第七夜:覚醒
もしも、僕が魔物だったのなら……。
魔法大学付属学院で過ごした日々も、リリィーナ教官と一緒にいくつか事件を解決したことも、すべて嘘だったのか。
僕の恋人はローズマリーだ。彼女と一緒に過ごした思い出も、すべて偽りの記憶なのだろうか……?
「サー・トール!」
リリィーナ教官の鋭い呼びかけ。
僕は応えられなかった。膝が砕け、目線がいきなり低くなる。ぼやけた視界が急速に狭くなり、リリィーナ教官の姿が見えなくなった。
「いいかげんに目を覚ませ。君はまだ生きているんだ。それは氷神が君の夢を象って作った氷の形代だ。操られたのは君の夢の影にすぎない。君は今、どこにいる?」
どこにいるかって?
いったい、教官は何を言って……。
ふいに、暗闇になった。
再び明るくなった時、僕の視界は、炎のようなオレンジ色に染まっていた。
呼吸ができない!?
全身が圧迫される息苦しさは、逆に僕の意識をはっきりさせた。
僕には五体が揃っている。凍えた手足の感覚は乏しかったが、必死で力を入れた。
「起きろ、サー・トール」
リリィーナ教官の呼びかけとともに、顔の前で氷が砕けた。透明な氷屑が顔に当たり、僕はギュッと顔をしかめた。
それからたっぷり一分間はもがいただろう。僕の体の前で氷の壁が崩れた。次に、ガラガラと大きな音を立てて、薪の山が崩れた。僕は散らばった薪の上に倒れてから、右側に転がった。雪の上だ。ここは屋外。顔を左に向ける。目を開ければ、黒いブーツの爪先が顔のすぐ前にあった。
「……リリィーナ教官」
「よく自力で起きた」
リリィーナ教官は僕を見下ろしていた。右手には銀の長剣を持ち、その切っ先は地面に向いている。多次元管理局の万課員が持つ銀の剣。あらゆる魔をはらう退魔の剣だ。
「僕は、なんで、ここにいるんですか」
僕は、僕の声で喋っている。気分は、かろうじて生きているという惨めさでいっぱいだった。手足に力が入らない。ついさっきまで溶けていたという、全身が麻痺していたような奇妙な無力感が生々しく残っていた。
「言っただろう、心臓を奪われた氷神は、人間も動物も凍死させることはできないんだ。ヤツの心臓は私の手の内にあった。だから私は、君が死んでいないのを知っていたのさ」
僕は寝転がったままで、リリィーナ教官を見上げた。
「すみません。僕は……教官の足手間どいになりました……」
涙でにじんでリリィーナ教官が見えなくなった。後悔と自己嫌悪で頭がどうにかなりそうだった。魔物の仕掛けた罠を見抜けないなんて、未熟にもほどがある。だから実技で追試になったんだ。リリィーナ教官のお供で遠い辺境の地へ来るはめになったのも、補修課題だったというのに。この失敗で、もう単位はもらえないかもしれない。留年したら、ローズマリーの後輩になってしまう。――――もしも彼女に振られたら、生きていけないかも知れない。
「安心したまえ。この程度の失敗なんて、未来の万課員には失敗のうちに入らないさ。ちょっと怖い思いをさせたが、良い勉強だったと考えろ」
リリィーナ教官はぜんぜん怒っていなかった。僕は希望を持って顔を上げた。だが、あっさり許してくれるのかとおもいきや、
「しかし、この件は報告する。今後の君のためのテスト問題を作成するのに、良い材料になるからな」
あ、やっぱりそうですか。
うなだれる僕に、リリィーナ教官は背中を向け、大きく伸びをした。
「では、帰るか。小屋を掃除して荷物をまとめてくれ。報告書をまとめるのは、管理局に帰ってからだ。わたしは先に村に戻って村長に報告してくる」
リリィーナ教官はさっさと小屋から出て行った。
小屋に残された僕は一人で掃除をして、荷物をまとめた。
暖炉の火はすっかり消えて室内は冷えていたが、昨日まで感じていた骨まで凍えるような寒さはもう感じなかった。外の空気も、昨日までとは打って変わった、春のような陽気になっている。
僕は暖炉の灰を掻き出し、一片たりとも残さず袋に詰めた。
リリィーナ教官に指示されたわけではない。ただ僕が個人的に、こういった魔術的な儀式の痕跡みたいなものを、普通の村の人が利用する場所に残していくのが嫌だったのだ。
そして僕は狩り小屋に鍵を掛け、大荷物を抱えて村に向かった。
その途中で、灰の詰まった袋は大きな川へ投げ捨てた。
開いた袋の口から流れ出た灰はゆるやかな流れに拡散し、緑の水に灰色のまだら模様を描くと、やがて水に呑まれて消えた。
〈了〉




