2 頭上の雲
ジャネット・ニューマンは忌々しげに歩いていた。受け入れがたい父親の無法。
愛娘を放り出すなどとはとても信じられない。これまであれほどに無償の愛を注いでいたのに、労働を拒絶しただけでこの仕打ちである。
前世の両親を思い出す。彼らは働かない自分を追い出すことなどありはせず、毎日おやつを与えて、まだ働く気はないかい、と優しげに問うた。
もちろん自分は死ぬまで働くつもりはなかったので、そう答えると彼らは悲しげに部屋を後にしていった。
病に倒れ、道半ばで逝くとき、両親は涙ながらに、自分たちが悪かったのだと口走った。
そんなことがあろうか。正しく生きた私を育てた両親が、間違っているなどということが。
間違っているのは労働を強要する今生の父親である。いきなり部屋から追い出すなど、鬼畜の所業――
と、彼を非難しようとしたが、できなかった。十八年間自分を愛し続け、今後もそうしようとしていたであろう彼ら。
私を望んで追い出したわけではなく、苦渋の決断だったのだ。
ジャネットの記憶は、彼らを真に愛すべき両親と判断している。
強く生きよと父は言った。ならばそうしよう。
すべきことは既に分かっている。
新たなる寄生先を探すのだ。
■
ひとまずジャネットは安宿に転がり込んだ。
薬師横丁と呼ばれる、狭く曲がりくねった路地の左右に、薬屋や魔法具屋、酒場が並ぶ場所だ。宿は半地下で、暗く不衛生だった。
かつてのジャネットならば顔をしかめただろうが、今ならどうってことはない。前世の生活に掃除は無縁だったからだ。
寝たり、横丁をぶらついてそこらの店を冷やかしたりして、夜は近所の酒場で食事を取った。
無駄遣いしているわけではないが、あと一週間ほどで資金は尽きるだろう。
それまでにどうにかしなくてはいけない。具体的には、暴漢に襲われている金持ちを助けるとか。
そんなことを考えながら三日ばかり徘徊したが、もちろんそんな都合のよい展開は用意されていなかった。
ある日、ゴキブリが這い回る宿の洗面所で顔を洗っていると――自堕落なジャネットだがさすがにそれくらいはする、入浴は二日に一度ほどだが――妙なことに気づいた。
自分の頭上に小さな雲のようなものが浮かんでいる。
前世において慣れ親しんだ漫画の、フキダシのようなものだ。
それに集中すると、そこに文字が浮かんだ。
ジャネット・ニューマン。自分の名前だ。年齢が十八歳であること、本屋の経営者の娘として生まれたが、怠惰により追い出され、現在放浪中であるということが記述されている。
自分は鑑定士としての技能に目覚めたのか、とジャネットは思う。
技能が発現するきっかけは様々だ。精神的なショック、鍛錬が実を結ぶ、生まれつき。どうやら今回は、前世の記憶を取り戻したことが原因だろうとジャネットは推察した。
現在、自分が持っている技能を見ると、
〈怠惰者系統技能 労働意欲喪失〉
〈転生者系統技能 ハルミナの慧眼〉
の二つだった。
どうやら、前世で自らが培った哲学は、怠惰者という役柄として昇華されたようだ。〈技能〉と呼ぶのは皮肉だが、これは不滅なる真理の発露だとして、ジャネットは誇りに思った。労働などで、時間を無為に過ごすべきではない。他者による庇護のもと、安楽に暮らすことこそが正道だ。
一方、雲のようなものを認識し、技能を掌握する能力は二番目の〈ハルミナの慧眼〉によるものらしい。
異界人がこの世界に来ることは、神の祝福、奇跡であり、その加護を技能として宿していることが多いのだという。
ならば自分は、ハルミナによって転生させられたということだろうか。かつての人生と同じく、今は忘れているだけかもしれないが、死後の世界で神と話すという、伝承の一場面を体験した記憶はなかった。
もちろん、そのほうが良いだろう。ハルミナは詐欺師と盗賊の守護神だ。
寓話に語られる口八丁なかの女神は、みすぼらしい老婆に化け、自ら詐欺を働き、傲慢な悪徳者から財宝と幸運を盗む。
自分は悪徳ではないが、きっと太刀打ちできず、意にそぐわない不都合な契約を結ばされていただろう。
いずれにしてもこの技能は、ハルミナよりの贈り物だとジャネットは判断した。