第24話 海神の怒り
トゥーレの淀んだ視界の中を、黒衣の男が足を引きずりながら横切っていった。
フーゴだ。
まるで、歓喜にわく人々から逃げようとしているようだった。ちらりとトゥーレをふり返った彼は、疲れ切った顔に微かな笑みを浮かべ頭を下げた。そして背を丸めて、一人静かに去っていった。
彼は一体何の術を使っていたのだろうか。いつかのように風を操って、雲割ったのだろうか。
贄を捧げる儀式に術を使う場面はなく、本来なら勝手に術を使ったとして罰せらるところだ。だがハラルドをはじめ皆、輝く朝日に歓喜してフーゴに構うところではなかった。
彼は娘の死をせめてもの日の光で飾ったのかもしれない。
トゥーレは恨めしくてならなかった。それほどの力を持ちながら、なぜ娘を守ってやれなかったのだ、庇ってやれなかったのだと思うのだ。
トゥーレ自身何もできず、非難できた義理ではないのだが。しかし、よろよろと去ってゆく彼を、慰めようとは思えなかった。むしろ自分の目に映らないどこか遠くへ消えてしまえと、唇を噛んで顔を背けるのだった。
いっそ嵐がもっと続けば良かったのだ。贄を捧げても無駄だと知らしめる為にも。このままでは、贄のおかげで嵐が去ったと言い伝えられることだろう。そしてまたいつか、誰かが犠牲になるのだ。
悔しさに、ぐっと砂を握った。
と、手のひらに鋭い痛みが走った。見ると、砂に埋もれていた割れた大きな貝殻を握っていた。血がじわりと滲み出す。
ドクドクと脈打つ手のひらの痛みは自分が生きている証だ。アマリアはもういないというのに。
彼女は苦しんだのだろうか。最期に何を思ったのだろうか。本当に何もかも納得して、死に臨んだというのだろうか。
喝采を受けて、ハラルドが高笑いをしていた。
トゥーレにはひどく耳障りに聞こえてならない。
――黙れ……黙れハラルド!
ふらふらと立ち上がり、得意満面の叔父のもとへと向かった。
一足ごとに怒りが膨れ上がってくる。
意見の対立を遥かに越えて、彼を憎いと思う。古来から続く風習を憎いと思う。
「叔父上に問う……」
トゥーレの声は、地の底から湧き上がってくるような冷たいものだった。
ただならぬ雰囲気を察したか、ハラルドを囲っていた人垣がさっと割れ後退ってゆく。波打ち際で二人は対峙した。
「嵐が鎮まったのは、海神が贄に満足したからか……」
「いかにも。神は、民の為の我が祈りを叶えたもうたのだよ!」
「ならば海神が怒れば、海はまた荒れるのか」
「まさにその通り! そして、領主とは神を鎮めたもう役目を負うもの! 誰が真の領主足り得るか、皆の目にも明らかだろう! トゥーレよ、お前よりも相応しい者がここにいることを、認めてはどうかな」
「……では、試していいか」
「何をだ?」
「禁忌を破っても、海は荒れはしないという事をだ!」
ざぶりと波の中に足を踏み入れる。
マントを跳ね上げてトゥーレは腕を広げた。
「見ているがいい!」
それは目の前のハラルドと、自分たちを見つめる無数の瞳に向けた叫びだった。
トゥーレは鋭い貝殻の破片を自分の腕に突き立てる。
雄たけびを上げて切り裂けば、ドクドクと赤い血が朝日に輝く波に滴った。
遠巻きにする群衆から悲鳴が上がった。
「トゥーレ! 何をする?!」
突然の、予想だにしないトゥーレの行動に、ハラルドは思わず後退り唇をわななかせていた。
「海は再び荒れるのか?」
「な、何を……狂ったのか」
「感謝を怠り、我らが争いで血を流し海を穢したならば、海神は再び怒り狂うというぞ!」
ダラダラと血を流しながら、トゥーレはハラルドに詰め寄った。その足下では、波が赤い血を広げてゆく。
浜はしんと緊張に包まれた。
「海は荒れるのか?!」
「バカを言うなトゥーレ。嵐は去ったんだ。つまらぬことをしていないで、さあ傷の手当てをしに行け!」
「……嵐は去っただと? あなたがそれを言うのか……」
「ああ、海神に怒りはおさまったじゃないか!」
「海を血で穢せば、海神は怒り暴れ出すのではないのか! それを鎮めるのが贄ではないのか! 俺は海を穢したぞ! さあ叔父上、お答えを! 海は再び荒れるのか!」
「止めろ、トゥーレ! もう終わったんだ!」
「叔父上ぇぇ!」
トゥーレは吠えるように叫んだ。
鋭い欠片を持った右手が、ブンと弧を描いてハラルドの喉へと走る。
ザクリと皮膚が裂けて、トゥーレの腕を追うように赤いしぶきが舞った。ギャッと悲鳴を上げハラルドは膝をついた。
驚き騒ぎ始めた群衆をふり返り、トゥーレは叫ぶ。
「見ろ! ハラルドの血も加わったぞ! だが海は荒れはしない! 血の穢れなどで海は荒れはしない!」
血を流す喉を押さえて、ハラルドはトゥーレを見上げていた。その目は恐怖に揺れていた。
剣を抜く音がいくつも聞こえてくる。ハラルドの護衛だ。しかし、走り出そうとする彼らをラルスが制した。
「お前らは、誰を殺そうというのだ? 神に宣誓し、正式に領主となったのは誰だ? トゥーレの邪魔をするんじゃない。海神の怒りなど迷信だということを、バカなお前らでも分かるように見せてくれようとしてるんだから」
「ラ、ラルス様。しかし、お父上が……」
「反逆者を罰するのは、領主として当然だろう。アレはトゥーレを差し置いて、厚かましくも自分が領主に相応しいと、海神の前で暴言を放ったのだから」
冷たい笑みを浮かべるラルスに、ハラルドの護衛役は恐ろしいものを見てしまたっと青ざめて弓を下した。
揺らめく海面に赤い煙が広がってゆく。
海は凪いでいた。
トゥーレとハラルドの血が絡み合い混じり合って、海に溶けてゆく。
やはり、海は凪いでいた。
幽鬼のようにトゥーレが振り返る。
「海は荒れない……当然だ」
遠巻きにしてる群衆は、息を飲んで彼を見ている。
バカバカしいと思う。とんだ茶番だと思う。こんなことで荒れるはずがないのだ。だが、敢えてトゥーレは声を張り上げた。
「この穏やかな海をみろ! 空をみろ! 再び荒れると本気で思うのか?! いいか! 前に教えたはずだ。嵐がいつ終わるのかを! 俺は確かに今日の日を予言したぞ。俺の言った通りになったぞ! なんなら、もう一度予言しようか。血の穢れなどで海は荒れないと! この先穏やかな好天に恵まれると!」
皆も分かっているのだ、愚かな迷信であることは。海に血を流したからといって荒れることが無いように、贄が嵐を鎮めたりしないということも。
ただ激しい嵐がもたらす恐慌から、神を求め、贄を捧げ、祈ることで心の安寧を計ろうとしているのだ。
人の弱さゆえなのだ。しかし今はそれが許せない。
トゥーレは、喉を押さえ苦しげに悶えているハラルドを立ち上がらせ、ドンと浜に向かって背中を押した。転がるようにハラルドは波の届かぬ場所まで逃げてゆく。彼の護衛は即座に主を迎えにゆき、その場を離れたのだった。
「貴様らぁ! 間違えるな!」
腹が立ってならない。己も民衆も何もかもが腹立たしい。
こんなバカバカしいことの為に、アマリアを死なせてしまった己は大罪人だと思う。今ここで死んでも、決して贖えはしない。
ならば、全ての責務を重圧を苦悩を背負うしかないのだろう。怒りを力に変えて、今目の前にいる者どもに見せつけてやる。今まで皆して犯してきた、愚劣な罪を曝け出してやる。
「神は我らを見守るだけだ。嵐を起こしもしなければ鎮めもしない! 贄は無意味だ! 気付け! 愚かさを認め、そして捨てろ! 自然の力は変えられない。しかし知ることはできるんだ! 知ろうとすれば分かるんだ! そんなに嵐が怖いなら、前触れも収束の兆しも、全部俺が教えてやる! それでもまだ恐れるのなら、何かを崇めたいのなら、俺を崇めろぉぉぉ!」
トゥーレの咆哮に、浜は静まり返った。日の光をキラキラと反射させて、海が静かな波音を立てるばかりだ。
幾つもの畏れにも似た眼差しが、彼を見つめていた。
数日前から、トゥーレが嵐は直に治まると説いていたこと、昨日の領主就任の宣誓の折にも早ければ明日にも海は鎮まると予言していたこと、それらを思い出しているのだろう。浜に集まった人々は、強い力に惹きつけられるように、トゥーレを見つめていた。
「ブチ切れやがって……バカが」
ラルスはチッ舌を打ってから、苦笑する。
トゥーレを見つめて真っ直ぐに歩いてゆく。
彼に気付いたトゥーレは、サッと腰を落として身構えた。父を傷つけられた彼が、報復してくるのは当然だと思った。
ラルスは剣を携えているが、トゥーレは丸腰だ。勝てる見込みなどないが、ここで死んでなるものかと目をギラつかせていた。
変えると決めたのだから。アマリアへの手向けの為に、因習をぶち壊してやると決めたのだから。まだ死ねない。
ラルスは波で足の濡れない、ギリギリのところで立ち止まった。そして腰の剣に手を伸ばす。
見守っている者たちに緊張が走り、トゥーレは歯を剥いてマントを跳ね上げた。
しかし、ラルスの剣は砂の上にぼとりと落ちていた。
彼はトゥーレだけにうっとりと微笑み、そして跪いた。
「今こそ終生の忠誠を誓おう。我がトゥーレよ、貴方は海神の現身だ。我が命をかけて、御身の為に……」
彼の顔は陶酔に緩んでいた。憎しみや悲哀は欠片さえ無かった。
親愛なるものを見つめて深々と頭を下げてから、群衆をふり返る。
「貴様たちも誓え! 我らが領主は海をも統べるお方なのだ! 跪け、そして称えるがいい!」
始めは少しづつ、そして次々に人々は跪き、トゥーレの名を唱え始めた。
背に日の光を浴びるトゥーレの輪郭が金色に輝いていた。
波にぬれた裸身は、今まさに海から上がってきたようで、怒りのこもった強い視線は、神話の中の海神さながらだった。
自分に跪き、すがるような目をした群衆を、トゥーレは眺める。
本当に欲しかったものは、こんなものでは無かったと、虚しく思いながら。
ラルスが波を割って近づいてくる。さあこっちに来いと手を差し伸べていた。
「これで、全部あんたのものだ……。ひとつ以外は」
「俺は、そのひとつさえあれば良かったんだ……」
ラルスはうんうんと子どもをあやすように頷く。肩に回された腕が温かくて、泣きたくなるのをトゥーレは唇を噛んで堪える。
ラルスの声が耳に優しい。
「トゥーレ、願いつづけろ……。側にいて、俺がなるだけ叶えてやるから」
これからの治世を助けてくれるというのだろう。ありがたい事だが、やはり今は全てが虚しく感じるばかりだった。




