第六夜:氷神の実体
それからさらに三日経った。
真夜中に再生した氷の心臓は、暖炉の炎の中で全体にかすかなヒビ割れを走らせていた。氷の心臓が割れる時間は日によって二~三時間早かったり遅かったりした。どうやら薪の量や燃やし加減で微妙な誤差が出るようだ。
今夜の心臓はことのほかしぶとかった。
僕らは室内に山と積み上げた薪を惜しみなく暖炉に放り込み、ゴウゴウと火を燃やし続けた。
そして、とうとう、室内に持ち込んでいた最後の一本まで炎にくべた。
そして僕は、暖炉の飾り棚に置かれている、リリィーナ教官の銀の懐中時計を見た。時計の長針は、午前六時の少し前を差している。
「もうすぐ夜明けだ。これで、あと一夜頑張れば……明後日には、帰れますね」
そう思うと僕は眠気が吹っ飛んだ。大急ぎで荷物をまとめたい衝動に駆られた。体がうずうずして、僕は暖炉の前から立った。
「もうすぐ日の出の時間だ。火が弱くなると寒いから、玄関の横にある薪を一本、取ってきますよ」
「薪はもういい。暖炉の火は、夜明けまでなんとか保つだろう」
リリィーナ教官は怪訝な目で僕を見たが、僕はすでに扉の前に立っていた。
「玄関の外には出ませんよ、ドアから手を伸ばせば、横にある薪の山に届きますから」
「開けるなッ!」
リリィーナ教官の声は、僕を振り向かせた。
ドアノブを掴んだ僕の手に力は入っていなかった。
断じて僕はノブを回していない。
だが、内開きの扉は開いた。
外側から何かが押したのだ。
開け放たれた扉から、凄まじい暴風が吹き込んできた。
外は真っ暗だった。太陽が地平線から顔を出すのが夜明けの合図ならば、世界に陽の光が満ちてこそ、本当の朝なのだ。そうなるまでにあと数分かかることに、なぜ僕は思い至らなかったのだろう。
小屋の中を吹き荒れる風雪の中で僕が見たのは、巨大な骸骨。小屋の中に居ながらにしてその頭は本来の天井の高さよりもはるかな高みから見下ろしていた。室内で在りながら、異次元にあるがごとき、巨大な、全身が白く透き通った氷の骸骨巨人がそこにいた。
『我ガ心臓ヲ返セ』
冷酷なメッセージが氷の刃さながらに僕の鼓膜を貫き、脳髄にまでガンガン響き渡った。全身が押し潰されそうな重圧に耐えかね、僕は耳を押さえてその場に膝をついた。それから、ハッとして、暖炉に目をやった。
こんな強風が室内を荒れ狂っては、暖炉の火が消えてしまう!?
そうしたら、氷神は氷の心臓の破片を取り出し、再生して、体内に戻すだろう。
暖炉の火は消えていた。
氷神が暖炉を覗き込んでいる。
「教官、氷神の心臓を!」
氷神がいようと関係なかった。僕は暖炉に駆け寄り、薪の形をとどめている灰の塊に手を突っ込んだ。
その瞬間、僕の左横で、氷の骸骨巨人の姿はかき消えた。
僕が右手に掴んだのは、灰だった。
砕け散った氷の心臓の破片は――――消えていた。
僕は熱い灰を握った。灰に埋もれて、どこかに水晶の破片のようなカケラがあるはずだった。バラバラになった立体パズルを組み立てるように、真夜中に再生する氷の心臓のピースが…………。小さな破片の一つでもあれば、それが、氷神の手に渡れば、氷の心臓は再生する。
リリィーナ教官は壁際に佇んでいる。
僕は右手を開いて灰の塊を床にこぼした。
呆然と、リリィーナ教官を見た。
何かが僕の内側から膨れ上がってくる。僕の意識を押しのけようとしている。
『ナ……ゼ……ダ。今日ハ、マダ、六日目ダッタハズ……?』
奇妙な声が、僕の喉から絞り出された。僕の声じゃない。
僕は驚き、怯えた。だが、その声の主は、僕の中でだんだんと弱まっていく。引き換えのように僕の意識は冴えてきた。僕は半分ほど、僕自身を取り戻せた。でもまだ残り半分は何かの支配下だ。僕の声帯は未だ人ならざる音を発生した。
「ダガ、オ前ハ、魔法ヲツカッテイナイ」
そうだ。リリィーナ教官は魔法を行使していない。それはずっと一緒にいた僕が一番よく知っている。
「そうだよ。ただ、君を丸一日、余計に眠らせておいただけだ。外から戻ってきたら、中身が入れ替わったことに気付いたんでね。だから、これを使った」
リリィーナ教官が右手を開けた。緑色のガラスの小瓶。
「眠り薬さ」
さては、僕が飲んだコーヒーの中に!?
後輩になんちゅーことをするんだ、この人は!?
「でも、魔物は眠りませんよ。僕は人間だから眠り薬が効いたんだ。僕がただの人間だから、一日時間をずらして誤魔化すこともできたんだ、そうでしょう?」
僕は人間なんだと強く思った途端、何かが、僕の内側から去った。それは、風に吹かれたように、速やかに消えていった。
これで僕の内側には、異質なものはもう何もない。それは確信に近かった。
リリィーナ教官は僕をじっと見つめた。
「ふむ、ようやく最後の残滓が消えたな。でも、残念ながら、そろそろだ。自分でもわかるだろう。ほら、その手をみたまえ」
リリィーナ教官の言葉で、指先が軽いのに気付いた。感覚も無い。両手の指先は失われていた。暖かな炉灰を掴んだから、真っ先に溶けたのだ。両掌は透き通っていた。
「四日前の夕方、君が薪を取りに外へ出た日は一日中雪が降っていた。外は夜のように暗かっただろう。あれこそ逢魔が時さ。なのに外から戻ってきた君の体には、雪の一片すら付着していなかった。あの時から君は、氷から削り出された氷の彫像と入れ替わっていたんだ」
「なにを、バカなことを言ってるんですか。僕は、僕ですよ。さっきまで、氷神に憑依されていたってことならわかりますけど、そのせいだったら、教官、助け…………」
僕の頼みに、リリィーナ教官は両手を広げた。それがやけに優雅な仕草だったので、僕はポカンと口を開けた。
「なんともならないね。その体に眠り薬が効いたのは、たとえ紛い物でも、人間を精巧にコピーしてあったからさ」
「でも、僕は、寒くて暖炉から離れられなかったし、熱いコーヒーも飲みましたよ。この体が氷であるわけが……」
「それは錯覚だ。氷神の心臓が溶けきるまで、君も溶けなかっただけだ。その体は氷神の作った人形だ。運命も氷神と共にある」
「そんな……!?」
僕は溶けていく掌を上げ、左手の甲に触った。その間にも手は溶けていく。水で濡れたすべらかな氷の感触。もう服との境もわからない。すべては氷の塊だ。棒状になった両腕の中心は透明だった。この分だとすぐに肩まで溶けるだろう。
これが僕の『死』なのか?
丸くなった手首の先で、自分の頬に触れる。もう手という感覚も無い。ただ冷たいだけだ。視界がぼやける。目に涙が溢れた時のように。けれど、僕は泣いていない。眼球が溶けて眼窩に水が溢れているせいだ。
全身から、滴り落ちる雫の勢いが早くなる。
足下の水溜まりがどんどん大きくなっていく……。