最終話 さざ波に転がる小石のように
とても長い夢だった。
長すぎて自分が夢の中にいることに途中で気づいた。
――琴音。世話好きで、心配性で、寂しがり屋な俺の大事な妹。
琴音の笑顔は、どんな嫌な気分も吹き飛ばしてくれた。小さい頃も。今だって。
泣き顔なんて見たくなかった。琴音を守りたかった。こうなってしまう前に、ちゃんと琴音と話したかった。あの屋上で、琴音に伝えたつもりだけど、ちゃんと届いたかな。どうか、無事でいてほしい。
琴音を守るためだったとか、事故で済んだからとか、そんなくだらない言い訳はしない。俺の罪は消えないんだ。いくらごまかしたり、記憶の奥に閉じ込めたとしても、消えることは決してない。
心の声と斎の声が、何度も繰り返している。お前は裁かれるべきだと。
――生きていていいのかな、俺は。
事故で処理されたことで助かったと思っていた。その行為は、一人と母さん、一人娘の人生を引き裂いた。
――赦されることはない。
そう思って、夢の中にずっと漂って、このまま深く沈んでもいいと思っていた。
「……」
目を開けようとしても、まぶたが重くて持ち上がらない。落ちてしまいそうな感覚に抵抗していると、誰かが叫ぶ声が遠くに聞こえた。なにやらバタバタと、誰かが慌てている音が聞こえた。その騒がしさが子守歌になって、また眠くなってくる。
あの時以降――
気が緩まるとすぐに俺の世界は、点字ブロックの床と壁でで埋め尽くされるようになった。そこは、男が立っていた場所で母が並んでいた場所。そして、俺と琴音が身を寄せ合っていた場所。
それが途切れることなく一面に広がっている。目の奥に力をいれて、瞬きをせず息を止めていると現実に戻ってこれたので、いつもそうしていた。辛い、苦しい、なんて言えるはずがなかった。そもそも……言う相手がいなかった。
バタバタ、ガシャン。
「――っ!」
「善吉!!」
父さんの声が聞こえる。すごく懐かしい感じの声。
もっと早く、そんな声で俺と琴音を呼んでほしかったな……。
「あーあ、また寝ちゃったじゃん。せっかくうちがお見舞いにきたってのに」
起きてるよ。起きてるけど、目が、重くて開けられないんだ。そういえばお前、なんであそこに居たんだよ。こんな時まで茶化しにくるのかよ。
やっぱりこいつは意味がわからない。でもまあ、声を聞く限り生きてたみたいだな。うん、生きてて良かったよ。
でも恋仲は……恋仲はいるのか?
* * *
足を動かそうとしたけど、ぴくりともしなかった。よく見ると、ギブスでガチガチに固定されている。しかも両脚とも。指はかろうじて動く。指先だけ。分厚い包帯で巻かれて、それ以上は動けない。
指先にすべすべとした感触があった。暖かくて、サラサラしていて気持ちいい。いい匂いがする。どこかで嗅いだことのある、ハンドタオルの香りがした。
「……」
ああ……本当によかった。
微笑む恋仲を見て涙が出てくる。
恋仲も同じように、ぽろりと目元から雫が零れた。俺と一緒だな。一度泣いちゃったら、もう我慢してる意味なんてないんだよな。
サラサラと、ノートを滑るペンの音。聞いているだけで癒される音だ。目の前には真っ白なノートが開かれていた。
震える指で支えられたノートには、たった一言だけが刻まれていた。
『おかえりなさい』
文字は波のように揺れていて、支える細い指も震えていた。
――ただいまって返せたと思う。
赦されちゃいけない罪。それに背を向けて逃げちゃいけない。だからと言って、自分をとことん否定して、犠牲にしてはいけないとも思う。間違っているかもしれないけど、自分を先ず肯定しないと、背負うことすらできない。
人はそれを独りよがりだと罵るかもしれない。まともな道は歩けないかもしれない。肯定したその先には、延々と続く後悔と贖罪の道しかないのかもしれない。
「俺は……それでも自分の道を歩くよ」
何も言わず、大きな瞳が潤んでいた。力強く、俺を見つめ返してくる。
俺は弱いから、また夢に引きずられたり、立ち止まって嘆いたりするだろう。だとしても進む意思があって道があるなら、生きている限り歩き続ける。
たぶん、俺と恋仲しかここにはいないと思う。このまま安心して眠ってしまいそうだ。そうなってしまう前に、どうしても伝えたい言葉があった。
「──好きです。俺と付き合ってください」
俺が告白をした理由は――好きだから。彼女が欲しいし、罰ゲームなんかじゃない。本気でそう思ったから。それだけ。今しかないと思った。
告白しろって言う俺の本心に、一切の嘘はない。
彼女の目が一瞬だけ見開いた気がした。彼女は黙って俺を見つめていたけど、視線を落とし、ノートに文字を書いていた。書き終えたノートは、しばらく膝の上から動かなかった。ぱたんと、俺には見せる事なくそっと閉じられる。
恋仲はスマホもノートも使わなかった。
うん! 大きく頷き、揺れる綺麗な黒髪と――とびきり可愛い笑顔。
声の代わりに、言葉を超えた返事が眩しいくらいに弾けた。
* * *
あの時、恋仲も負傷したんだ。斎に襲われ腕に数か所。でも凄いのは、傷を負いながらも、屋上での騒ぎに気付いた教員たちが来るまで取り押さえていた。
聞けば、兄から万が一襲われた時の返し方を教わっていたようだ。声を出せないからこそ、身を守る方法を色々と伝えて練習していたらしい。
俺は寝たり起きたりを繰り返しながら生死をさまよっていたらしい。なんとか一命を取り留めたが、目覚めた後、俺を待っていたのは想像も絶するほどの不自由さと激痛、それとリハビリ。
これがかなりきつい。全然力が入らないし、一歩進むだけで息が切れるし、全身汗だくになる。
恋仲は毎日学校帰りにお見舞いに来てくれている。たまに面会時間ギリギリに父も来る。琴音は施設で過ごしていることも父から聞いた。
『お兄ちゃんへ』
そんな題名の手紙が来た。琴音が書いた手紙だ。
『お兄ちゃんが無事だと聞いて、凄くほっとしています。私の事はお父さんから聞いていると思いますが、毎日いろんなことを考えながら過ごしています。』
『私』なんて、他人行儀な言葉を使う必要はないのに。手紙の中の琴音はどこか緊張していた。それがまた、とても愛しく思えた。
施設の事、治療の事、斎との経緯、屋上の事。何度も綴られている謝罪の言葉。琴音が置かれている状況について、丁寧に説明書きがされている。時折、砕けた言葉になるのも琴音らしかった。内容は、概ね斎が言っていた通りだった。
『助けてくれてありがとう、お兄ちゃん。あの時屋上で、お兄ちゃんが「また遊ぼう」って言ってくれた気がしました。今も明日も、すごく怖いし、不安しかないけど、いつかちゃんと謝りたいです。その為に頑張って毎日を生きていきます。頑張るから、だから、またお兄ちゃんに会いたいです。――琴音』
もちろん。会いに行くよ。
琴音がちゃんと立ち上がれるまで、その先だってずっと傍にいる。ずっと抱え込ませたままでごめん、琴音。
少しだけ開いた窓から、冷たい風が顔を撫でる。熱くなった顔を冷ますにはちょうど良かった。
* * *
数か月経って、松葉杖で歩けるようになった頃。父の車に乗って、ある場所に向かっていた。
二人の会話はない。気まずかったけど、前ほどイヤな雰囲気ではなかった。無理して喋る必要もない、流れる景色をぼんやり眺めているだけ。
居心地は悪くなかった。
一面に広がる青空。父の手には、花と水を入れた桶があった。
俺より先に進んでいるが、時折止まっては俺が追い付くのを待ってまた先へと進んでいく。黙って父の背中を追いかける。段差はちょっと苦労するけど、だいぶ扱いにも慣れてきた。
やっぱり恋仲が見守ってくれていると治りが早い気がする。
「……」
父と俺は墓石の前に立っていた。表面に彫られている母の名前は、土埃を被っていて汚れていた。父は柄杓で墓石に水をかけると、桶に掛けていたタオルで丁寧に拭き上げていく。
花瓶に残っていた萎れた花を片付けた後、新しい花を手向ける。俺は父の姿をじっと眺めているだけだった。線香の煙が寒空の中に溶けていく。
手を合わせる父。俺は軽く頭を下げて目を閉じる。
――墓参りに行く。
そう切り出したのは俺だ。始めるならここからだと思ったから。
母さんがあんなことしたのは寂しかったからとか、同情する気持ちは一切ないし、むしろ今も恨んでいる。父も母も、俺と琴音を真剣に見てくれると感じたことはなかった。
そんな気持ちが先行して、何をしても先にそのイメージが前に出てくる。どんなことがあっても、それは今後も変わることはない。でも今日は、そんな恨み言を伝えるために来たわけじゃない。
今まで来れなくてごめん。と、また来る。それだけを伝えに来たんだ。
「ありがとう」
帰りの車内、渋滞に巻き込まれていた。
腰が痛いなと思った時、そんなことをぽつりと父は呟いた。顔を見るも、父の顔は前を向いたまま。
片手でハンドル握り、もう片方の手は行く当てもなく顎を擦っていた。
「……なんだよ、気持ちわりいな」
父と交わした会話は、その一言だけだったけど、なんだかそれで十分な気がした。
不器用だけど、今まで感じなかった温かさがあった。
* * *
珍しく大雪だった。
暖かい病室から降り積もる雪をぼんやりと眺めていた。琴音からは定期的に手紙は来るし、俺も返してはいた。
琴音の体調は順調なようだ。文面からの想像だったが、父もそう言っていたし、俺もまた、傷も少しずつ癒え、不自由も解消されつつあった。
「善吉はそんな人生で楽しいの?」
検査のついでに来たと、いきなり入ってきた凪は、勝手に椅子に座ると開口一番そう聞いてきた。相変わらず人を馬鹿にしているようで、劣情を誘うような顔つきをしていた。
けれど、凪の顔はどこかスッキリしているように見え、かつての薄暗い瞳はなかった。今の凪の瞳は、きらきらと彼女が見る世界の全てを反射しているように見えた。
凪もまた重傷だったが、俺より先に退院して学校に戻っているらしい。口調もなんだか人懐っこさを超えて刺々しさを感じる。これが本来の凪の喋り方なのかもしれない。
「楽しいよ。だって恋仲と付き合ってるんだし」
俺も、凪を全力で煽るような返事をする。
「はーー? キモ。キモすぎて傷口開くわ」
おええ、と舌を出し吐きそうな顔真似をする。
「羨ましいだろ? お前も作ったら、彼氏」
「いるし何人も。みんなうちのこと可愛い可愛いって、お小遣いだってくれるし。傷跡だって、かわいそうって撫でてくるもん」
お腹をさすりながらにやりと上目遣いで見てくる凪に、俺が真顔で返すと、つまらなそうに凪も表情を戻した。
「はあー? キッモそれ」
ちょっと大げさに反応してやる。凪はふっと鼻で笑った。
全くこいつは。
凪も同じ病院に入院していたからか、学校以上に顔を合わせるようになっていた。
恋仲が放課後、屋上に向かっているのをたまたま見て追いかけた。体が勝手に動いてああなっていた。としか凪は言わない。
詳しく聞こうとしても、はぐらかすばかりなので、もう触れないようにしている。
「なんであんなことしちゃったかなあ。ほっとけばよかったのに。でもなんか面白そうだったし、気になったんだよなあ」
俺のベッドに両足を乗せ、椅子の方足を浮かせながら器用にバランスをとる凪。
「訴えたらお金もらえんのかな?」
「知るか」
わざとだと思うけど、ちょいちょい俺の足を蹴ってきて痛い。
「んじゃ帰る」
「もう来なくていいよ。あと……遊ぶのも、気を付けた方がいいと思うぞ」
「あはは」
コートを羽織った凪は、手を振りながら病室を出る。
「嘘だよ。遊んでない。やめたんだ、そういうの」
軽い口調とは裏腹に、凪の瞳にはやっぱり新しい色が浮かび上がっていた。
その言葉を残して、凪は帰っていった。
去り際に見えた凪の横顔は見た事もない笑顔で、それでいて新たな道を決心したような、迷いのない凜とした顔だった。
* * *
多くの日々が過ぎて、迎えるいつかの春――
自分の足で再び歩く世界。
どこまでも広く、たくさんの人たちが、それぞれの人生を背負って生きている。
俺という存在は、この先も大きな波に翻弄されながら削り合う小石に過ぎない。
でも、こうやってまた外の空気を吸い、自分の足で地面に立っている。
その波に逆らいながら、傷つきながらも必死に転がり続けることだけは、絶対にやめたりしない。
小さくても、前に進み続けるんだ。
新たな決意を胸に秘めると、新しい季節が迎えてくれた気がした。
ちょっと気恥ずかしいけど手を振る。
その向こうには、俺の大好きな人が待っていた。
ここまで読んで下さり本当にありがとうございました。
『この世界に、声がなくても』
最終話、いかがでしたでしょうか。
あなたの心に残る物語だったでしょうか。
最終話とありますが、凪に焦点を当てた物語をお届けします。(三話編成)
もう少しだけ、この物語にお付き合いくだされば幸いです。




