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《死の庭》の乙女たち  作者: 瀬川月菜
第3章 南の楽園
9/57

3−1

 垂れた二本の釣り糸を、流れる海波が揺らしている。

 南に広がる海は彼方へ向かって翡翠から瑠璃へと変わり、浅瀬には色鮮やかな小魚が宝珠のように集う。深い海溝には巨大な海洋生物たちが回遊し、毒を持つ蛇や貝たちもまた自由に泳ぎ回る。珊瑚が命を飛ばす時期はもうすぐだ。燦々と降り注ぐ太陽は眩く、異国人であるジークの白い肌を赤く焼いた。

 ふと一方の浮きが揺れたので、ジークは傍らで居眠りする友人を揺り起こした。

「ヴェル。引いてるぞ」

「……え。あっ!」

 医学書を開いて日よけにしていたヴェルが、飛び起きた拍子に眼鏡をずり下げながら竿に飛びつくが、すでに獲物は姿を消していた。しかも針まで持っていったらしい。ヴェルはがっくりと肩を落とした。

「……最悪。あれを削るのにどれだけ時間がかかったか!」

「俺が作っておいてやるさ。お前と違って仕事もないから時間は山ほどある」

 島唯一の医者であるヴェルとは違い、余所者であるジークは島民のように漁に出ることもなく、かといって女たちの領域を侵すわけにもいかないので、手を貸してくれと頼まれない限りこうして岩場で釣りをする日々だ。だがどうやら才能はないらしく、丸一日費やしても釣果は上がらない。島民は竿を垂れたと思ったら魚を釣り上げているのだから、魚が釣り人を品定めしているのではないかと疑うほどだ。

「いいのかねえ……君ってば、こんなところにいて」

 ジークの厚意は世捨て人や道楽者の台詞に聞こえたらしく、ヴェルはため息をついた。猫背気味なヴェルをジークは鼻で笑う。

「王立学院を卒業しながら離島で医者をやっているお前に言われたくはないな」

「僕と君じゃ格が違うだろう。休暇といって島に来るのが君の恒例行事とはいえ、一年に数ヶ月も国を離れて。いろんな人の気苦労が偲ばれるよ……」

 大陸北部からやってきたジークの陽に焼けた肌を見ながら、ヴェルは深く嘆息した。

 ここはアレマ島。大陸南東に連なるアレマリス諸島の最東にある小さな有人島だ。

「避寒地ならもっといいところがあるのに、どうしてここなんだい? 権力争いに疲れたってわけじゃないだろう?」

「そうだな……」

 ジークは考えながら答えた。

「ここにくると、俺は必要のない人間だと思えるから、だろうな」

「必要な人間だ、じゃなくてか?」

「ああ。――俺がいなくても人は生きる。明るく生を謳歌する。少なくともアレマの住民たちは俺がどんな人間だろうと笑うし、夫婦喧嘩をやめることはないだろうよ」

 朝が来れば鳥の声がけたたましく、真昼には緑が深く、海が鮮やかにきらめき、深い夜には漁師の漁火が掲げられた。黒い髪と瞳と肌をした島の住人たちが朗らかに暮らし、歌声が聞こえてくるのもしょっちゅうだ。もちろん喧嘩も派手で、夫婦の怒鳴り声や男たちの殴りあう騒ぎが村に響いたかと思うと、次の日には肩を抱き合って一緒になって笑っている。

 ここにいるとすべてが夢であるような気がする。

 ジークは岩の上に身体を投げ出した。年に一度この島に逃れてくるのは、常に自分を取り巻くものを忘れたいからにほかならない。

 学友だった彼が何を考えているかジークは知っている。彼は今、ジークの宿命について思い巡らせているはずだ。

 ――…………ォ……ォ……。

 ジークはびくりと肩を揺らした。首を巡らせ、島の中心を見遣る。その森の中にある社は島の聖域だ。

「どうした?」

「……いや」なんでもないと言おうとした時だった。

「――……せい、……先生! ヴェル先生! ジーク!」

 ヴェルが立ち上がる。岩場を飛ぶようにやってきたのは島の少年シグだ。

「やっぱりここにいた! ふたりとも、一緒に来て! 海が変なんだ。おばばが何か来るって言ってる。ジークを呼べって」

巫女(エルダ)が?」

 島民を束ねる巫女が言うのなら異常事態だ。シグに急かされてジークは男たちが集まっている海岸までやってきた。船は全員引き上げさせられており、皆、不安そうに海を見つめている。

「エルダがいらしたぞ!」

 やってきた輿には小さな老嫗が乗っていた。皺に埋もれた目でジークを見る彼女は、世界の有様に触れることができる能力者だ。

「エルダ。何があった?」

「ちょいと風が変わってね。鳥が何か来ると言っている。あんたがここに来た時とよく似ているんだよ」

 ジークの強張った頬を奇妙に柔らかい風が撫でていく。そわりと指先で触られたかのような心地の悪さだ。皆も気づいたらしく「風が止まった……」というつぶやきがあちこちで漏れた。島の周りの時間が止まったかのような静寂がやってきた。

 エルダが静かに言った。

「海から来る」

 その一言で男たちが動き出した。櫂を用いて鏡のような海に漕ぎ出る。ジークも船に乗り込んだ。磨き上げた色硝子の上を進んでいるような奇妙な船出に、波紋がどこまでも広がっていく。海中に生き物の姿はない。珊瑚たちも息を潜めているかようだ。

「一体どうしたんだろう。海がこんなになるなんて」

「妙だよな。親爺、今までこんなことなかったよな?」

 船を出した漁師たちが言葉を交わし、最も年嵩の男を振り返る。白髪をまとめた屈強な海の男は、たくましい腕を組んで重々しく答えた。

「四十年海に出ているがこんな海は知らない。この島にジークが初めて来た時も妙な風が吹いていたが、ここまでじゃなかった」

 おい、と別の船から引きつった声がした。

「――光ったぞ」

「どうした?」

「何が光ったって?」

 口々に問うた漁師たちは気づいた。

「海が光ってる……!」

 ジークは海面に身を乗り出す。青く透きとおった光を放つ海――その底の方で、金色の粒に似たものが光り輝いている。太陽の反射かと疑ったのも束の間、それは次第に輝きを増してくる。

「ジーク、やめろ。あまり乗り出すな」

 親爺が制する。だがジークが見ているものに気づいた若者たちもまた、大きく身体を傾けて海を覗き込み、驚愕の声を上げた。

「おい、ありゃ……」

「嘘だろ……!?」

 白と金のものが海の底から浮かび上がってくる。

「……人間だ……」

 黄金を思わせる長い髪が揺れ、白い衣装は緩やかにたなびき、白い鳥のようだった。白い面は海に阻まれはっきりと捉えることはできないが、年若い女性だと思われた。

 ジークはためらいなく海に飛び込んだ。

 その波の揺らぎが完璧だった彼女の体勢を崩し、腕と足がばらばらに動いてその身体を再び底に沈めようとした。ジークは急いでその腰を抱くと一気に海面へと引き上げる。

 海面に出て息を継ぎながら呼びかける。

「……っおい、おい!」

 よく見なくても触れた感触からそれが十七、八歳の少女だということがわかった。顔立ちの柔らかな美しい娘だったが、意識はなく目を閉じてぐったりとしている。

「死んでるのか……?」

「いや、生きてる」

 水越しでもわずかな温もりを感じていた。彼女はまだ死に襲われていない。

 岸に戻ってくると集まっていた島民たちはどよめいた。

「嵐が起こって船が沈んだって報せはなかったな」

「どこかの島の娘が流されてきたのかね」

「でもあの黄金の髪。ありゃ大陸の娘だよ」

「綺麗な服を着ているな」

 その騒ぎを一歩踏み出すことで黙らせたエルダは、間違いないというように頷いた。

「時が来れば目覚めるさ。そうすれば事情も聞けるだろう。今は休ませておやり」

 そうして皆に仕事に戻るように告げた。ヴェルの診療所に少女が運び込まれる頃には、奇妙だった風も海も元通りになり、いつの間にか騒がしい海鳥の鳴き交わす声が響いてきていた。

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