①『大賢者の訃報』
北の果ての街、アイスリムの宿で、私は信じがたい知らせを耳にした。
「大賢者グレー・サンドル様が亡くなられたそうでございます」
行商人の言葉に、私の手から木製のマグカップが滑り落ちた。床に落ちる寸前、私の指が小さく動き、つぶやいた言葉は「フロート」。カップは宙に浮かび、そっと机の上に戻った。これは師が教えてくれた最初の生活魔法の一つだった。
「いつだ?」私の声は震えていた。
「風の噂では、数日前かと…」行商人は申し訳なさそうに目を伏せた。
数日前—。その言葉が胸に突き刺さる。私がもっと早く戻っていれば、最期に会えたかもしれない。
私の名はジョシュア。大賢者グレー・サンドルの最後の弟子であり、彼にとっては息子同然の存在だった。少なくとも、私はそう信じていた。
宿の部屋に戻り、旅の荷物をまとめながら、思い返す。三年前、私は師の元を去った。「もっと世の中を見てこい」という師の言葉に背中を押されて。しかし本当は、私の中に何かが満たされていないという焦りがあったのだ。
師は私に生活魔法を教えた。一般の人々の暮らしを豊かにする魔法。華々しくない。派手でない。でも、確かに人々の役に立つ魔法。
旅の途中、歴史研究家のアマテラスと出会い、師の生涯について多くを教えられた。若き日の師は戦場で名を馳せた魔導士だった。敵の軍勢を一掃する破壊魔法を編み出し、幾度となく戦況を変えたという。
中年期には魔法学園で教鞭を執り、魔法の体系化に貢献した。その時代に教えを受けた者たちは、今や魔法界の重鎮となっている。
そして最後に、師は生活魔法の研究に没頭した。才能の有無に関係なく、誰もが使える魔法の開発に心血を注いだ。私が師の下で学んだのは、まさにこの時期だった。
荷物をまとめ終え、窓の外を見る。雪が降り始めていた。
「待っていてください、師よ」
私は小さくつぶやいた。魔法の杖を握る手に力が入る。今こそ、師の元へ帰る時だ。
***
南へ向かう街道は、予想以上に混んでいた。商人の荷車、巡礼の行列、そして私のような旅人たち。春を告げる鳥たちが、頭上を飛び交う。
「ラニュス草を買いませんか?」
道端の薬草売りが声をかけてきた。懐かしい香りが鼻をくすぐる。
「フローティング・ライト」
私は小さな光球を作り出し、薬草を照らした。これも師から学んだ生活魔法の一つ。暗い場所で両手を使いたい時に便利な魔法だ。
「おや、珍しい魔法をお使いですね」
薬草売りが興味深そうに光球を見つめる。
「ええ。これは大賢者グレー・サンドルの考案した生活魔法です」
「グレー様の!?」薬草売りの目が輝いた。
「私の村にも一度いらっしゃいました。病人のための治療魔法を教えてくださって…」
道中、師の噂を耳にする機会は多かった。戦場での武勲や学園での功績ではなく、むしろ晩年の、一般人のための魔法の話が多い。薬を温めるための魔法、井戸から水を汲み上げる魔法、農作物の育成を助ける魔法…。
どれも小さな、しかし確かな魔法。私は旅の中で、これらの魔法が人々の暮らしにどれほど深く根付いているかを目の当たりにしていた。
夕暮れ時、一軒の宿に足を止める。
「お客様、魔法使いでいらっしゃいますか?」
宿の女将が声をかけてきた。
「はい、そうですが」
「実は…」
彼女は困ったように言葉を続けた。かまどの火が消えてしまい、薪が濡れていて火が付かないのだという。
「お安い御用です」
私は師から教わった火起こしの魔法を使った。決して派手な魔法ではない。しかし、女将の安堵の表情を見て、私は師の言葉を思い出した。
「魔法は人を助けるためにある。たとえそれが小さな魔法でも、誰かの役に立つなら、それは立派な魔法なのだ」
***
十日後、ようやく師の住まいのある谷間に到着した。
懐かしい風景。でも、何かが違う。庭に咲いていたはずの薬草園が荒れ果て、家の窓は固く閉ざされている。
「ジョシュア兄さん!」
振り返ると、小柄な少女が走ってきた。アイリだ。師の孫で、私と同じく最後の弟子の一人。
彼女の目は涙で潤んでいた。
「おじいさまは…おじいさまは…」
私は黙ってアイリを抱きしめた。彼女の肩が小刻みに震える。
「グレーは安らかに眠りについた」
新しい声が聞こえた。振り返ると、そこには魔導将軍デクストラが立っていた。師の青年期からの義弟であり、今や魔法界の重鎮の一人だ。