第二話 見なかったことにします
玄関の扉が開いた瞬間、空気が変わった。
外の冷たさとは違う、こもった熱と、少しだけ湿った匂い。人が暮らしている匂いだ。
「……どうぞ、入って」
優が小さく言って、私を先に通した。
——狭い。
想像していたより、ずっと狭い。
ワンルーム、と言うのはこう言うことだったのか。
台所と居間が同じ空間に押し込められていて、床には服と紙袋と空の透明な筒が散らばっている。
机の上には細い紙片が束になって積まれ、端がくしゃくしゃに丸まっていた。
(ここは倉庫……じゃない。生活の場所。なのよね?)
私は袋を台所の端に置き、まず靴を揃える。
入口が整うと、心も少し整う。
「優さん」
「ん?」
「確認します。掃除の範囲は、この部屋全体でよろしいですか」
優は一瞬だけ目を泳がせ、すぐに肩をすくめた。
「……うん。好きにして。てか、恥ずいから、あんま見んな」
「見ません。私は作業します」
作業には観察が必要だ。けれど“恥”を守ると、相手は動きやすくなる。
私は視線の高さを落とし、床から手をつけた。
まず動線。次に分類。最後に廃棄。
商会の倉庫整理と同じだ。
服を拾い、洗うものと捨てるものに分ける。
空の容器をまとめ、袋へ。
床が見え始めるだけで、部屋の息苦しさが少し消えた。
背後で、優がぼそっと言った。
「……ほんとにやるのな」
「契約ですから」
「契約って便利だな」
「便利です」
優が小さく笑った。
笑いは軽い。けれど、どこか乾いている。
私は机の上の紙束へ手を伸ばしかけて、止めた。
細い紙片、数字、印字。情報の匂いがする。
(触りたい。でも今は“掃除”。“調査”は契約の範囲外)
私はそれらをまとめ、机の端へ寄せるだけにした。
台所へ目を向ける。
シンクには洗い物がほとんどない。食器も少ない。鍋もない。
「優さん、食器が少ないですね」
「……自炊しねーし」
即答。
刺さる話題だと分かっているから、先に短く切る。
私は追わない。代わりに、状況だけ確認する。
「では食事は、外で?」
「コンビニとか」
「外食は高くつきますよ」
「うっせ」
反射で返ってくる声。
反射は本音に近い。
(削るべき支出がある。でもそれは分かっていて、やめられないのね)
そこへ踏み込むのは、まだ早い。
私は淡々と台所を拭き、床を拭いた。表面が綺麗になるだけで、部屋の空気が少し変わる。
次は本棚。
倒れかけていた背表紙を押さえ、順番を整える。
その時だった。
ぱさ、と紙の軽い音。
薄い本が一冊、床に滑り落ちた。
反射で拾い上げる。
——表紙。
長い耳。銀髪の髪。
見覚えのある輪郭。
そして、肌が……やけに多い。
「……え?」
声が、出た。自分でも驚くくらい小さく。
(……エルフ? エルフが……?)
視界が一瞬だけ、固まる。
心臓が変な跳ね方をした。
その拍子に、ページの端が指に引っかかり、ほんの少しだけ開きかける。
私は慌てて閉じた。閉じたのに、もう遅い。視界に焼き付いた。
(い、いまのは……その……えっと……エッチな……? いや違う、違う、違う……!)
頬が熱い。耳まで熱い。
私は髪で耳を隠す動作をして——余計に恥ずかしくなった。
背後から、咳払い。
「……それ、別に……」
優の声が、明らかに裏返っていた。
私は本を抱きしめてしまい、次の瞬間、己の失敗に気づく。
抱きしめたら、“見た”って認めたことになる。
(終わった)
私はゆっくり本を胸から離し、視線を床に落としたまま、震えないように言った。
「……これは、生物に関する……学術書ですか?」
「ちげーよ!」
即答。速い。声が大きい。
つまり、地雷。
「で、では……その……あなたが、その……必要だと判断した、資料……?」
「資料でもねぇ!」
優が頭を抱えそうになって、でも抱えられず、手が宙を泳いだ。
私は息を吸い、できるだけ平静を装う。
装うために、契約に逃げる。
「……なるほど」
「とりあえず抱いてんのやめろ!」
私は言い返しかけて——また表紙の“長い耳”が目に入ってしまう。
喉が詰まる。
「……わ、私の種族って……その……人気なんですか?」
優が固まった。
「……え、そっち!?」
「そっちです!」
自分の声が大きくて、さらに恥ずかしくなった。
私は咳払いして、声量を戻す。
「……見なかったことにします」
「うん、頼む」
「ただし」
「ただし!?」
私は顔を真っ赤にしたまま、視線は合わせずに言った。
「棚の奥へ移動させます。……表紙が見える位置は、危険です」
「危険って何だよ!」
「危険です」
私は本を閉じたまま、背面だけ見えるようにして棚の一番奥へそっと差し込んだ。
落ちない位置。絶対に落ちない位置。
(完璧!)
振り向くと、優は耳まで赤かった。
「……お前、うぶなのに、変に的確だな」
「うぶではありません」
「うぶだろ」
「……では、掃除を続けます」
私は逃げるように床のゴミを拾い始めた。
頬の熱は、まったく引かなかった。
しばらくして、部屋の床が見えるようになった。
歩ける。動ける。危険物が減る。
“安全”が形になっていく。
優はベッドに腰を落とし、スマホ?とやらををいじっていた。
が、指先が止まったり動いたりする。落ち着きがない。
(手が空くと、悪い習慣に引っ張られるタイプかしら)
私は袋からカイロの予備を取り出し、机の端に置いた。
「優さん」
「ん?」
「これ、予備です。あなたも使ってください。寒いと集中力が落ちます」
「……別に寒くねーし」
「寒くないなら、なおさら使えます」
「てかそもそも、これ俺の金だけどな」
優は苦笑しながらも受け取った。
受け取らせるのが大事だ。貸し借りが成立する。貸し借りは、交渉材料になる。
私は最後に、ゴミ袋の口を縛る。
机の上も整った。台所も拭いた。床も拭いた。
——最低限の“安全”は確保できた。
私は優を振り返った。
「作業は終わりました。次は、休む場所を確認します」
優は目を丸くする。
「え、休む場所って……俺、布団ひとつだけど」
「問題ありません。交渉します」
「また交渉かよ」
「安全はタダじゃないので」
私が言うと、優は諦めたように笑った。
「……はいはい。で、どうする」
私は落ち着いて答える。
「今夜は、あなたが布団を使ってください」
「でもアリスはどうするんだ?」
「あなたが倒れれば、私が困ります。あなたが機能していることが、私の安全です」
優はしばらく固まって、それから目を逸らした。
「……お前、ほんと変だな」
「変でも構いません」
その言葉に、優の指先が少しだけ止まった。
——この部屋には、彼の弱さが散らばっている。
けれど同時に、彼の“助けたい”も確かにあった。
私はカイロの温かさを確かめながら思う。
まずは整える。
部屋も。条件も。
そして次は——彼の“事情”を、言葉にする。
棚の奥。
見なかったことにした薄い本の背表紙だけが、妙に存在感を放っていた。
そろそろいい加減勉強したいわね。




