第三話 需要と供給、為替そして銀行
朝——と言っていいのか分からない。
チバの夜は明るすぎて、眠りの境目が曖昧だった。
部屋は昨日とは別物だ。床が見える。机が使える。空気が動く。
整理は世界を変える。少なくとも、この狭い一室の世界は。
優は布団の端に座り、スマホをぼんやり眺めていた。寝癖のまま、目だけが動く。
私は壁際で膝を抱え、袋の中のカイロの予備を確かめていた。温かい。小さいけれど確かな熱。
昨夜はこの熱に救われた。そして今日も、救われる。
「……なぁ」
優が突然こちらを見る。
「そういや、アリスさ。経済、勉強したいみたいなこと言ってたよな?」
私は背筋を伸ばす。
「はい。この世界の経済が“信用”で回っているなら、その仕組みを理解してもし戻った時に活用したいので」
「信用って言い方、相変わらず重い……」
優は頭をかきながら立ち上がり、本棚を探り始めた。
昨日、私が“危険物”を棚の奥へ封印した場所とは別の、まじめそうな棚だ。
「えーっと……これだ」
彼は何冊か抜き出し、机にどさっと置いた。
硬い表紙。細かい文字。図が多いもの。
そして一番上には「公民」という文字。
「大学の教材もあるけど、いきなりだと眠るから。まず高校の公民」
「寝ません」
「絶対寝るだろ」
「寝ません」
優はページをぱらぱらめくり、二本の曲線が交差している図で止めた。
「これ、需要と供給」
「……二本の線が交差しています」
「そう。簡単に言うと、“買いたい人”と“売りたい人”のバランスで値段が決まるって話」
優はペンを取り、裏紙に丸を書いた。
「例えば、リンゴがあるとする」
「りんご......」
「果物だよ。赤いやつ」
「知っています。ムルバードにもあります」
「じゃあ話早い。リンゴがたくさんあると安くなる」
「なぜですか?」
「売りたいのに買う人が少なくて売れ残るから。安くしてでも売る。逆にリンゴが少ないと高くなる」
私は頷いた。
それは分かる。私の世界の市場でも同じだ。飢饉の年は麦が跳ね上がる。豊作の年は値が崩れる。
「つまり、希少なら上がり、豊富なら下がると言うことですか」
「そう。で、需要が“欲しい側”、供給が“出せる側”。この交わったところが“ちょうど売れる値段”」
優は交差点を指でトントン叩いた。
「ここが均衡。均衡価格」
「均衡......」
言葉を口の中で転がす。
音が硬い。覚えやすい。武器になる。
私は図を見つめた。
交渉がない市場でも、交渉は消えていない。交渉が“構造”に押し込まれているだけだ。
「では、交渉はどこにあるのです?」
優が少しだけ目を丸くした。
「……え?」
「この前の“こんびに”は値札が固定でしたよね?
でも値段が変わる仕組みがあるんですよね?
誰が変えるのです?」
優は少し考えて、教科書を指で滑らせた。
「店とか企業が決める。でも売れなきゃ下げるし、売れすぎたら上げる。結局、買う側が動かしてる」
「企業......?ギルドってことですか?」
「ギルドとは違うけど似たようなもんだと思えばいい」
「なるほど......で、買う側の“選択”が価格を決めると言うことですか?」
「うん。経済って、人の行動なんだよ」
人の行動。
癖がある。偏りがある。予測できる。
(なら、勝てる余地がある)
優は次のページを開く。
「で、これが市場経済の仕組みってわけ。
ざっくり言うと、自由に売り買いして、価格で調整する」
「市場に任せる、と」
「そう。逆に国が全部決めるのが計画経済。まあ現実は混ざってるけど」
「国は、なぜ介入するのですか」
優は頬をかき、少しだけ言いにくそうに言った。
「暴走するから。独占とか、格差とか、詐欺とか。あと、みんなが使うもの——道路とか治安とかは、放っておくと足りなくなる」
「国は信用の保証人でもあるのですね」
「……そういう言い方すると急に怖いけど、そう」
優は教科書を閉じ、大学の教材の方に手を伸ばした。
表紙が硬い。文字が小さい。急に武器の匂いが濃くなる。
「次、為替」
「……為替?」
「通貨の交換レート。円とかドルとかの比率」
「両替商の比率ですか?」
優が頷く。
「そうそう。それが国同士で毎日動く」
「毎日……動く?」
「うん。例えば、1ドルが150円とか。数字が変わる」
私は眉をひそめる。
両替は基本は固定だ。王国が価値を定め、両替商はそれに従う。
日々変わる両替は——不安定だ。危険だ。けれど。
(利益を出すことができる)
優はスマホを取り出し、電卓を開いた。
「円が安くなると、外国のものを買うのが高くなる」
「なぜです?」
「外国の通貨に替えるのに、より多くの円が必要になるから」
私はゆっくり頷く。
「逆に円が安いと、外国の人は日本のものを安く買える。だから輸出は有利、輸入は不利って言われる」
優はそこまで言って、私を見た。
「……分かる?」
「理屈は分かります。しかし」
私は言葉を探す。
「なぜ、その比率が変わるのです? 両替商が毎日、勝手に変えるのですか」
優が笑った。
「勝手にっていうか……これも需要と供給。円が欲しい人が増えたら円が上がる。ドルが欲しい人が増えたらドルが上がる」
「通貨にも需要と供給がある」
「ある。外国のもの買いたい人が増えると外貨が欲しくなる。で、外貨高になる」
私は背筋がぞくりとした。
物だけでなく、“金そのもの”も市場で売買される。
価値の上に価値が積み上がる世界。
(この世界は、貨幣の上に貨幣を積む)
思わず呟く。
「……面白い」
「だろ。……いや、お前の“面白い”は信用ならねえんだけど」
優は苦笑して、教科書を閉じた。
そして少しだけ言いづらそうに、次の話題を探すみたいに言った。
「……で。次は“金の置き場”の話」
「置き場?」
「銀行とか。口座とか」
「……ぎん、こう?」
私は聞き返した。知らない響きだ。
両替商はいる。金庫屋もいる。だが“銀行”は違う匂いがする。
優は一瞬黙って、それから急に話題を変えた。
「お前の地元、どこだっけ?」
「ムルバードという場所です」
「じゃあ、そっからめっちゃ遠い場所知ってる?」
遠い場所。
私は即座に距離と時間で答える。
「ホルスクなら馬で二週間くらいです」
「二週間ね。じゃあさ」
優は両手を広げて、床の左右を指差した。
「ムルバードに銀行がある。ホルスクにも同じ銀行がある、とする」
「同じ……銀行?」
「うん。で、お前がムルバードで金を預けたとするだろ」
「預ける。つまり金庫に入れるのですね」
「そうそう。で、その金庫に入れたって“証拠”を、お前は一冊の帳簿として持つ」
「帳簿……?」
優は頷いて、金庫から帳簿を持ってきた。
「これ。自分専用の帳簿。ここに“いくら預けてるか”が書いてある」
「……誰が書くのです?」
「銀行の人」
「勘定係が、記録する……」
それなら分かる。商会だって帳簿で世界を動かす。
だが、優の言い方はそこで終わらない。
「で、その帳簿を持ってホルスクに行く」
「二週間かけて」
「うん。で、ホルスクの銀行にその帳簿を見せると——」
優は指を鳴らした。
「ムルバードに預けた金を、ホルスクで引き出せる」
私は固まった。
「……金が、移動していないのに?」
「そう。現物は動いてない。でも“帳簿の記録”が動いてる」
背筋がぞくりとした。
金を運ぶ必要がない。護衛もいらない。盗賊も怖くない。
距離のコストが、帳簿一冊に圧縮される。
「……そんなことが、可能なのですか」
「可能。で、その帳簿のことを“通帳”って言う」
「つう……ちょう」
私は言葉を繰り返した。
帳簿が“金”になる世界の正式名称。
優は続ける。
「通帳に書いてあるのは、お前の“口座”ってやつの情報。つまり、お前専用の金の置き場」
「置き場が……帳簿の中にある」
「まあ、そういう感覚でもいい。で、好きなだけ“出し入れ”できる」
「好きなだけ?」
「正確には、預けた分だけな。増えるわけじゃない」
私は息を吐いた。
増えないなら詐欺ではない。
だが、怖い。便利すぎる。
「……通帳を奪われたら?」
優が一瞬黙ってから、苦笑した。
「それが怖いから、暗証番号とか、本人確認とかがある。身分証とか」
身分証。
また知らない単語が増える。
私は頷いた。
「理解しました。銀行とは、金庫屋だけではなく——帳簿を信用として運用する組織」
優が目を丸くした。
「……そのまとめ方、怖いんだよ」
「事実でしょう?」
「まあ……否定できない」
私は通帳という言葉をもう一度、口の中で転がした。
紙は軽い。だが、この紙は距離を殺す。
(持ち帰れたら、商売が変わる。王国が変わる)
怖い。
でも——面白い。
優がメモに短く書き始める。
・需要と供給:欲しい人と出せる量で価格が決まる
・市場経済:価格と競争で調整する
・為替:通貨の両替比率、通貨にも需給がある
・銀行:金を預け、通帳で遠隔の出し入れができる
「とりあえず今日はここまで。次は……口座の作り方とか、身分証とか」
「身分証」
私はその単語を反芻した。
身分が証明できなければ、帳簿の金に触れない。
この世界の信用は、誰にでも開かれているわけではない。
優は私の耳をちらりと見て、すぐ視線を逸らした。
「……外出るなら帽子とかもいるだろ。あと、その……目立つし」
「条件は提示してください。必要なものは、すべて揃えます」
「揃えますって……金ないのに?」
「交渉します。対価はあります」
優はため息混じりに笑った。
「……お前といると、なんか“ちゃんとしなきゃ”って気になる」
「それは良い傾向です」
「上からだな」
「私は国内最大級のギルドの令嬢ですので」
そう言うと、優は呆れた顔のまま、でも少しだけ口元を緩めた。
私は教科書の表紙を撫でる。
紙は軽い。だが、この紙は世界を動かす。
(次は、この世界の“身分”を得る。得なければ、学んだ武器が使えない)
窓の外は相変わらず明るい。
この世界は眠らない。契約も、流通も、数字も。
——もっとこの世界のことが知りたい!




