第五章・証言
目線:一ノ瀬俊次(五ヶ月前)
信じられなかった。美雪が自殺するなんて。俺の思い込みかもしれない。でも、あの美雪が…あんなに一緒にいた美雪が、俺に黙って自分で死ぬわけがない。誰かに殺されたんだ。自殺に見せかけて、美雪を殺した奴がいる。探すんだ、そいつを。俺の手で必ず。
美雪が死んで一週間が経つ。聞き込んで回った人間はすでに五十人を越えていた。今日は彼女のマンションを訪れている。これで三度目だ。俺はセキュリティの暗証番号を入力し、正門を開ける。こうしていると、普通に美雪の家に遊びに来た感覚に陥り、気分が沈む。
彼女はもういないんだ。
そう言い聞かせて、あの日のことを思い出しながら足を進めた。上着の右ポケットに入ったままのプレゼント…渡せなかったな。
エレベータが1階で止まる。それに乗り、俺は美雪の部屋を目指した。位置表示が“4”になったとき、エレベータが止まった。入ってきたのは、あの日と同じ祐樹だった。胸に靄のようなものがかかる。それを察したのか、祐樹は一言「…ごめん」と言った。俺は何も言わず、ただ俯いた。
「………」
小さな空間に静けさがこだまする。何か言わなくちゃいけない。先に口を開いたのは俺だった。
「…これからまた屋上か?」重苦しい空気が少しだけ軽くなる。
「…ああ。今日はたそがれに行くわけじゃなくて、美雪のことを考えに…」言いかけて、祐樹が口を噤む。しまった、というような表情だった。「…ごめん」彼は再び謝って、視線を下に落とした。
「…気にしなくていいさ。お前が気に病むことじゃない」
「…ごめん…」
「…屋上か。美雪とよく行ったな」
俺は上に視線をやり、彼女が死ぬ前のことを思い出していた。ここの屋上はちょっとした庭園のようになっていて、色とりどりの花が植えてある。住人やその関係者しか入れないため、デートするときや、物思いに耽りたいときには最適の場所だった。俺と美雪も、屋上でよく一緒に語り合ったものだ。
小さく機械音が鳴り、扉が開く。位置表示は“8”を示していた。美雪の部屋がある階だ。しかし俺は“閉”のボタンを押し、その階をやり過ごすことにした。エレベータは、屋上に向かってゆっくりと上り始める。
「…降りなくてよかったのか?」と祐樹。
「…屋上行くんだろ?俺も一緒に行くよ。ちょっと語りたいんだ」
エレベータの扉がまた開く。その瞬間に、少し冷たい風が流れてきた。俺と祐樹はエレベータから一歩踏み出して、屋上のコンクリートを踏む。少し風が強い。春になると花を咲かせる植木は、茶色の枝を裸で剥き出していた。季節は秋だ。
「…思い出すよ、美雪と一緒にここに来たときのこと」
胸のあたりまである屋上の柵に腕を乗せ、俺は独り言のように言った。祐樹も同じように上半身の体重を柵にかける。
「…そっか」祐樹が言った。俺は視線を植木の方に移し、ある一本の小さな木を見つめた。思い出の木だ。
「…あそこに一本だけ、他とは形の違う木があるだろ?」
「…たしかに。なんか面白い枝の伸び方だな」
「…あれ、春になると白い花が咲くんだ。たまたまだろうけど、枝の形があんなんだから、花びらがきれいに横向きに咲いて、上から見ると雪の結晶みたいになるんだよ」
美雪が教えてくれた。無邪気な顔で笑いながら、俺が言ったことと同じことを言った。
「すっごいきれいなんだよ!春になったら一緒に見ようね!」その木を覗きながら、美雪が言う。
「ふうん…雪の結晶みたいな花なんて、あんまきれいじゃないと思うけど」なんだか照れくさくて、俺はあしらうようにそう返した。
「なんで?いいじゃん、雪。あたしの名前も“美雪”だよ?だから勝手に、あの木に名前つけたの。“美雪の木”って」
「ださ、なにそれ」俺はからかうように笑う。
「ちょっと、笑わないでよ…っ」美雪は照れた顔で拗ねて言った。しばらくして、自分でもおかしくなったのか、いきなり笑い始めた。俺もつられて笑う。
そうやって、ふたりで笑い合ってたんだ。もう叶わない。一緒に見れなかった、思い出の花の木。
「……春になったら、見に来いよ。美雪も、天国から見てると思う」
空を見上げて祐樹が言った。彼なりに気を遣ってくれたらしいのだが、ロマンティックすぎて思わず笑ってしまった。
「…わかった、そうするよ」
俺は吐息をついて、表情を変えた。あの日の話を聞こう。事件の情報を得るために。美雪の死の真相を暴いて、春になってあの花が咲いたとき、少しでも晴れた心で見るために。
「…覚えてないか?なんでもいいんだ。事件があった日、もしくはその前からでも、美雪の周りに何か変化があったりとか、マンションに怪しい人間がいなかったかとか」
「…ごめん、刑事やってる俺の姉ちゃんにも同じこと訊かれたけど、特に何もないんだ…」
「……そうか…」
俺は視線をマンションの下に向けた。屋上から見ると、地面がかなり低いところに見える。ここから落ちたら死ぬだろう。このまま死んでも構わない…不思議とそう思えるような高さだった。
「…むしろお前のほうこそ、何か変なことはなかったのか?あの日は美雪の誕生日で、昼過ぎまであの部屋にいたんだろ?たとえば、プレゼントを買いに行くときに誰かとすれ違わなかったか、とかさ」祐樹が言った。
「すれ違ったら覚えてるよ」
「…だよな…まあそうだとしたら、康介のほうが詳しいだろうし」
祐樹がふいに“康介”という名前を出した。俺は何かが引っかかり、祐樹のほうに視線をやった。
「康介…?なんで康介が出てくるんだ…?」
「なんで?って、あの日お前と美雪と康介の三人で祝ってたんだろ?」
何を言ってるんだ?祐樹は。三人で祝ってなんかない。あの日は俺と美雪のふたりだけだった。それどころか、康介の姿すら見ていない。
「…え?違うのか?いや、だとしたらなんで…?どういうことだ…?」祐樹は何かを考えるようにそう続けた。
「それはこっちが訊きたいよ。お前さっきから何言ってるんだ?あの日は俺としか会わなかっただろ…?」
祐樹が不思議そうな顔をする。曇ったような表情だ。祐樹が言おうとしていることがわからない。
そうだ。あの日は確かに、俺と美雪しかいなかった。ふたりでケーキを用意して、部屋を暗くして、ろうそくを消し、同時にクラッカーを鳴らした。ちょうどそのときに亜紀から電話がかかってきて、部屋を抜けて誕生日プレゼントを買いに出かけた。康介なんかいなかったはずだ。
しかし、次に祐樹の口から発せられたのは、信じられないような言葉だった。
「…いや、あの日エレベータでお前と一緒になっただろ?その前にもうひとつのエレベータを待ってたら、俺がいた4階を通り過ぎて下に行ったんだ。そのエレベータに乗ってたんだよ、康介が」




