ソフィの極秘調査10
◯前話のあらすじ
レイジーの中身を見て姫様がゲロった
しばらくして、ソフィアの強烈な吐き気はおさまった。
「ごめんなさい、シダレ」
「気にしないでください。まったく面識のない相手ならともかく、知り合いのこんな酷い姿を見てしまっては、仕方ないですよ。……大丈夫ですか? まだ続けますか?」
優しく諭すように、シダレは尋ねる。
「……えぇ、大丈夫です。まだ、やりますわ」
ソフィアは自分を奮い立たせるようにそう答えた。
「……分かりました。私はこれを掃除するので、姫様は少し休んでいて下さい。あちらに水場があったので、少し顔を洗ってきてはいかがでしょうか」
シダレが示した先は、この部屋の奥にある、開け放たれた扉の向こうの、小さな部屋だった。そこには洗面台のような小さな水場があるようで、ソフィアは「そうするわ」と返事をすると、幽霊のような足取りでそこに向かった。
蛇口を捻って顔を洗う。少し暗いせいか、目の前の鏡に映る自分の顔は、ひどく青ざめて見えた。
(きっと、クリスが見たのも、あそこにいるレイジーなのね……)
以前、クリスが言っていた『相当酷い実験』とは、あの標本や指のことだろう。クリスが詳しく語ろうとしなかった気持ちが今なら分かる。口にするのも憚られる、思い出したくもない、悍ましい光景。
こんな酷い実験をする連中が、ここには居る。
そして、もしかしたら兄様も、そんな目にあうかもしれない。
(絶対に、助けなくちゃ……)
冷たい水に触れることで、逆に身体が温かくなった気がした。
顔を拭いて、深呼吸する。
「よし」
と、ソフィアは頭を切り替えるように、自分の頬を軽く叩いた。
(兄様を探そう)
決意を新たに、シダレのもとに戻ろうと振り返った、その瞬間。
視界の端を、何かが横切った――ような、そんな気がした。
洗面台の反対側には、カーテンが掛けられていた。
そのカーテンと壁の隙間に、ソフィアの目がスッと留まる。
(奥に――まだ何か……?)
カーテンの隙間から見える壁は、まだ、奥に空間がありそうに見えた。
ソフィアが静かにカーテンをめくると、少し細長い通路のような部屋が現れた。どうやらこの部屋はカーテンで前後に仕切られていたらしい。部屋の奥には、また小さな扉が見えた。
薄暗い部屋には荷物が置かれていたが、ひとひとりが通れる隙間くらいなら十分にあった。ソフィアはそれらを慎重に避けると、部屋の中へと進む。
数歩。進んだ、その瞬間。
奥の扉の明り取り窓が、パッと光った。
(誰かいる!?)
見つかったわけではないと思うが、誰かがこの扉の向こうにいるのは確かだ。向こう側の連中に見つかっては非常にまずいことになる。
そう思ったソフィアは、シダレにこのことを伝えようと急いで戻ろうとする。が、慌ててしまったせいで、彼女は部屋の荷物にぶつかってしまった。大きな音さえしなかったものの、その衝撃で荷物を覆っていた白い布がはらりと床に落ちる。
そして、ソフィアは白い荷物で覆われていた荷物を――白い布で隠されていた荷物を見た。
皇帝、ヴィルヘルム・フォン・マルステラが、そこに居た。
「父……、様……?」
寝台の上に、ソフィアの父親が横たわっていた。
眠っているのではない。
胸が上下していない。
それどころか、身体がピクリとも動いてない。
ただ、形としての皇帝をそのままそこに敷き直したように、皇帝は静かに横たわっていた。
目眩がして、力が抜ける。
これは作り物だと、だれかが囁く声がした。
その意見にソフィアも賛同した。
改めて顔をまじまじと見る。
顔が、異常なほど綺麗に青白かった。
血の気は失せて、意味を見失っていた。
音はひとつとして、生きていなかった。
そっと、ソフィアは皇帝の首元に触れた。
無機物のように冷たかった。
表面はゴムのような弾力で、奥は少し硬かった。
彼女はこの身体を知っていた。
知識として知っていたし、経験としても分かっていた。
回り込むように背中側見ると、服が黒い血の塊で汚れていた。
今、目の前にあるものが父親の死体だと、ソフィアは気づいた。
「父様ッ!!!!」
何で。何で。何で。何で。
どうして。どうして。どうして。どうして。
意味が分からない。意味が分からない。意味が分からない。意味が分からない。
連れ去られた兄を探していたら、仕事を終えて家にいるはずの、父の死体を見つけた。
あまりにも荒唐無稽の話だ。
これは夢だと、再び誰かが囁く声がした。
そうだといいなとソフィアは思った。
誰かが何かを叫んだ気がしたが、それすらも彼女の耳には入って来なかった。
何かが壊れている。
日常が壊れている。
いや、もともと壊れていたのかもしれない。
今、この瞬間に、目に見える外側が大袈裟に壊れただけであって、
目に見えない内側は、もともと静かに腐敗していただけなのかもしれない。
急に衝撃が来て、視界が揺れた。
誰かに担がれて、無理やり移動しているのだと分かった。
「姫様、逃げますよッ!」
誰かは、シダレだった。
シダレはソフィアを担いで白い光の部屋まで戻ると、例の脱出口の近くでソフィアを下ろした。
「シダレ、父様が――」
「分かってますッ! 詳しい話は後で。人が来ます!」
シダレはそう言って、脱出口の蓋を開け、下に降りるための準備を整える。
(人が来る……?)
そう言われて、ソフィアは我に返る。
明り取り窓から光が差し込んだことを思い出すと同時に、自分があれを見て「父様」と叫んだことを自覚した。どうしようもなく取り返しのつかないことをしてしまった後悔と不安が彼女を襲う。
そして、それとは別に、彼女の脳は、あの場で聞こえた誰かの叫ぶような声を再生していた。とても印象的な事象を記憶するかのように、無意識化で繰り返し繰り返し再生され、やがて彼女は思い至る。その声の主の正体と、それに伴う奇妙な違和感。そして、そのふたつをつなぐ、信じ難い可能性に。
「さ、準備ができましたよ。しっかりとおぶさって下さい。ゲロはちょっと残ってしまいましたが、仕方ありません。行きますよ」
シダレはそう言うと、穴の入り口に足をかけて背中を見せ、身体を預けるよう催促してくる。リュックは腹側に移動したようだ。
「――? 姫様?」
しかし、ソフィアはシダレに身体を預けずに、彼女の首元をそっと抱きしめるように抱えた。シダレの耳に顔を近づけ、先程気づいた声の主に関する情報を彼女に囁く。
「――――」
「え、姫様。それはどういう――」
「ごめんね、シダレ。私は行けないから」
シダレからそっと離れて、ソフィアはトンと、彼女の身体を押した。
「――え?」
「あなただけでも逃げて、誰かに伝えて」
バランスが崩れ、シダレは吸い込まれるように穴から下へと落ちていった。
ドン、という音が穴から聞こえて、数秒後。
「こんの、クソ姫、がああああーーーッ! 今、すぐ、降りてこーいッ!!」
清々しいほどの悪態が穴から聞こえてきた。落としてから、万一のことがあったらどうしようと、少し不安を感じたソフィアだったが、どうやらシダレは無事らしい。
「クソ姫でごめんね」
小さな声でソフィアは謝罪する。短い間だったが、シダレには迷惑を掛けっぱなしだったのだ。そう思われても仕方ない。
ソフィアは穴の蓋を閉めると、白い光の部屋を抜け出した。
あんな大きな声で「父様」と叫んだのだ。ゲロがなくとも、自分の存在がバレていないはずがない。ならばせめて、存在のバレていないシダレだけでも確実にここから逃がしたほうがいい。彼女の脱出方法では蓋を閉めることができないから、どこに逃げたのかすぐに分かってしまう、足手まといの私も居るから、下手をすればすぐに捕まってしまうだろう。だったら私が扉を閉めて、囮になって、シダレの逃げる時間を稼いだほうがいい。あとはシダレが、あのことをレイカに伝えてくれれば、きっと、何とかなるはず――。
そんなことを思いながら、ソフィアは薄明かりの灯る建物を静かに走る。目的地は階段だ。シダレの存在がばれないようにするためには、見つかって逃げ出す、という自然な行動を取るほうがいい。であれば、ここは地下なのだから、階段から上に逃げる他はない。階段は、さきほど白い光を探すときに見かけていた。
(ここの角を曲がれば……)
ソフィアは階段のある通路へとたどり着いた。まだ誰とも出会っていない。あわよくば、このまま地上まで辿り着けるかも、という小さな希望がソフィアに芽生えかけたその瞬間――。
「どうしたんですか。ソフィ様。こんなところで――」
コツコツと足音を立てて、帝国軍第一軍団第一分隊副隊長のギータが階段から降りてきた。
「ギータ……!?」
「そうですよ。ソフィ様と一緒にライブにも行った、副隊長ギータです」
お忘れですか? とギータはこの場に似つかわしくない飄々とした笑みを浮かべる。
「まさか、あなたが……?」
「? 何のことか分かりませんが、そう警戒しないでくださいよ。ところで、他の護衛はどうしたんですか。ソフィ様おひとりですか?」
キョロキョロと左右を見渡しながらギータは近づいてくる。
「……ええ、そうよ」
「え、そうなんですか!? まったく、ミュンヘンもクーガーも何やってるんだか……。ま、いいです。とりあえず私が来たからには、もう安心ですよ。さ、一緒に皇城に帰りま――」
「止まりなさい!」
ギータの言葉を遮るように、ソフィアは叫んだ。ギータの動きがピタリと止まる。
「ソフィ様……?」
「質問に答えなさい、ギータ。あなたはどうしてここに居るの?」
「……それはもちろん、仕事ですよ、命令です」
ギータは訝しげになりながらも、ソフィアの質問に答える。
「どんな命令? 内容は?」
「すみません。極秘事項でして、答えてはいけないことになってるんですよ」
「そう。誰から引き受けた命令ですの?」
「それはもちろん、陛下です」
ギータはどうしてこんなことを尋ねられるか分からないといった様子だったが、それでも質問にすらすらと答えた。
「さ、満足ですか? 早く帰りますよ」
「待ちなさい。あと一つだけ、質問に答えて」
ソフィアの懸命な様子に、仕方ないですねとギータは応える。
「あなたの言う『陛下』は、『父様』と『兄様』、どちらのこと?」
「……?」
ギータは首を傾げる。
「すみません、質問の意図が――」
「いいから、答えて」
「はぁ。それはもちろん、ソフィ様のお父様のことで――」
と、答えかけたギータの口が、ピタリと固まった。
次いで「あー、そういうことか」と、無表情のまま彼は呟く。
「なるほど、なるほど。あわよくば、俺を使おうとしましたね、ソフィ様。もし俺が何も知らなければ、俺は明日にでもこの質問の真意をあなたに訊き返す。そしてあなたは秘密を打ち明け、俺を手駒にすると、そういう算段ですか……」
彼はため息をつくと、「いいや。面倒くせえ」と言った。
「分かりました、面倒くさいのは抜きにしましょう。もとより、解放する気はありませんでしたから。……さて、抵抗しないほうが楽ですよ?」
豹変した、というわけではない。ギータはいつもの飄々とした態度のままであった。いつもの様子を纏ったまま、普段なら護衛対象であるはずのソフィアへと、敵意を向けた。それだけでソフィアは、射竦められたように身体が震えた。
「理由は……もう、どうでもいいですね。他に誰が、ここに来ていますか?」
「――何を言っているの? 私だけよ。ここまで来るのに苦労しちゃった」
数瞬であった。瞬く間にソフィアはギータに組み伏せられ、床に顔と身体を押し付けられていた。肺が押し潰されて、口から空気が絞り出される。
「もう一度、訊きます。他に誰が、ここに来ていますか?」
「っかは……。……離しなさい、ギータ。あなた、私が誰だか分かっているの……?」
「……ふぅ。強情だなぁ」
と、ギータがソフィアを更に圧迫しようと、膝で背中を押しつぶす準備を始めようとした、そのとき。
ソフィアがやってきた方向から、コツコツコツ、という足音とともに、ひとりの男が現れた。
「ギータ、下がれ」
男の命令にギータは素直に従い、ソフィアは解放される。
起き上がった彼女が見たのは、彼女のよく知る、ついさきほどまで彼女が探していた人物であった。
「兄様……ッ!」
「そうだよ、妹よ。わたしは、君の敬愛する兄様だ」
ソフィアの兄、カミエルは怒るでもなく、悲しむでもなく、静かに微笑みを浮かべると、
「さて、これからの話をしようかの」
と言った。
姫様編はあと1話で終わる予定です。




