたたかいご飯にあたたかいお風呂、布団で一緒に眠ってくれる佐久間さん。
おなかへった、かゆい、いたい、ねむい、さむい、あつい。
それ以外の感覚、安心・幸せというものを初めて知った。
ここからだ、私の記憶や思い出と呼べるものがあるのは。
「さくちゃん、これはなぁに?」
聞いても答えてくれるひとがいなければ質問はできない。
疑問も浮かばない。「何、何で?」を小学校へ通う前に出来たのはツイていたとしかいいようがない。
それができなければ人になれなかったかもしれないと、今でも恐ろしく思う。
保育園も幼稚園も通ってないけれど、佐久間さんは小学校に入学するまで自分のアパートで一緒に住んで私を支えてくれた。
部屋から外に出るという行為にものすごく抵抗があった引きこもりな私を、根気強く励まし育ててくれた。
文字も常識も佐久間さん仕込みだ。
感謝してもしきれない。
「もう1人前の立派な子供ね」と、わけのわからない太鼓判を押され、桜が咲いて1年生になり広い家に引っ越した。
私は気づかなかったけれど、それは元の郊外の家だった。
そこで1年ゆっくり佐久間さんと過ごして両親どちらの顔も忘れきった頃に、父親が佐久間さんに引きずられて家に来た。
「さくちゃん、おともだち?」
このへんは覚えている。ワザと言ったのだから。
顔面蒼白な父に、身内としての情がイマイチわかないのも常識というものを知ったからだ。
うな垂れる父から、母と連絡がとれて話し合って、ようやく離婚届を提出してきたから、けじめとして一緒に暮らすと報告された。
「いまさら?」
何の責任を取ろうというのだろう、放棄しきっていたのに佐久間さんに言わされているだけじゃないのか。
この人に対しては何の気持ちもわいてこないけれど、ショックだった。
佐久間さんは私の親代わりではなく、このどうしようもない男の友達だったのだ。
優先順位は私のほうが下。すべてはこの男のために。
さくちゃんのおともだちは、私ではなく私の父親で、さくちゃんの好きな人だった。
ものすごくショックな中、佐久間さんと暮らすよりこの男と生活するほうがまだマシに思えて了承した。
今まで見向きもしなかった場所と人間に対して、どうしてこうも執着をみせるのか理解できなかったけれど、それからの父は父らしくあろうと私の動向を気にするようになった。
今どき電子レンジさえ使えれば刃物なんか使わなくても食べていける。
ご飯もお風呂も洗濯も、完璧にできるわけじゃあないけれど、「立派な子供」の名に恥じない程度にはどうにかできるくらい成長していた。
何の心配もいらないはずの私の何を心配だというのか全く理解ができないまま「夜、家にひとりで置いておくのが心配だ」と店に連れていかれるようになった。
夜なんてご飯食べて寝るだけなのに何が心配なんだ、迷惑な。
相変わらずの身勝手さにどんどん心が離れていく。
学校から帰ってきて、父親を起こして、手を引かれ店に通う日々が始まった。
道順や電車で降りる駅を覚えたら「後から来てもいいし、そのまま家に居てもいい」になった。
何がしたかったんだこいつ、と思っていたら佐久間さんから心底どうでもいい答えが帰ってきた。
「働くカッコいい背中見せたかったのよ」
寂しがりなのよね、アイツとか慈愛あふれる目で遠くの父を見つめられてもねぇ…。
まぁそんな感じでまだまだ居心地の悪い事務所に通っていた頃、べしゃりと落ちてきたのが熟れきった柿。
食べ物が空から降ってこないかな、と思ってたことはあるけど本当に降ってくるなんて!
衝撃の出会いだった。散った果肉果汁が足元を汚したけれど感動で漏らしそうだった。
見上げれば水色の空に橙色の実がたくさん。
トマトなんかは見たことがあったけど首が痛くなるくらい上になるたくさんの実というのは初めて見た。
でも、これも落し物のひとつなんだろうか。
落ちてるから貰ってもいいってもんじゃあないかもしれない。
佐久間さんからいろいろ教えてもらったことだけが全てじゃないと学校に通い始めて知ったので、両手で半分潰れた実を持って、この家の玄関を探した。
石の門に木の札が埋まっている。表札というやつだ。名前は難しくて読めない。
実で汚れた片手をスカートでぬぐい、インターホンを押す。
ピンポーンと高い音が鳴り、すぐに返事がする。
『…はい』
あれ、機嫌が悪そうな声だ。
お昼寝とかの邪魔しちゃったのかなぁ。
「あのう、美味しそうな実がこの家から降ってきたんですけど…」
『え?!』
子供の声に驚いたのか中から慌てて人が出てくる。
ちょっと気の強そうなおばあさんだ。
「怪我でもしたの!?」
「いえあの、これもらって帰ってもいいですか。食べてみたくて。」
表札の名前はあまわし、と読むらしい。
天に鷲、この強そうなおばあさんに相応しい。
その眼光を見て、ものすごく納得した。




