第十三話 ひび割れた境界線
街灯の光が道をぼんやり照らす頃、俺は家に戻った。台所では、ホットプレートやいつもより多めの皿、グラスを洗っている琴音の姿があった。
「おかえり。お兄ちゃん」
友達の姿はもうない。あんな後だ、楽しく過ごすことはできなかっただろう。
せっかく場の雰囲気を壊してしまって申し訳なくなる。
腕をまくり、隣に並んで皿洗いを手伝う。静かな水音の中で肩が少し触れると、洗剤の泡が天井に飛び出していく。
「うわっ、なに、どうしたの」
「……なにって手伝ってんだよ」
「ね、気にしなくて……いいよ? またいつでもできるし、お兄ちゃんはお兄ちゃんのこと、優先していいんだよ」
今度は琴音から肩にぶつかってくる。
誰もいないリビングを見ると、あの部屋の光景が目の前に広がった。
その真ん中に立っているのは、不器用で、やり方を知らなかった凪の姿。
残像となって、自分もそこに立っている感覚に陥る。
何度かその景色を繰り返し見ていると、それは幻のように、泡と、静かな夜の中に溶け込むように消えていった。
* * *
カーテンの隙間から光が漏れている。
まだ目を閉じたままゆっくりと今日が始まったことを知る。いろいろありすぎてそれを考えると眠れやしないと思っていたけど、体は休息を欲しがっていた。
すぐに眠くなって、普段なら学校に着いている時間まで一回も目を覚ますことはなかった。
今日は休日だから、ぐだぐだしながらベッドの上で過ごす。
枕元にあるスマホをたぐり寄せ、チャットを開く。
昨日ダウンロードした、間抜けクマのおはようスタンプを送信する。
正式名称、デコグマ。既読が付き、少し間が空いてから同じスタンプの返信がくる。そこからちょっとしたスタンプの応酬が始まる。
それだけで嬉しくなる。頭が覚醒していく。
こことは違う場所で、恋仲も一緒に起きていて、同じようにスマホを見ていると思うと胸が高鳴る。恋仲ももしかしてベッドの上で、とか想像してしまう。
『ところでさ、恋仲って俺の名前、呼んでくれないよな?』
気が緩んだ俺は、少しいじわるな質問をしてみた。ちょっと気になっていたこと。
既読はすぐつくが、返信に時間が掛かっているようだ。
あぁ、またどうでもいいこと言っちゃったと、メッセージを削除しようとするも既読になった時点で無意味なことだった。
こういう無自覚で馬鹿なところは、もう治らないのかもしれない。
『恥ずかしいんです、なんだか』
しばらくして、恋仲から返信が来る。
『恋仲って、普通に呼んでくれるの、凄いと思います』
『私は、名前を呼ぶと、その人に触れちゃいそうで……。呼んじゃったら、離れてしまうかもって思って、そう思うとなんだか恥ずかしくなるんです』
画面越しに見ているだけだったが、恋仲の呼吸が聞こえてくる気がした。俺が普通にしていることは、恋仲にとっては勇気のある行動のようだ。逆に、恋仲が普通にしていることは、俺にとって勇気のある行動に見える。
人に惹かれるってそういうことかもしれない。
自分とは違う感性を持っている人と出会うと、拒否感が生まれなかったらそれ以上の刺激を得られる。自分の意識が拡張される気分。
『俺が言うのもおかしな話だけど……。俺は呼ばれたって離れないよ。むしろ、嬉しいよ。名前で呼ばれるの。その、友達なんだから』
打っていて、自分が赤面しているのが分かる。
『はい。ありがとうございます。……でこきちさん』
『おいww』
俺の一生坊主はここで確定した。
画面越しに笑いながらも、心のどこかでは不安になっている自分もいた。こんな穏やかで完璧なやりとりほど、実は崩れる一歩手前なのかもしれない。
壊れるときは、こんな静かな日常から始まるんじゃないかって思うと胸がざわついた。
恋仲は優しくて、俺の返信に対して話を終えないよう返事をしてくるものだから、いつまでもチャットが終わらなかった。
それはすごく楽しかったけど、恋仲にも悪かったし、名残惜しいけど俺が切り上げて話を中断する。すぐにメッセージを返したい気分を懸命に堪えてリビングへ。
掃除をしていた琴音と軽く談笑した後、外に出る。
ここでまた掃除を手伝いだしたりでもしたら、逆に琴音を心配させてしまう。
全てを受け入れてくれるような、衰え知らずの日差しはなんとも清々しい。
本屋にでも行って、この前教えてくれた小説を買いに行こうと歩き出す。
俺の歩幅は大きくて、跳ねているようだった。
* * *
夕方。
適当に街をぶらついて、やっぱ我慢できなくて恋仲とチャットしていたら夕方になっていた。誰とも喋ってないけど、話し疲れたような気持ちのいい疲れがある。
丁寧に包装された文庫本はバッグの中。これは絶対に琴音に見つかっちゃいけない。極秘裏に、でも速やかに読み終える必要がある。
「お兄ちゃん、こっちきて」
バレっこないのだが、バッグを後ろに隠すように家に帰るとすぐに琴音から呼び出された。声のトーンの低さに、怒られるのではと警戒してしまう。
はいはい、と琴音が座るテーブルには一枚の紙きれが置かれていた。
何が書いているのか分からなかったが、文字が書いてある。
くしゃくしゃで皺だらけで読めない。
「これ……なに? ズボン、綺麗にしようとしたらポケットから落ちてきたの」
丁寧に広げられ、伸ばされ、波を打つ五文字。
そこからじわじわと亀裂が走るように、黒い線が伸びてきているように見えた。
いつだったか、靴箱を開けた時に落ちてきた紙。
「ああ。学校で落ちててさ。そのまま拾って、捨てるの忘れてた」
「……本当に?」
「本当だよ」
感情を殺しながら喋っているつもりだ。でも琴音には見透かされていると思う。
「お兄ちゃんは悪くないよ」
「あ、ああ、もちろん。そうだ琴音、なんか、食べ物ある?」
「……。うん、バナナならあるよ。待っててね」
どんな顔をしているか見てられなかった。
琴音が立ち上がる時、膝をテーブルにぶつけた音がして、床に小物入れが落ちた。
チャックが開いていたのか、銀色の、押し出すタイプの錠剤──あれが床に散乱した。
「あっ、そうだ! お兄ちゃん、先ごはん食べちゃう? もう少し待ってくれるなら、琴音つくっちゃうよ!」
俺が動くよりもはやく、両腕で覆いかぶさるようにしてそれをしまうと、いつもの琴音に戻る。
「うん。じゃあ、待ってるよ」
まだ感情を黙らせたまま、俺は微笑み返したんだと思う。
* * *
夜。
珍しく父が夕飯時に帰ってきた。休みなのにご苦労様なんて思わない。
「お父さん! お帰り! いまちょうど、ごはん食べてたとこだよっ、お父さんも食べる? あっ、先お風呂入る?」
「うん、先に頂くよ」
久しぶりに声を聞いた。外の空気を限界まで吸ったスーツの臭いで食欲が一気になくなる。食べるなら俺はもう部屋に戻ろう。
「善吉、琴音ちょっといいか」
ご飯を用意しようとする琴音と立ち上がろうとする俺を制止する。軽く舌打ちして、俺は座りなおした。
「……なあ、二人とも。たまには墓参りにでも行こうか。お彼岸近いし、休みも取れそうなんだ」
「行くわけないでしょ。あんなやつの所になんか」
かぶせ気味に、食らいつくように言葉を発したのは俺ではなく、琴音だった。
「そんな言い方はするな。お母さんだろう」
「お母さんなんて一度も思ったことない!」
「落ち着きなさい。お前たちももう大人なんだから」
「落ち着いてるよ!」
それは琴音の叫び声だった。
そのまま琴音はわざとらしく足音を立てて、自室に戻っていった。
腕を組んだままの父を見る。俺の方を見ていた。皺のある目じり、少し垂れた頬、薄い唇。どれも見ていて不愉快な顔だった。
お前たち、つまり俺も入っているということだ。それはどうでもいいとして、今更何を言い出すんだ? 墓参り? お彼岸? なんだそれ。
「善吉、お前からも言ってやりなさい。前に進まないと、いつまでも今のままだぞ」
その言葉を聞いた俺も、感情を制御することができなくなった。
せっかく我慢していたのに、今度はそれを俺に擦り付けるのか?
感情の器に溜まった水が一気に沸騰する。
「俺たちはとっくに前向いてんだよ! それをほじくり返すてめえこそ前を見ろよ! こっちは死に物狂いでやってんだよ、普段無関心なやつが! いきなり親面してんじゃねえよ!」
椅子を蹴り飛ばした、と思う。
「琴音が平気だとでも思ってんのか! 元気だから大丈夫だって思ってんなら……お前が一度死んで来いよ!!」
叫んで物に当たって、記憶を塞ぎこむのに必死だ。
片隅に視線を感じ廊下を見ると、琴音の顔がこちらを向いていた。
その焦点はどこにもあってないように見えた。
それに、俺の視点もどこにあるのか分からなかった。
ここまで読んで下さりありがとうございました!
すこしずつ善吉の過去が浮きぼりになり、物語は終盤へと向かっていきます。
どうか最後までお付き合いいただけると幸いです。




