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俺の体験した能登半島地震あれこれ

作者: 月見ココア



最初に諸注意として、


これは俺個人の地震体験談となります。

先んじて言うなら“すごくひどい目”には合っていません。

自分、家族、友人、知人が大怪我したり亡くなったりもしてません。

それでも過去の地震体験から文章で見るのもダメかもしれないという人はお気をつけを。


また当然ながら、これは自分が見聞きし体験した小さな範囲の話とそれをどう思ったかの話。

今回被災したすべての場所や人に当てはまるものではありませんのでご注意を。


というか自分はかなりマシな状況だったので本当にきつい目に合った方々と比べると申し訳なくなってしまうのだが、それでも書き出しているのは自分のため。他の人と比べて、という想いは消えないがきついものはきつかったし、色々感じたこともあったのでこういう形で吐き出して、そして残しておきたいと思ったのです。



そのため話がとっちらかってる自信があるが時系列的に書いていこうと思う。



まず、身バレを防ぐ、という意味で詳細な場所は伏せさせていただくが


大枠としては『七尾市』という範囲であるのは言っておこうかと。


石川県の地名や位置関係に詳しくない方向けに説明すると、県地図の上の方にある怪獣の横顔、のように見えなくもない上部、その口みたい部分の下顎らへん。


と言えば、石川県を形だけ知ってる方には伝わるだろうか?

ニュース等でよく見られる被害が一番ひどい場所は七尾からさらに上の地域。

すごい大雑把だが、上に行けば行くほど被害がひどいと思っていい。


俺の両親の実家は共に七尾で年末年始はよほどのことが無ければ帰省している。

じつはここ数年、雪を警戒してその時期の帰省はしていなかった。どちらの実家も七尾でも山中の方で車での移動が困難になるほど積もる年があるからだ。


今回は雪があらかた溶けている状態であると聞いたので帰省することに。

当たり前だが、だからといって特別な正月になるなど微塵も思っていなかったし帰省にありがちな諸問題とも縁遠い状態でもあった。祖父母の家といっても今は誰も住んでおらず親戚が集まる事も稀になっていたからだ。そのため思い出がある家ではあるが、年末年始を含めて一年通して何回か掃除や管理で訪れる場所のような感覚になっていたのである。


なのでいつも通り(・・・・・)まったりのんびり過ごすだけと思っていた。

まさか悪い意味で一生忘れられない正月になるなんて。


家の掃除や管理、物資補充などを滞りなく終えて年末を過ごして年が明けた日。

つまりはあの1月1日の午後。

俺や家族が被災したのは母方の実家に行っている時となる。

上で話した祖父母の家は父方の方。こちらも既に祖父母共にいないが親戚が帰省していたのと母が実家近所に顔見せする目的で訪れた。年末年始帰省した時はわりといつもする挨拶だったので気軽なもの。



年始の挨拶と正月料理を少しつまんで、でも大勢ではないので騒ぐこともない時間。であったのはあの瞬間までだった。



正直、何がどういう順番だったかは色々吹っ飛んでいるんだが、最初は速報か警報が流れてきたはずだ。ただ石川県民は多少理解してくれるだろうが場所が珠洲市であったので「またか」という印象が強かった。近年、珠洲は震度はともかく何度も揺れていたのだ。しかし今回は震度がでかい、大丈夫か。


とか他人事のように思ったのも一瞬。


スマホがまたけたたましい音を鳴らし、家が大きく揺れ出した。

ぶっちゃけると縦だったのか横だったのかさえ分からない大きな衝撃が、突然。

ただ大きな地震を体験したのが初だった自分は家が揺れる怖さを知った。


理解させられた、というべきか。


いつかどこかで聞いた何分も揺れたように思ったという体験談を思い出す(現実逃避)

出来ることは何もなかった、というより何をするべきか分からない時間が体感十分以上続いているかのように思えた。ただなんとなく「家が崩れたら終わる」と怯えながら、屈むような格好で固まっていた。


なので母が俺の後ろにあった石油ストーブの存在とその上のヤカンを指摘してくれなかったら少し危なかったかもしれない。咄嗟に振り返ってヤカン(の持ち手)を掴めたのは不器用なくせによくやったと言いたい。


(後々似た状況で熱湯を被った子供が亡くなったニュースを聞いて、なんかこう、変な言い方だが「俺助かって良かったんだろうか」という、妙な気持ちにはなってしまったが)


※石油ストーブを知らない方向けに説明するが最近のは本体が大きく揺れる(動く?)と自動で消火する仕組みになっていてこの時点でもう消えていたのだが、だからといって即座に熱が引いているわけではないのでガード向こうの燃焼筒という円柱のあれが赤いまま中で飛び跳ねている光景はかなり背筋が凍るものであった


さて、果たして本当は何度、そしてどれだけ揺れていたのか。

もはや大地震に合ったという衝撃で細かい部分を覚えていないが、親戚一同(数名だが)同じ部屋にいた時に起こった地震であったため、収まったと判断した時、一緒に外に出れた。古い家屋(多分、皆がイメージする古民家そのもの)だったのだが倒壊が免れたのは不幸中の幸いである、俺も家族も親戚も無傷であった。


だが縁側やらにはまっている戸(正式名称不明)、家の背面の戸が、いわんや家中の戸が外れて倒れていた。あとから気付いたがおよそ外向けに倒れたので中にいた俺達が無事だったと知ってぞっとする。またこれは後々に発覚することだが、他の部屋はかなり散乱していたり上から重い物が落ちてきていたりする状態だったので、あの時(結果的に)一番安全だった部屋に皆が集まっていたのはこれまた不幸中の幸いというかなんというか。


しかし外に出た瞬間はそんなことに気付けるわけもなく、思ったのは別のこと。

幼少期から慣れ親しんだ祖父母の家が倒壊こそ免れたが一瞬で外見も中身もぐちゃぐちゃになったのを目の当たりにして、どこかいつまでもそこにあると思っていた『家』がそうではなかったと突然、乱暴に突き付けられて愕然としてしまった。


そして衝撃は続く。

少し離れた所を見れば土砂崩れが起きていて、道路を塞いでいたのだ。

危険なので間近まで近づきはしなかったが、遠目にも向こう側が見えなくなっていた。

後々通れるようになった際に見れば一般的な車の車高より高く積もった土砂(倒木まみれ)が車両5,6台ぐらいの長さに渡って道を塞いでいたらしい。


山中の小さな集落が外部と唯一繋がる一本道を塞がれたら脱出は難しい。

しかしながらご近所の安否、ほぼじいさんばあさんばかりであったが全員無事だったのは良かった。ただその時点で夕方5時を過ぎていて、まず今夜をどう乗り越えるかの話に。


正直に言おう、そういった今後の話に俺は何も関わっていない。色々な衝撃で呆然としていた、というのが正確かもしれんが、仮にもその場で一番若い者であった俺だが一番その土地や人々に詳しくない者でもあったのだ。そして外部に伝手もない。役に立たんのである。そもそも話に加わるまでもなくうちの両親や親戚、ジジババ含めたご近所さんの決断は早かった。


とりあえず持ち出せる毛布や布団を車に運び込んでの車中泊である。

暗くなっていたので家の状態(中、外含め)を確認できず、また地震に合った直後、しかも時折思い出したように体感できる揺れがまだまだ連続している中で建物に入るのは心理的な抵抗があったからだ。山中に住む人々にとって車は必須な乗り物であるため皆さん保有しており、複数台保有も珍しくないため各家で別れて車中泊ができた。


されど、振り返ると被災生活でその夜が一番の地獄だったと先に告げておく。

体の震えがずっと止まらないぐらい、寒かったのである。

暖冬という話はどこにいったのかというレベルで、翌朝地面には霜が降りたほど。


車中泊の正しいやり方を誰もわからなかったのもまずかった。

事前準備なく、しかもそれが初体験の車中泊だったせいか。

どうするのが正解か分からず、なんとか爺さん婆さんたちだけは座席を倒して、敷布団をねじこみ、毛布・掛け布団でぐるぐる完全防備で寝かせたが俺達はそうはいかなかった。時間と布団が足りなかったのである。季節と場所柄ゆえに防寒着を着込んでいたし毛布も数枚あったのだが、それでも寒い。冗談に聞こえるかもしれないが体の震えが寒さのせいか続く地震なのか時々わからなくなるぐらい。


所詮、車なんて隙間だらけの鉄の箱だと実感した。

暖房をいれればいいじゃないかと言う人もいるかもしれないが、今後が何も見通せない状況で多数あるとはいえガソリンを被災初日の夜にどこまで使っていいものかが分からなかったのだ。下手をすれば明日も明後日も車中泊が続く可能性も考えておかなければならなかったので乱用はできなかったのである。


とはいえそんな理性的な判断を是としながらもいいから暖房つけろという感情もあった。

ぶっちゃけずっと「あれ、俺地震からは助かったけど凍死するんじゃね?」と色んな意味で震えながら夜を越していたからだ。次また大きな地震がこないか、生きて朝を迎えられるのか、寒い寒い寒いっ、そんな緊張と恐怖の中にいたせいか自分が果たして少しでも眠れたのかずっと起きていたのかさえ記憶が曖昧だ。


翌日、全員無事に朝を迎えた後は話し合う余地なくどこかの家に入らないとダメだ、となった。皆、車中泊を続ける方が危ないと判断したのである。なので一番ダメージが無かった一軒を仮の避難所みたいに扱って共に過ごすことになった。当然だが家主の許可の下でだ。電気、水、は地域一帯ダメになっていたがその家はガスコンロが使えたのも大きい。それに正月だったので各々の家に潤沢な食料とストーブと灯油があった。また(俺の勝手なイメージだが)田舎の家なのでそれなりに広い。10人ぐらい入っても余裕がある。そして探せば布団も毛布も出るわ出るわ。全部そこに集めたのである。そういう運び出しは俺もそこそこ役立ったと思いたい。


だが俺はそこで一度力尽きた。

緊張の中の徹夜を通り越した朝は若干ハイになっていたらしく、張り切って物資を運んでいたがそれが終わってなんとか温かい朝食をと状況が少し落ち着いた瞬間にダウンした。


無理をしなかったおかげか午後には回復したのだが、そこで俺は初めて知ったよ。

温かい布団の中、手足を伸ばして寝れるというのがじつはかなりの幸福であると! たった一晩(初めてで無防備な)車中泊しただけで価値観が変わった! 布団で寝れる! すごい! 一緒に避難生活(同じ車中泊経験)していたイトコは完全同意してくれた! だよな!



笑い話と思うだろ?

マジなんだよ、マジ。



で。

暖を取れるようになり、温かい食事もでき、寝床も確保、となっても問題は多い。

脱出がいつになるかという見通しの無さもあったけど、トイレをどうするかは難題である。

水が止まっただけなら、あのタンク付きのトイレなら使えるはずなのだ。

中に水が入っていれば流れるはずなのだ。しかし流れない。

地震の揺れで何かが壊れたとしか思えない。


とはいえ何度もいうがここは山の中の集落である。周りは自然だらけである。なので最悪、まあ見えないところで、というのも出来なくはない辺りが町中より気楽だったかもしれん。実際、男連中は小を外でするようにしていた。


試行錯誤の末、でかいバケツ一杯の水を便器に一気に流し込めば圧力の関係(?)か何かで流れるのが判明。排出の方は壊れていなかったらしい。(冷静に考えると流れ出た先がどうなっていたかが謎で、今更に怖い)

ちなみに流すために使っていたのは近くの川からくみ上げた水だ。汚いのでトイレにしか使えない水である。



別の問題は外部との連絡だった。

地震直後はその混乱とあちこちからの電話でどこにも繋がりにくかった。

翌日(1月2日)はどこの携帯かで差が出た。ここが山の中の集落なのもあったんだろう。午前と午後であっちの会社は電波が立つ、立たないという状況になっていた。それでも地震直後ゆえに繋がりにくさはあったが。だが三日目(1月3日)はほぼほぼどこも電波が立たなくなった。大方の予想としては地震で中継局が停電、その後に予備電源で少し復活したがそれも切れた、のではないかと。(真相は不明)


スマホに比べれば安定して外に通じていたのは固定電話だ。

俺は知らなかったのだが電話線が繋がっているなら停電中でも(こちらからはかけられないが)外からは通じるらしい。そのせいか主だった外との連絡は(それでも不安定ではあったが)この固定電話となった。


そんな電話としてはほぼ使えなくなってしまったスマホであるが、それでも不意に通じる瞬間があったり、手慰みの娯楽になったり、夜は手元を探るライトに、また現状を記録するカメラとしても使えた。だが電気が通じてないので充電はできないという問題がある。しかし車中泊の件で述べた通り、少数の小さな集落でも車の保有台数が多かったので一台を完全に充電器にしてみんな充電していた。他の充電式の機器、特にライトなどを含めて。おかげで暗い夜も光源があって助かったよ。


そうやって、あるもので工夫したりして、不便はありながらも過ごしていたが、やはりその後の見通しは立たないまま。情報が錯そうしていたのもあった。

当初翌日(2日)に自衛隊が土砂をどかしてくれるという話もあった(どこまで本当だったかは不明)がよりひどい場所に人や重機は優先されるのでそこに行くことになったとか(これも本当かわからん)

だがこの話に際して俺達の反応はおおむね「それはそう」だった。


こっちはけが人も病人もいないし家も倒壊してない。火事も起こらなかった。

今日明日でどうこうなる状態でもない。唯一外の情報を知れるラジオでなんとなく程度だが被害を知れていたのもあって、本当に「後回しでいいから!ひどいとこ行ってあげて!」となっていた。


(ラジオは当然地震の被害報道ばっかりで聞けば聞くほどつらい話ばかりであったが現代人には音が無さ過ぎる日々(特に夜)はきついので状況を知るツールとしては勿論だが少ない娯楽にもなっていた。ラジオ局側も分かっているのか応援音楽がたまに流れていた)


ただそうは思っていてもやはり先のこと、いつまでこの状況なのか。は不安である。

穏やかに過ごせてはいた。顔見知りばかりの10人前後の避難生活。まだ食料はあって、暖は取れる、寝床はある。プライバシーは無いが、そもそも着替える余裕が出たのは4日あたりからだったしな。


天候が悪い日(あるいは時間帯)が多くなかったのも助かった。

意識してみんなで外に出て、日光を浴び、体を動かしたりしていた。


意外にも、というかそういう山中の集落に住むじいちゃんばあちゃんたちなので、元気である。困るぐらいに動き回る、ともいう。


家そのものよりそこに続く道やら小さな坂やらが一番ボロボロになっていてね。

手すりは倒れてるし石畳は崩れ落ちてる。


そんな、


ところを、


歩いて、


何度か自宅に戻るじいちゃんばあちゃんたち。


待って!!


またあるおじいさんは地震直後、土砂崩れを単に倒木が道を塞いでいると勘違いしてチェーンソー担いで一人向かっていこうとしたのでみんなで止めた。

パワフルが過ぎる!


まあ、そういう姿がこちらの精神的余裕に繋がったような気がしないでもない。

ああいう状況で悲観的になり過ぎるのがよくないのをみんな分かってる空気があった。


そんな閉じ込められながらも、ある種平穏ともいえる日々が続く。

が、その合間、合間にも体感できる地震は何度も起こる。

寒さからストーブを消す訳にはいかんし、貴重な火力としてお湯を沸かすツールにもなっていたので俺はもっぱら火の番、やかん番として結構一日中、気が気ではなかったりもした。

最初のほどデカイのが再びこなかったのは良かったが、朝昼晩も関係ないそれには少々敏感になる。ちなみに5か月経った今でも、他の原因と頭で分かっていてもなんらかの振動にはまだ過敏になっている。


あとは、遠くの音、にもか。

これは私の個人的な感覚なので間違ってるかもしれないが、揺れそのものが来るより一瞬先に遠くから音が響いてくるように感じられた。そのせいか、強い風による音や離れた場所の車の走行音とかも響き具合によってはちょっとビクッとする。



さて、事態が進んだのは地震から数日後の夜のことだ。

民間の?土木関係の人達によって土砂の撤去作業が始まったのである。

内側は脱出できると大盛り上がりであった。ただ周りが、特に最初にこの作業に気付いた父が盛り上がり過ぎて俺はなんかスンと落ち着いてしまったが。


ただその後一晩かけても撤去しきれず、どうやら翌朝までずっとやって、どうにか開けたらしい。

もう、こっちはごくろうさまと頭を下げるしかない。

あるいは地元風にいうなら「きのどくな」か。


その後は閉じ込められていた全員が連れ立って車で脱出した。

俺達はてっきり重機がここまでこれたのだから道路はそこそこ無事なのだろうと無意識に思っていたが、冗談じゃない。もちろん通れないほどひどくはなかったが普通車一台がかなりゆっくり、慎重に進まないと危ない状態だった。数日前当たり前に通れていた道がボロボロになっているのは、表現が難しいが、何かとても怖い光景だった。

近くにあった小さな神社の鳥居(石造り)がバラバラに砕け散っていたのも、ぞっとした。


そして俺達が脱出できて、すぐのところ。隣の集落の避難先といえばいいのか。

脱出できた俺達に気付いた人達が安堵して泣いてくれたのを見て、そこで初めて自分たちが閉じ込められていた実感がわいた。中にいた人達より外部からそれを心配していた人達の方が不安だったのだろう。他にも無事であると友人知人に顔を見せに行って同じような反応をされたので、自分達がいた状況のまずさを突破してから理解してしまった。


されどどこも等しく被害を受けているのも見た。

何度も、何年も、幼少期から通っている道が、見慣れた光景が等しく崩れている。

倒壊した家は少なかったが、何かを壊された、失ったという感情を覚えた。


(実はこの時は一緒に閉じ込められていた人の親戚が安全な道を調べて来てくれてその誘導で進めたためこんな感想を抱きながら被害が少ないルートであった。後々別ルートで行き来すると、歩道が盛り上がって斜めに傾いていたり、車線の一部が完全に崩落していたり、橋が浮き上がって(道が沈んだ?)いたり、山の一角がえぐったように崩れていたりとひどいものだった)


車をゆっくりと、比較的無事な道で走らせながら数時間。

徐々に見慣れた(壊れてない)光景になって少し安堵しながら俺達はやっと自宅に帰れた。冒頭で語った位置情報的にいうなら石川県地図の下の方である。見た目で分かる被害は無かったが、揺れは確かにあったようで机の上に置いてあった物が床に散乱していたよ。

逆に言えば被害らしい被害はそれぐらいだったともいう。


けど久しぶりにテレビを見れば、映像という形で一番被害の大きい場所を目の当たりにして絶句する。特に輪島の朝市通りは地震の数か月前に訪れたばかりだったので何もかもが燃え尽きてしまった光景に、かえって本当にあの朝市通りだったのかと脳の理解が追い付かなかった。


後々映像を詳細に見ていくと僅かに燃え残ったモノに見覚えがあって「ああ、本当にあそこだ」となってしまったが。


それ以外の場所についても、同じ被災地でもこうも違うかというぐらいの被害だった。

なまじ同じ被災した身であるからこそ分かる部分があり、そして犠牲者やその遺族の話はとてもじゃないが他人事に聞こえなかった。


自分達は幸運にも地震からケガもなく生き残り、本来の生活圏が被害が少ない所だった。だから“今は”平穏な生活に戻れている。


あれから自分達は何度か祖父母の家に赴いている。

脱出を優先して被害状況が分からなかった父方の家の確認や置いてきた荷物の回収。

それからは素人の応急処置ないし家に空いた隙間をブルーシートで覆ったりしている。

それぐらいが限界でもあった。


現地に住んでないので公的な補助が受けづらく、また心情的にも住民優先は当然と思うことから正直父方も母方の家もこれどうすんだよ、という状況だ。どっちも崩れなかっただけで人が住める状態ではない。直すにしろ解体にしろ、おそらくは数年後の話になるだろう。


そんな家々が並ぶ場所に、今も人が住んでいる。

いくら輪島や珠洲と比べれば被害が軽くとも元の生活にはまだ戻れていない。

時間経過によって直後は無事だったところが壊れてしまう、ということもある。

家そのものは無事でも周りが崩れ過ぎて解体せざるを得なかったという家があった。

道路では俺は二か所ほど直後は無事だったが今は大きくへこんでいたり穴が開いた所を見た。


まだ、終わってない。続いているのだと嫌でも感じさせられている。今でも。




最後に。

俺は災害復興の知識があるわけでも役人でも政治家でも自衛隊でもない。正直これから何をどうすればいいのか見当もつかない。誰に何を頼めばいいのか、もだ。その答えを知りたい、というよりはそういう状態だと知ってほしい心理が強い。ましてやこんな毒にも薬にもならない体験談を読んでくれる人に何かしてほしいなどと言えるわけもない。ただ5か月という月日がたっても何も終わってない、何も片付いてないという認識だけは持っていてほしい、




そんなワガママで締めさせていただきます。

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― 新着の感想 ―
自分も石川県在住ですが、 下の方に住んでましたので殆ど無傷でした。 まさか作者様の方が大変な思いをしているとは思いませんでした…
貴重な体験談をありがとうございました。 ご無事で何よりです。
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