蚊一号、コレヨリ吸血ス!
蚊一号分隊長率いる総勢十匹の集団が、地下駐車場に溜まっている水たまりの淵にて隊長の訓示を逸物を捧げながら傾聴している。
「諸君、いよいよこの時がやってきた。我々の一刺しで子孫が増えるか減るかの運命を握っている! 諸君らの長い長い口吻と背中の羽根と複眼が我々が親に授けられた唯一の武器だ」
蚊の吸血行動も進化したものだ。吸血をすることで子供を産む蚊は、それまではそれぞれ単体で行動して人間の血を吸ってきた。それが今では生まれた卵の中から十匹程度の集団をつくり軍隊をつくり吸血をするようになった。
しかし、これほど効率的な吸血行動を構築したにもかかわらず蚊の複眼はギラギラと生と死を燃え滾らせている。
「我々の先祖は、常に単体で吸血をしてきた。しかし、あのみみっちい人間どもは高々一ミリグラムの血を惜しみ我々を殺す兵器を作り続けてきた。先祖たちは各個撃破されて一時は個数を減らしてきた。しかし、それを耐え、生き延び、戦い方を構築してきた。この戦いは子孫の生死を賭けた戦争である! 血の一滴は命の一滴だ!! 進め戦士たちよ!!」
蚊の軍隊は駐車場を飛び出して、一号分隊長の指揮の下隣の民家に侵入を開始する。クーラーの室外機の隙間を潜り抜け、蚊の羽音より轟音を鳴らして回転するファンに引き裂かれないように潜り抜ける。
「皆、ついてこれているな」
「隊長、十号がいません」
隊長が複眼をぐるりと見回してクーラーの配管の中を探してみるものの、十号の姿は見当たらない。この侵入経路のファンに巻き込まれ死ぬ蚊もいる。おそらくそれに巻き込まれてしまったのだろうとその小さな頭で予測がついた。
「バカな奴だ。戦場で死ねばいいものを」
隊長は悼むことも憐れむこともなく吐き捨てた。あの十号は、命のやり取りが行われる戦場――部屋の中にすらたどり着けない愚かな奴だからだ。隊長以下の軍隊は十号のことなど、小さな脳の小さな海馬の中に留まることもなく忘れてしまった。目指すは血の一滴だ。
クーラーの吹き出し口から九匹となった軍隊が次々に部屋に降り立っていった。隊長が己の逸物を地雷探知機のように左右に揺らして血を持っている生物の熱源を探していく。蚊の口吻には熱源センサーがあり、それで生き物がいるか探しているのだ。部下たちも隊長と同じく、口吻で索敵を始める。
三号が熱源を探知して、その方向を口吻で指し示した。三号の示した方向に向けて、隊員たちは背中の羽根を動かしてブーンブーンと静寂な部屋に蚊の行進曲を奏で、進軍する。
先頭を行っていた隊長がテレビの縁を通り過ぎたところで、観葉植物も花もない人工物だらけの部屋の中にないはずの花の甘い香りが漂ってきた。隊長は危機感を覚えた。生命に直結する危機だ。
「蚊取線香だ!! 口吻を閉じよ!!」
蚊取線香、人間が蚊に刺されないように生み出した毒ガスである。昔は目印として豚の形を模した陶器や一本の煙が目印となっていた。余談であるが蚊取線香は蚊の世界では、渦巻の先端が赤々と付いている閃光を見て、別名蚊取閃光とも呼んでいる。
先祖たちはそれらを目印にして躱していたが、今ではどこからともなく蚊を殺すための成分だけを抽出した液体を散布する見えない兵器にへと昇華していた。
幸いにも人間のただ蚊を殺すだけではもったいないという自己満足のために、香料を入れて一緒に散布しているので、進化した蚊には、口吻に蚊取線香が吐き出す毒ガスを抑える機能が備わっている。それでも蚊にとっては古典的な非蚊道的兵器であることには変わりない。
「蚊五号、蚊八号戦死!」
二号からの非情な報告が隊員たちに伝わる。隊長が下を覗くと、戦争に敗れた二体の骸がカーペットの絨毛の隙間に落ちていた。骸はその針のような細い足をくの字に折って交差し、ダイヤの形をつくっていた。奇しくも二体の逸物である口吻は墓標のように高々と掲げられていた。
隊長以下は死んだ二体の蚊を見下ろしながら旋回して飛び立つと、小さな脳の小さな海馬に彼らのことを思い留まらせて、消えてしまった。目指すは血の一滴だ。
蚊取線香の成分が届かない天井付近を残りの七体が浮遊している。隊長の熱源センサーに反応する熱源が近くなると、同時に備わっている二酸化炭素の反応も起きた。間違いなく生き物だ。いよいよ血にありつけると隊員たちは高揚感にあふれていく。
すると、隊長の触覚の数センチずれたところで白い霧が噴出された。
上にも蚊取線香が設置されていのかと隊長は難渋の想いを示したが、様子がおかしい。蚊取線香にしては色もあり、煙も広範囲だ。様子のおかしさはすぐに表れた。
その後ろで飛んでいた隊員たち二体が霧に当たると落下していった。そして細い針のような脚が、触角が、体がバラバラになっていく。ついにはフローリングの床に着地する前に体が溶けて消えてしまった。
あまりにも惨苦な光景を見たが、蚊の小さな脳の小さな海馬はすぐにそれを忘れさせてくれた。目指すは血の一滴だ。
だが、天井に取り付けられた半円状の空対蚊砲兵器は次々と残りの隊員たちを霧で文字通り消していく。
この兵器は、人間が殺した蚊の死骸を見るのも嫌だという身勝手な理由から作り出された化学兵器だ。虫に吹きかけたら体があっという間に溶けて消え、部屋が汚れずにすむという触れ込みで一般家庭に販売されている。
蚊の命の戦争がこうした兵器の開発されたことによって軍隊化したのだ。もう蚊たちには子孫を残せるか残せないかではない、自らの骸も残せるか残せないかまで差し迫っていた。
「三号、六号、九号毒霧にやられました!」
「死体すら残さないとは。なんと残酷な」
「隊長、先に行ってください。優秀な生物こそが子孫をつくれます。隊長こそが子孫を残せるのです!」
最後に生き残っていた七号が隊長の背中を押してやると、七号が囮となっておぞましい兵器を引き付けた。そのまま七号は霧に体を吹きかけられて、消滅した。
ついに悲願を達成する。その悦びだけが延々と隊長の脳内に巡っていく。ほかの死んだ蚊のことなど小さな脳の小さな海馬の中に留めることなどもせず消してしまった。目指すは血の一滴だ。
「蚊一号コレヨリ吸血ス!」
隊長が目標としていた生き物の首筋に足を下ろして、自慢の逸物を振り下ろした。
逸物は折れた。
長剣のような口吻の先端はひん曲がり、血を吸い出すための管は折れた反動で圧迫されて潰れてしまっていた。隊長が振り下ろした先は生き物ではなく、婉曲した金属の板に突き刺してしまっていた。
これは生き物ではない、偽物だ。
隊長が気づいたときには、足元が焼けるように熱くなり隊長の体が高熱で焼けていた。この偽物が隊長を焼き殺そうしているのだ。熱源も二酸化炭素もこの生物の偽物が、蚊をおびき寄せるために作り出したものでしかなかった。
「おのれ人間! 偽物の生物まで作りおるとは、卑怯者!!」
蚊一号隊長は全身が焼け焦げる前に無念の言葉を残して、偽物の足の上に落ちていった。隊長の脚が縮み折れ曲がった逸物を、どこにそんな力があったのかわからないが高々とその偽物に向けて掲げると、小さな小さな命を散らした。
こうして蚊一号率いる分隊は、最新型蚊除去器具の『ロボット』によって全滅させられた。
焼け焦げた蚊一号たち分隊の死体をゴミ箱の中に捨てた『ロボット』は、センサーで感知を済ませると、生物が一つもない部屋に向けて合成音声を発した。
「コノヘヤニ、カハ、イマセン」