8話 悪夢のような
今日は朝から良いことが多かった。
朝食の目玉焼きが綺麗に焼けたり、職場までの道が運良く全て青信号ですんなりと歩けたり。
珍しく職場での嫌がらせもなくて、こんなに気持ち良く一日を過ごせたのはいつぶりだろうなんて思っていた。
金曜日だったこともあって、仕事帰りに少しだけお酒引っ掛けてから自宅で適当にご飯食べてシャワー浴びて寝ようって考えながら道を歩いていただけなのに。
居酒屋を出てから私の後ろを着いてくる人が居るような気がした。
私のパンプスの音とは違う、スニーカーの靴底が擦れる音。
怖くなって少し早足で家までの道を歩いた。
大通りから曲がって、街灯の少ない道を進む。
家へ帰るにはこの道を通らなければ帰れないのだ。
このタイミングで自分の通勤ルートを恨んだりして、歩くスピードをまた早めようとすると後ろから怒号が聞こえてきた。
「俺が先に見つけたんだよ!」
「違ぇって!嘘つくなよ!」
恐る恐る振り返ってみると、薄暗くてよく見えなくとも二人組の男だってことはわかった。
街灯の光がキラリと反射したのを見て、何か持ってるなとは思っていた。
もしかしたら刃物かも、なんて思って足が竦んでいると二人組の男は掴み合いを始めた。
最初はてっきり仲間だと思っていたけど、どうやら違うみたい。
この隙に逃げなきゃって考えても足が上手く動かなくて、もつれて尻もちをついた。
「ぐぁ......!」
その瞬間変な声が聞こえたと思えば、片方の男は地面に倒れ込んでいた。
片方の男は慌てて倒れた男から距離を取った。
何がどうなっているのか私にもよく分からないけど、倒れ込んだ男が起き上がらないのを見てやはり刃物を持っていたんだと確信した。
きっと誤って刺してしまったのだ、と。
男は私の方を見て、
「お、俺は悪くない......」
と訴え続けている。
そんなの知るかって思った。
だって刺したのは紛れもなくその男なのに、なのに男は私に向かってこう言った。
「お、お前のせいだからな!」
俺は知らねぇ!って言ってその場を走り去っていった。
男から放たれた一言と男が刺されて倒れている現状にパニックになった私は、一目散にその場から走った。
夢の中みたいに足が重く、息も上がって焦燥感だけが全身を駆け巡っていく。
一瞬夢であればいいのにって思った。
けど走りすぎて靴擦れした踵の痛みがやけに鮮明で、これは現実なんだって踵が擦れる度に思い知らされるようで嫌だった。
一人でいるにはあまりにも心細くて、怖くて、気付けば凪くんに電話していた。
状況が理解出来ていく度に恐ろしくてまともに息すら出来ない。
漸く繋がった電話の向こうでは凪くんの声が聞こえる。
「いとちゃん?」
私は助けて、と声を振り絞った。
ガタン、と椅子が倒れるような音が電話越しに聞こえて、慌てて玄関を飛び出したような様子が窺えた。
「電話は繋げままにして、大丈夫だからね」
私を安心させるように凪くんは話しかけ続けてくれる。
小さな頃は泣いてばかりで私に頼りきりだった、まるで弟みたいに思っていた彼が今こんなにも頼もしいなんて。
無我夢中で走っていると目の前に一つの大きな影が見えた。
もしかしてさっきの男の人かもしれない、そう脳が危険信号を送ってくる。
しかし街灯に微かに照らされた顔は私の知っている人だった。
後ろで括っていた髪は走ったせいで乱れてて、長い髪が顔の前に垂れ下がっている。
私は膝から崩れ落ちた。
「いとちゃん!」
駆け寄っては背中をさすってくれる。
大きくて温かな手がゆっくりと背中を伝う感覚が酷く安心できた。
息がままならない私を抱き上げて、彼は自宅へと戻っていく。
暫くはパニック状態が続きまともに話すことすら出来なかったが、凪くんは落ち着くまでずっと傍に居てくれた。