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第五話 決意

 ──鏡の中の俺をまっすぐに見つめる。


 たぶん似合ってない。俺の普段の目つきも相まって怖い。

 でも、そこに立ってるのが俺であることは間違いない。もう後戻りはできないし、戻る気もない。それに、慣れればこれも悪くない。そう思えた。

 まだ暑いしちょうどいい、なんて。


 もちろん、これで全部償えるわけじゃない


「はいっ、終わりっ。……お兄ちゃん、ほんとにやるとは思わなかったよ」


 後ろから琴音の声。あきれ顔の声色なのに、口元は笑ってる。バリカンの音が止まると、変な静けさが残った。床には、俺の髪が山になっていた。

 風呂場の前で父のバリカンを見つけた時、これしかないって思った。バッグの中には使っていない彼女の白いハンドタオル。使うわけにはいかなかった。彼女の優しさ、差し伸べてくれた彼女の気持ち、全てを汚してしまうような気がして。


 ──謝っている相手が俺自身なんだから、届くはずもなかったんだ。


 * * *


 家に帰る途中、何度も同じ景色を見た気がした。

 暑さも忘れ、歩き、さまよった。誰もいない公園、影を落とす電柱、前を見て歩かない学生。笑いあうカップル、俺の顔を見て笑う奴ら。引き戸の音、男の声、殴られた感触、一瞬の光。そして、あの香り。

 目に見えるものが背景色と同化し、同じ色に見えたが、彼女がくれたハンカチの白さだけが鮮やかだった。


 帰ってから、何も言わず風呂場に入って鏡を見る。鼻の下にはまだ血の跡が残っていて、うっすらと赤黒かった。唇の端は切れていた。痛みはあるけど、自分のカッコ悪さの方が何倍も辛かった。


 絆創膏やティッシュ、何かないかと、洗面台の棚を次々に開けていく。最後の引き出しを開けると、父が使用していた古いバリカンを見つけた。電源を入れるとちゃんと動く。

 ぶぅん、という振動に心臓が分かりやすく脈打つ。何かを断ち切る恐怖は感触だけで伝わってくる。

 すぐに電源を切る。やることは決まった。


「なあ、琴音」

「おかえり……って、ええ! どどど、どうしたのその顔! 喧嘩したのっ?」


 リビングに入ると、琴音が夕食の準備をしていた。声を掛けるとすぐに大声をあげ、おたまを落として俺に駆け寄ってくる。


「だれと!? 大丈夫!?  えっと、えっと……消毒しなきゃ、うう、冷やしたらいいのかな?  そこ座って!」


 たった1メートルくらいの範囲を何度も往復する琴音。


「坊主にしてくれない?」

「え? ちょっ……何いってるの!? それどころじゃないよ! 頭打った? お兄ちゃん落ち着いて!?」


 ……頭打った。ほんとだよな。


「うん、俺は落ち着いてるよ。だから今のうちにやるんだ。頼むよ」

「何をやるのっ!? そんな顔で冷静なの変だよっ」


 とりあえず琴音を落ち着かせるだけで、数分はかかった。最後は、「剃ってくれたらちゃんと話すよ、その後ちゃんと治療するから」と約束して、半ば強制的に琴音を洗面所に連れてきた。


 パッと蛍光灯がついて鏡に俺と琴音が写る。真っ白い光はスポットライトのようで、俺を試しているかのようだ。

 引き出しを開けて、バリカンを手渡す。意外と重かったのか、受け取った琴音の両腕は少し沈む。


「……う、ちゃんと教えてよ? あと、どうなっても知らないからね……! 琴音、こういうの初めてなんだから!」

「うん。思いきって頼む」

「もう。琴音だけ慌ててバカみたい……」


 そっと目をつむる。肩を包むようにバスタオルが掛けられる。「ほんとに?」と琴音が聞くが、俺は黙ってうなずいた。


 ぶぅぅぅん……


 声を黙らせるような不気味な音。

 ぞくりと首筋に冷たいものが当たり、体がこわばる。


「ちょちょ、動かないでよっ」


 と焦る琴音の声。


「おい、一気にやってくれよ」

「だ、だって、どこからいけばいいかわかんないんだもん! あっ」


 バサッと大量の髪が床に落ちる音がした。おそらく、後頭部からつむじにかけて、結構いった。


「……」


 床に散らばった自分の髪を見る。こんなにあっさりと、ただそれだけのことで、簡単に過去は置いていける。感傷に浸る気分になるが、その考えを一蹴する。

 そう、一歩。踏み出す勇気さえあればきっと、これからだって……。


「ほ、ほら。目、閉じてて? 目に入っちゃうよ」


 後に引けなくなった琴音は、恐る恐るだがバリカンを走らせていく。


「あれ、ちょ、ちょっとここ斜めってない!? やば、左右ズレてるかも……ここだけ変な段になってる!」

「いいよ、適当で」


 何も深く考えない日々、悪くないし好きだ。深く考えるのは怖い。答えのないものを探すより、今の楽しいことだけ考えていたかった。そんな自分が、ずっと嫌いだった。


「よくないよ、ほら、見て?」


 琴音がぐいぐいとタオルを押し当てながら言った。強い光に一瞬目がくらむが、凸凹した俺の頭は不細工だったけど、どこか懐かしかった。


「くっ、あはははっ! なんだこれ!」


 俺が笑うと、琴音は片手で口を隠す。目元は笑っている。


「もう! 笑わないでよ! これでも頑張ったんだよ!」


 鏡の中で琴音と視線が合うと、ついに琴音も噴き出して笑い出した。こんだけなのに、涙が出るくらいおかしくて、笑いあった。肩とか背中とか叩き合って、ただ笑いあった。


「ありがとう、琴音」

「……うん」


 鏡を見た。ちょっと不揃いだけど、俺の新しい姿。2ミリほど残して刈られた短い髪。まだ見慣れない顔。変な気分だった。でも、気持ちがなんだか軽くなり、それでいて、心の奥にずしりとしたものが重く固まってきているのを感じる。

 明日、彼女にハンドタオルを返す。そしてちゃんと会話したい。


「……それで、何があったの?」


 床の掃除もやり終えた琴音は、再び鏡で俺と視線を合わせる。


「うん、話す」


 約束通り、俺は琴音に昨日の罰ゲームのことから、今日のことを全て話した。カバンに入っているハンドタオルのことを除いて。


「最悪だよ……」

「……うん」

「お兄ちゃんが全面的に悪いよ? 女の子をそんな風にからかうなんて、絶対ダメ。お兄ちゃんがそういう悪ノリするの知ってるけど、境界線ってあるのっ!」


 語りかける口調は厳しさも含まれていたが、どこか諭すようで、真剣な眼差しを送り俺を見つめている。


「恋仲さんのお兄さんに殴られちゃうのも仕方ないよ」


 琴音がもしそういう状況だったら、俺もきっとそうしてるし、殴られて当然のことをした。だから兄に対しては怒りも何も感じていない。

 ただ、せっかくの機会を自ら潰してしまった行為だけが心に残っている。

 不意に静かになる。料理してたっぽいけど大丈夫かなんて、今更な心配事が頭をよぎる。


「お兄ちゃんは優しいね」

「は? なんでそうなる」

「だって、それじゃだめだって、なんとかしたいって、ここまでしてもう一度謝ろうとしてるんでしょ。優しいよ? 味方してるわけじゃ……ないけど」


 自分の発言に居心地が悪くなったのか、声が少し小さくなる。

 ……それは違う、俺はまだ一度も謝ってないんだよ。

 琴音の顔は微笑んでいたけど、ほんの少しだけ、何かが曇っている気がした。


「その人、幸せだね。……ほら、お兄ちゃん。顔冷やしたりするよ! あと、ごはん! 今日もお父さん遅いっていうから、デリバリーでもよかったけどカレー作ったの!」


 手を引っ張られて、リビングに戻される。カレーの味は想像できた。あの焦げた感じ苦手なんだよな。幸せって言葉が妙に耳に残ったけど、琴音に身を委ねる。


 切り替えろ。俺は、今ここで変わったんだ。これまでの俺は捨てて、目をそらさずに進むんだ。


 大きく息を吸い込むと鼻の奥が震えた。

 もう迷わない。もう目をそらさない。進むしかない。

 不安も、怖さもある。けど、それを超えていく覚悟だけは、ここにある。


「やるしかないだろ……」



最後までありがとうございました!

少しずつ、善吉の感情が動き出す回でした。

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― 新着の感想 ―
読んだよ 善吉の気持ちがすごく伝わってきました。目に見える形で贖罪をして、自分の心の中に蔓延るどす黒い罪悪感をひとまずどけるというその場しのぎだけどとても意味のある行為。 僕だってそんなことしてしまっ…
主人公・善吉がひな緒に対して抱える罪悪感や、心の揺れ動きがとても繊細に描かれていて、胸に迫るものがありました。 ひな緒との関係がこの先どのように変化していくのか、今後の展開がとても楽しみです。
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