諸月の時期9
彼女の倍はあるであろう黒虎の前脚を、レイジーちゃんの身体は受け止めていた。小柄な身体に潰れた片腕。見た目におよそ不釣り合いであるが、巨大な前脚は彼女の身体にめり込み、止まっていた。
「……レイジーなの、か?」
「? そうだよクリス。忘れちゃった?」
クリスくんの疑問に、小首を傾げて彼女は答える。
めり込んだ腕が抜けないのか、黒虎は身体を揺すりつつ唸り声をあげていた。
「それとーー、さっきからうるさいこの子は、クリスの敵なの、かな?」
レイジーちゃんが黒虎へと振り向く。黒虎の動きが一瞬止まったように感じられた。黒虎は慌てたように身体を捻って腕を引き抜くと、バックステップで距離を置いた。
「ふんっ!!」
さっきまで黒虎が居た場所にひとりの軍人が降ってきた。アルよりもさらに身体が大きい。バイダルさん並の巨体だ。
「おや、外れてしまったか」
軍人の足は庭のズッポリとハマっていた。特に気にすること無く男は地面から足を引き抜く。
「君、腕見せて。隊長、すみませんが後を頼みます」
「もとよりそのつもりだ。陛下が月見を所望されてな。露払いをせねばならん。医者は呼んである」
「感謝します」
黒髪の女性は銃をしまい、レイジーちゃんの近づいて怪我の具合を診る。隊長と呼ばれた男は彼女と二言三言会話すると、黒虎へと向かっていった。
「大丈夫だよ?」
「強がらなくていい。服、破くよ。我慢して」
返事も待たずに黒髪の女性は服を引き裂く。できるだけレイジーちゃんの腕に負担がかからないように、両手の指の力だけでちびちびと素早く裂き切ってしまった。彼女の首元から左腕が顕になる。腕は全体が紫色に鬱血しており、肘から先が捻じ潰れていた。
「クリス、この人誰?」
「僕も知らない。それよりレイジー、大丈夫なの?」
「うん!」
「第一分隊所属、レイカ・ミヤナギだ。大丈夫なわけなかろう。……君は彼女の知り合いか?」
「ええ。クリス・レイネットです。彼女はグレージーと言いまして……」
続く言葉をクリスくんは呑み込んだ。
「ーー何だ?」
「いえ。何でもありません」
「そうか。おいよせ。動かそうとするな。……痛くないのか?」
レイジーちゃんは右腕でひしゃげた左腕を掴んだ。そして無理矢理、左腕を捻り戻す。
「うーん、ちょっとだけ、かな」
「馬鹿な」
顔色を変えずにレイジーちゃんは言う。逆にミヤナギさんは顔色が悪くなる。普通なら失神するのが当然の怪我だ。意識があったとしても、痛みにのたうち回るのが普通のはず。それを、よりにもよって捻り潰れた腕を自分で捻り戻すなど、正気の沙汰じゃない。
「……とにかく、これ以上、絶対に触るなよ。医者を呼んであるからそれまで待て」
「えー」
「レイジー。言う通りにしよう」
「でも、すぐ治るよ?」
「分かってるから。それより、どうしてレイジーがここにいるの? 部屋の鍵は?」
「暗くなったら開いたよ? それでね、クリスの匂いを追ってここまできたの」
「匂いって……。それに停電ごときでロックが外れた? どんなセキュリティしてんだが……」
クリスくんは頭を抱える。自分がここに来たことで悩む彼の様子を見て、だんだんと笑顔が薄れていくレイジーちゃん。俯いてしまった彼女を見て、クリスくんはため息をつく。
「まあ、ここまで来ちゃったものはしょうがないや。レイジーのせいじゃないしね。とりあえず、今日は僕と一緒にいようか。勝手にどこかに行ったりしないでね」
「うん! クリス、ありがと!」
再び笑顔になったレイジーちゃんは、クリスくんに抱きついた。
「わ」
「わ」
傍にいたアンナとケイトが両手で口を覆う。
「こら、レイジー離れろ」とクリスくんは額を押して、抱きつく彼女は引き離そうとしている。
「本当に痛みはないのか……?」
二人の様子を見ていたミヤナギさんは、口元に手を当てそう呟いた。
「さて、陛下にこれ以上の失態は見せられまい。早く終わらせねばな」
屋根より飛び降りた隊長はそう呟くと、無防備に黒虎へと近づいていった。
気負うこと無く、焦ること無く。まるで、散歩の途中で知り合いにあったときのように、彼はモンスターへと歩み寄る。
「グルァ!」
当然のように黒虎は爪を振るう。暴風のごとき攻撃をすり抜けるように隊長は躱し、気づいたときには黒虎に咥えられていた子供は彼の腕の中にあった。
「……気を失っているな。まだ息はあるようだが」
「グアン!」
獲物を奪われたと思ったのだろうか。逆上した黒虎が彼に襲いかかる。再び彼は攻撃をすり抜け、避けざまにその丸太のような腕を踏み折っていた。
「グルゥア!」
一方的に隊長が蹂躙する。
痛みに暴れる黒虎のもう片方の前脚も同様にへし折り、振り向きざまに放たれた尻尾の鞭をも大振りのナイフであっさりと切断してしまった。切り離された尻尾が地面を転がる。
「これで終わりか?」
無表情で放たれた低い声が、二回り以上に大きい黒虎を威圧する。
「……グゥル」
怯えたようにモンスターは唸ると、折れた前脚を引きずるように後ずさりを始めた。そして、一足長の間合いよりも離れると、黒虎は両前足の鱗を逆立たせる。『鱗飛ばし』の前兆だ。
「悪いがそいつは無理だ。やれ」
隊長の合図で三人の軍人が黒虎に飛びかかる。右前脚は振りかぶった瞬間に切り飛ばされ、バランスを失いつんのめる黒虎の首元に炸裂弾が命中した。首元が爆ぜてびしゃりと液体が飛び散る。支えるものが無くなった黒虎の胴体が、音を立てて地面へと崩れる。流れ出る血の他に、黒虎が動き出す様子は感じられなかった。
「……ご無事で?」
「ああ」
鱗から隊長と子供を守るために立ちふさがった軍人が、振り向いて尋ねる。手を差し出す彼に子供を渡すと、隊長はもう一体の黒虎のほうを見た。
「こっちも終わってますよー」
金髪が相手取っていた黒虎と黒狼は、すでに彼の手で一山の肉塊へと変えられていた。反対側の黒狼も新たに集った第一分隊のメンバー二人によってすでに死体となっている。
「よし。これにて露払い完了だ。ーーギータ、いいぞ」
「へーい。いいですか、陛下。飛びますよ」
屋根の上から声がする。トンっと何かが跳ねる音がすると、男性をお姫様抱っこした軍人が飛び降りてきた。
「ほー! 思ったよりも怖かったわ。寿命が3年縮んだわい。お主のせいじゃぞ?」
「だからやめようって言ったじゃないですか。そんなこと言ってると、守ってあげませんよ」
「なんじゃい、冗談が通じぬのう」
お姫様抱っこされていた男性は地に脚をつける。周囲を警戒する軍人を残して、第一分隊の面々も彼のもとに集まってきた。
「おい、あれって……」
「ああ、間違いない……」
逃げ遅れていた避難民がざわめく。
「嘘、皇帝陛下……?」
「お城だし、居るのは当然としても、何でここに……?」
ケイトとアンナも疑問を呈す。
「お父様!」
玄関の向こう側から人混みを押し寄せて、二人の軍人とひとりの女性が出てきた。女性を二人の軍人が守っている形だ。彼らは避難民を押しのけて皇帝の前まで来る。
「なんじゃ、お前まで来ること無かったんだぞ、ソフィ」
「お父様が出ていかれたのに引きこもっているわけにも参りません。私の護衛も少しは役に立つでしょう。それに医者が必要なのでしょう? 連れて参りました。もちろん、私も手伝いますわ」
両手をグーにしてやる気を顕にする彼女。皇帝をお父様って呼んでいるということは、この人がお姫様か。
「そうかそうか。それで、医者はどこかの?」
「……あれ?」
お姫様はキョロキョロと辺りを見回すと、自分の護衛以外はいないことに気がついた。
「……置いてきてしまいましたわ」
恥ずかしそうに彼女は呟いた。




