1 三人目
カルドランドの多くの都市は、一五〇〇年前の戦を起源とする。
竜の王とのちの初代国王デレクの戦い。大量のフェイト金貨によって雇われたあまたの冒険者。
彼らが築いた城砦こそが、モーンブルワークであり、キングスホールドであり、そしてダガーピークであった。
エルフの将軍、短剣孤峰のレナーデはごく初期よりデレクに協力し、雷竜を討伐して英雄と呼ばれ、戦後はデレクの息子の一人を伴侶とした。
その子孫の治めるこの都市は、孤峰に聳え立つ城の周りに広がっている。特徴的なのは何重もの城壁だ。
同心円状に五重に築かれた城壁の間には、多くの魔術師と錬金術師の拠点たる学院や研究所が点在している。それと同時に、複雑に入り組んだ路地の奥には数多くの盗賊、ならず者、暗殺者が隠れ潜む。
かつてデレクとその配下たちは、剣と魔法で正面からのみ竜と争ったのではなかった。
竜どもを毒で弱らせる。あるいは、彼らの褥に入り込み、音もなく葬る。
そうした搦め手で幾多の竜を屠ったのは、レナーデが密かに集めた裏の者たちだった。
何も知らない外来者でも、この都市にはいくつかの違和感を抱くかもしれない。
住民たちは他所の都市ほど冒険者を恐れ、忌避することがないこと。
薬屋や魔法具店はやたらと狭く、しかし奥に結構な空間がありそうなこと。
月神ノティスや風神エルムに加え、酒と薬の神コース、眠りの神フュプナ、そして詐欺神ハルミナといった、他所ではあまり見ることのできない神の礼拝所が多く存在すること。
路地裏の暗がりは大きく深く、しかし、この都市の親切な住民たちは外からのものに忠告する。暗がりには竜が潜んでいますよ、と。
その言葉を聞いて多くの人間は去り、聞かずに深い入りしたものも消えてしまう。
レナーデが竜に勝利して以来、ダガーピークはいつだって穏やかだ。穏やかでないものたちが潜むゆえに。
■
ニューマン氏は悩みを抱えていた。
これまでの彼の人生は平凡であったが、大きなトラブルもない、幸福なものだった。
家業である小さな書店は、大繁盛というわけではないが、一家が暮らすには十分な収入をもたらしている。
美しき妻も健康だし、今年で十八歳になる一人娘も、普通は気難しい盛りであろうが、明るく、両親をよく愛してくれている。
娘、ジャネットには魔術の才能があり、将来は研究者、あるいは魔術学院の教師か、冒険者になってみるのもいいかもしれないと言う。ニューマン氏はそのいずれにしても、娘の選択を尊重したいと思っていた。
多くの人々が冒険者に胡散臭い厄介者というイメージを抱く王国で、ダガーピークでは未だに大昔の「英雄」たる冒険者像が残っていた。
この街には長命なエルフが多く、かつてのデレク王の戦いを連綿と語り継いできたからだ。
また、レナーデ直属の冒険者集団、〈暗雲〉の活躍も大きいだろう。今日でも彼らの後継者が冒険者に、誇り高い振る舞いを要求している――もちろんそれは荒事や汚れ仕事に手を染めないという意味ではないのだが――娘が英雄にならずとも、誇り高くあれば、それでかまわないとニューマン氏は考えていた。
しかし三日ほど前から娘の様子が変だ。
ジャネットは別人のように部屋にこもって、昼間でも眠り、ジャンクフードを貪り、顔を合わせようとすらしない。
妻が「病気ではないか」と疑う中、ニューマン氏は娘と話をしてみようと思った。
彼女が何を考えているのかはわからないが、まずは顔を突き合わせて、話してみなければ始まらないのだ。
何度かドア越しに呼びかけたのち、娘はついに対話する決意を抱いたようだ。
居間に現れた娘の顔を見て、ニューマン夫妻は驚いた。
明るく快活だったジャネットは、どんよりと死人のような目をしていたからだった。
たった三日外に出なかっただけでこうはなるまい。病か呪いを疑う中、娘が口を開いた。
それは到底信じられないものだった。三日前、ジャネット・ニューマンは前世の記憶を取り戻したというのだ。
モーンブルワークだか王都だかで、二人ほど異界人の冒険者が確認されたという噂を最近聞いたが、彼女は三人目らしい。
ジャネットとしての記憶と自我を失ったわけではない。しかし、現在の彼女には、前世の人格が大きく影響を及ぼしていた。
ジャネットの前世は怠惰極まりないものだった。学業を途中で放棄して自室に引きこもり、何十年も労働をせず、家族に寄生して生きていたのだ。
結果、怠惰がゆえに病となり、そのまま四十手前で亡くなったらしい。
そして、現在ジャネットとなったこの人物は、同じことをしようとしているのだ。
これは呪いと何ら変わりないものだった。
「父上、母上は心より尊敬しております。しかし、私は働きたくないのです。己の時間とエネルギーを無為に使うなど愚の骨頂であるからです」
ジャネットの口調でそれは言った。思わずニューマン氏は娘から出て行け、といった趣旨のことを口走ってしまった。
しかし娘は首を振ると、死んだ魚のような――しかし強い目で父親を見据えて返答する。
すでに前世の自分とジャネットである自分は一体となっている。これが新しい自分だ。諦めて私を養っていただきたい――強い口調で迷いなく断言する娘を見て、ニューマン氏は絶望的な気持ちになった。隣を見れば、妻は半ば放心状態で「どうして……」と呟いている。
娘を悪い男か、邪教徒にでもたぶらかされた気分だった。しかし、それらよりたちは悪い。ジャネットの魂はすでに前世のそれと一体となっている。もはや以前のジャネットは取り戻せそうになかった。
ニューマン氏は悩み、結局彼女を追い出すことにした。
僅かな資金を与え、あとは自分で稼げという苦渋の決断だ。
ジャネットはとても辛そうだった。しかしそれはもちろん、両親との別れではなく、労働が嫌なのだった。
「このような仕打ち、恨みますよ、父上」
などとほざくジャネットに、ニューマン氏は初めて手を上げた。こぶを押さえて恨めしそうな視線を送る彼女に、一言だけ父は言った。
強く生きよと。