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黒の死神は透きとおった刺客を殺せない

黒いクジラの白いしぶき亭

 少しばかり重い足取りで、イ・ルーエ・ロダンは、酒場の扉を開けた。

 鈴の音がお客を迎える。

 王都の繁華街の通りから一つ奥に入ったところで、ちょっとした庶民向けの酒場だ。

 ぶら下がった看板には、丸いクジラが描かれた『黒いクジラの白いしぶき亭』の文字。

『王立』の俸給でも出入りできるほどだ。

 正面カウンターのバーマンが彼をみて、会釈した。

 ルーエは、手を少し振って、マントのフードを背中に落とすと長いカウンターの奥に座り込んだ。

 ルーエの黒い肌は、王都では浮いている。白系人種がほとんどの王都では、南方の黒肌のルーエのような人間は少数派だ。

 ルーエは、肩章を隠すようにマントの肩口を寄せた。

 大きな店ではないが、そこそこに満席で賑わっている。

 流しの楽師がギテルをかき鳴らし、それにあわせて陽気に踊っている者もいる。

(失恋か…

 忘れてたな、そんな感じ。)

 片肘をついて、他の客を眺めていた。ねじって先を結んだ白髪が袖口に触れている。

「何になさいます? 旦那様。」

 カウンターのバーマンが、ルーエに声をかけた。

「そうだな…。

 強いの。

 それもたくさん。」

 バーマンが笑ったが、ルーエも笑って言う。

「今日はね、酔いつぶれたい…」

「何があったんです、旦那様?」

「へへ。」笑ってごまかす。

 バーマンが小さなグラスに薄い金色の液体を注いだ。

「お里の、テキラです。」

 ルーエが笑顔を見せた。

 くいっと一息に飲み干す。喉がキリキリと熱い。

「効くっ。」

「まったく…」

 他の客のジョッキを用意しながらバーマンが笑っている。

「いつもより、大変でございましたか?」

「まあね…。

 護衛なんてガラじゃないから。」

 二杯目のテキラも瞬殺で飲み干す。

「お怪我もなく、何よりです。」

 フフとルーエが笑う。

「旦那様に何かあったら、エ・ルドリッド様に私が責められます。」

「まだ、姉ちゃん、ンなことを。

 もう三十過ぎの男にないよな。」

「『王立』をお辞めになって、商会のお仕事に専念なさいませ。」

「商人には向いてないの。算術に弱いから。」

 バーマンが苦笑を浮かべた。

 ルーエは、ふと、誰かに見られているのに気付いた。

 カウンターの六つ向こうの席にいる人物だ。

 王都でよく人にじろじろ見られるのは慣れている。

 それは自分の容姿のせい。

 黒い肌はひどく目立つ。

 だが、カウンターの人物の視線は、ルーエのグラスに向けられている。

 少し目を細めて睨みつけているようだ。

 ルーエがバーマンに顎で示した。

「なじみ?」

「初めてのお客様です。」

「ふーん。」

 相手は深い緑色のコートを羽織っている。立ち襟で首元も肩も見えない。襟の縁から白い線が見えている。髪は茶黒くてうねりがある。結んではいないが、長いところからみると独り者だろう。

 白いズボンに足首までの革靴だ。

 白のズボンと言えば、王立治療院の医師の制服に似ている。

(医師殿がこんなところで飲まないよな。)

 その白ズボンが少し、ルーエに近づいた。

「それは、美味いのか。」

 低い声で尋ねられた。声変わり前の少年っぽい。

(若いのか…? 酒、飲めるのか?)

 目を細めて白ズボンがグラスを睨んでいた。

 バーマンがルーエのグラスにテキラを注いだ。

「これは強い酒です。」

 ルーエが白ズボンにしらっという。

「悪酔いしますよ。」

 白ズボンが肩を落として席に戻ると大人しく自分のグラスを空けた。

 白ズボンの消沈した姿が、何だかルーエの後味を悪くした。

(一杯ぐらいなら、大丈夫か。)

「バーマン、あの方に。」

 ルーエが小声で言うと、バーマンはグラスにテキラを注いで、白ズボンの前に置いた。

「あちらのお客様からです。」

 言葉を添えるのも忘れない。

 白ズボンが驚いてバーマンを見上げる。そして、ゆっくりとルーエのほうを向いた。大きなヘイゼルの瞳がきらきらしている。

(え!)

 自分の胸がどきりとしたことにルーエが驚いた。

(…男だよな?)

 ヘイゼルの瞳が笑みを浮かべて、グラスを掲げてくれた。ルーエも少しグラスを持ち上げて答える。

 白ズボンは、一気にグラスを飲み干した。

「おいしい!」

 バーマンに微笑みかける。

「もう一杯、いただいていいだろうか。」

 白ズボンがきらきらとした瞳でバーマンを見た。

「酒代はちゃんと払う。」

 白ズボンが訴えている。

 バーマンが困った顔をしてルーエを見た。ルーエも困った顔をしたが、仕方なく頷いた。

 白ズボンはそれから立て続けにグラスを空け、呆れた顔をしたルーエの前で楽しそうな顔をして突っ伏した。

 バーマンとルーエが顔を見合わせる。

「仕方ない、起きるまでそのままで。」

 ルーエの困った風な口調にバーマンが頷く。

「だから、言わんこっちゃない。」

 白ズボンより多くグラスを空けて、ルーエが呟いた。

 席を三つ動いて、白ズボンに近づいた。

(まるで、護衛騎士の位置だな。)

 白ズボンの顔を覗き込む。白ズボンは、微笑んでいたが、閉じた睫毛に雫がある。顔の線は細く、肩の線もほっそりしている。女の線だ。白制服の医師なら女ということもありうる。

(…女? …そういうこと?)

 テキラの瓶の底の一滴まで飲み干して、ルーエは困った笑みを浮かべた。


 ◇◇◇


(あの時から… 何も望めない人生になった…)

(優しくしてくれるのは醜い私に同情しているから。)

(…誰のことも想ってはいけないのだから。)

 ゆっくり目をあけた。目の焦点がいまひとつ合っていない。

 頭が痛い。二日酔いの痛み。

 はじめての酒場で飲みすぎた。

(酒場?)

 急に意識がはっきりして飛び起きた。

 席の二つ分向こうに見知らぬ男がうつ伏せで寝ていた。こちらを向いている。黒い肌に白い髪。結んだ先が背中に乗っている。

(誰?)

 白ズボンの肩が震えた。怯えの震え。

 白ズボンは、上着の内ポケットから財布を出すとそのままカウンターに置いた。

 もう一人を起こさないようにそっと店を出た。

 店の扉の鈴が鳴ったが、気づかなかった。

 イ・ルーエ・ロダンは、鈴の音で目を開けた。

 視線の先には、高そうな財布がそっと置いてある。

 白ズボンの姿は無かった。

 ルーエは財布を手にした。重みがある。

「貰いすぎだな…。」


 ◇◇◇


 二日酔いのまま、勤務に出た。

 制服は、治療院で着替えるから患者には悟られないで済んだ。

 頭の痛みは自業自得だ。昨日の男に「悪酔いしますよ。」と言われたのに。

 なんとか一日を過ごして、退勤できた。

 通用門を出て、夕空を見上げた。

 今日は家に帰らないと。財布は酒場に置いてきたし。今は、お金がない。

(家に帰りたくないのに… )

「よう。」

 背中に声をかけられた。低い男の声。

 え、と振り向く。

 治療院の門壁にもたれるように黒肌に白髪の男が黒いマントを肩に立っていた。

「どうも。」

「…。」

 男が白ズボンの前に歩み寄った。

「おつりをお持ちしました。」

「おつり…」

「これ、多すぎましたよ。ちゃんとウチの適正なお代はいただきました。

 のこり、お返しいたします。」

 ルーエは財布を白ズボンに差し出した。大きな手のひらにのっている。

「あ、あの…」

 昨夜とは少し違い、白ズボンは臆病な感じがする。背丈もルーエの肩ほどしかない。ルーエは背が高い方だから、女としては背のある方かもしれない。

「イ・ルーエ・ロダンと申します。

『王立』騎士団の騎士をやっています。」

 ルーエがマントの肩をめくって肩章を見せると笑顔で名乗った。

「…。

 エリー・ケリーです。医師です。」

 エリーが財布を受けとった。

「どうして、私のことを?」

「これでも『王立』なんで。

 お財布なんて、わかりやすい手がかりでしょう。

 お家の印が入っていた…。」

「…。」エリーが赤面した。

「『黒いクジラの白いしぶき亭』は、俺の姉貴が経営者でね。

 よかったら、また、飲みに来てやってください。」

 ルーエが穏やかに言った。

 エリー・ケリーは、小さく会釈するとルーエから目をそらして歩き出した。

「…。」

 ルーエは、肩をそびやかせるとエリーを見送った。

(噂通りの『面倒くさいご令嬢』か…。

 俺、ここのところ、女運、悪すぎだ。)

 ルーエに苦笑が浮かぶ。

 財布の持ち主を調べるのに、財布に入っていた紋章の柄で「アナスン侯爵家」であることはすぐにわかった。当主のマリー・ケリー・アナスン侯爵は『右翼』の副団長で白の制服は着ない。白の王立治療院の制服を着るアナスン家の人間は、当主の妹の医師殿だけだ。

 妹の医師殿は、侯爵家の姫君でありながら、治療院で医師をしている変わり者だという。貴族間では、『面倒くさいご令嬢』と陰口をいわれ、縁談は無いという。『面倒くさい』の理由は、何かにつけて姉のマリーが妹の交友関係に口出しをし、侯爵家は縁談を受け付けないからだともいわれる。

 平民のルーエには預かり知らぬ話だ。

 テキラを嬉々として飲んでいた彼女にはそんな裏はうかがえなかったが。

(あの涙って…?)

 ルーエも一つ伸びをして、歩き出した。

 その彼の正面から、『王立』の旗を掲げた騎馬がすごい勢いで走りこんできた。王立治療院の前で馬を止める。

 勢いの止まらない馬が前足を高く上げ、騎手が振り落とされそうになる。

 ルーエが馬のはみに飛びつき、落ち着かせた。

「なんだ! どこの伝令だ! 俺は『王立』第三のイ・ルーエ・ロダンだ!」肩章を見せながらルーエが叫ぶ。

「市中警備隊です! ダーナ河岸の精製油工房で火事です! 怪我人が出ています。王立治療院の出動をお願いに来ました!」

「火事!?」

 ルーエの眉間が険しくなる。王都の火事は緊急事態だ。

「わかった! 貴殿は治療院で医師を手配しろ!

 この馬、貸してくれ!」

 騎手が馬から飛び降り、かわりにルーエが乗った。手綱をさばきながら、走らせる。通りの広い場所に出ると、河の方に火の手が見えた。風は強くないが、火事の旋風で火の粉が舞い上がる。延焼すれば、王都が火の海だ。

 立ち止まった群衆が前をふさいでしまう。

「『王立』の伝令だ! 道を開けてくれ!」

 馬の通り路を辛うじて確保して、ルーエが進む。

 彼の声に振り返った人物がいた。

 エリーだ。

 ルーエもその姿を見つける。馬の歩を落としてエリーに近づき、手を伸ばした。

「アンタ、医者だったな! 一緒に来てくれ! 火事で怪我人が出ている! 治療院の力がいる!」

 エリーの腕を掴むと軽々と持ち上げた。

「え?」

 驚いたエリーはルーエの上着にしがみつくだけで精いっぱいだった。彼女には拒む余地もない。

 ちょうど彼の懐に抱えられるようにエリーが馬に乗せられると再び、馬は疾走し、火災現場の風上に着けた。

 ルーエはエリーを抱えて、馬から飛び降りた。

 そこでは「市中警備隊」が消火と怪我人の応急処置に飛び回っていた。

「医師殿! 怪我人をお願いします!」

「え、えっと、ルーエさん、私、火傷や外科的なのは専門外です!

 困ります!」

「専門? そんなこと知らん! 

 なら、目の前の傷ついている人をどうすればいいかぐらい考えてくれ!」

 ルーエは、自分のマントを脱ぐとエリーに押し付けた。

 そのままエリーを突き放す。

「毛布替わりぐらいになるだろ。」

「あ、」

「おい、鳶口をよこせ! 延焼してないが、もう一区画、壊すぞ!」

 ルーエが風下に向かって、警備隊の騎士と走り出した。

 エリーがマントに目を落とした。

(毛布替わり?)

 周りを見回すと焼け出されたのか、煤けた人々や血を滲ませた者たちが大勢座り込んでいた。『王立』の救護班が彼らの傷口を拭い、包帯を巻いている。油のしぶきにあたったのか火傷の傷口を押さえている者もいる。水をかけられて呻いている。

 エリーは唇を噛み締めると救護班に駆け寄った。

「油紙はある?

 火傷の傷口は、油紙で包んで! じかに包帯をすると傷口にくっついてしまうわ。」

「は、はい。あの、貴女様は?」

「王立治療院の医者です! 怪我の酷い人から見ます! どこですか!」

「こっちです!」

 建物の影に担架で運ばれた重傷者が並べられていた。

 エリーが彼らにかけ寄る。

 火傷の程度を見て、薬剤や油紙の手当をする。水をかけて熱を冷ます指示も出している。

 エリーは、大勢の患者を目の前にして、それだけで息も出来なくなるほどの緊張感に支配されていた。

(せめて、治療院の人が来るまで。

 がんばって、私!)


 ◇◇◇


 ルーエは、風下の建物をいくつか壊し、延焼を食い止めるべく、緩衝地を拡げた。

 桶で水をかける人海戦術だけでなく、手漕ぎの噴水車で水を飛ばしたが、まだ鎮火しない。油に火がつくと、消えたと思ってもくすぶった熱が周りを乾かすと再燃する。厄介なのだ。

「ちっ、」舌打ちしながらも手を止めない。

「ルーエ!」

 聞き覚えのある娘の声が彼を呼んだ。

 赤騎が跳んで、こちらに向かってくる。

「お嬢!

 こっち、来るな! 危ない!」

 ラナは、ルーエに近づくと赤騎からふわりと飛び降りた。

「大きな火事ね!」

「油なんで、なかなか消えん!」

 ラナは自分の肩から水筒を下ろすと蓋をあけて中の水を宙に放り投げた。

 ラナの水は宙で薄い膜にひろがり、包み込むように火の上に落ちた。

 そのとたん、小さい火が消える。

 ルーエ達が少し、息をつく。

「いいのに消えないわね。」

 ラナが困ったように言った。

「お嬢、なんで?」

「これ、ただの失火じゃないって。」

「え?」

「公爵様が気づいたの。」

「あー。」

「今、退治に向かわれているわ。

 私は、延焼を止めるために来たのよ。」

「お手を煩わせて申し訳ありません。」

 ルーエが頭を下げる。

「気にしなくていいのよ。

『公爵』様のお役目なんだから。」

 ラナがにっこり笑った。


 ◇◇◇


 左手首の腕輪がくるくるとまわっていた。

 ギルバートが左手を振ると腕輪は黒剣に姿を変える。

「旦那様、」

 灰色のマントをまとったアマクがギルバートの傍らに立った。

「中心に、火鳥がおります。」

「ファイエ・ノルトの手か…。」

 アマクが頷く。

「王都に仕掛けてくるとは、大胆だな。」

 ギルバートの口元が少し上がった。

「では、火鳥を落としに行こう。」

 ギルバートは、アマクを先導に火旋の中を進んだ。

 アマクが手を上げると火が二人を避けていく。火元までの通路が開け、その先に羽ばたいて火を起こしている火鳥が宙にいた。

 ギルバートは目を細めると黒剣を肩の高さに構え、火鳥を斜めに切り裂いた。火鳥は炭化し、砂のように地面に零れ落ちた。舞い上がった羽根が火の粉となる。アマクが地面を蹴って宙に飛び、火の粉をなぎ払った。

 火旋が勢いを失い、地面に吸い込まれるように消えた。

 火の落ちた後にギルバートの影が伸びた。黒剣は腕輪に戻っている。

 彼は振り返って、人を探した。

 その姿はすぐわかった。

 ラナは、ほっとした笑みを浮かべて彼を見ていた。

 ルーエは、ラナのもとに戻ってきたギルバートに右拳を胸にあてて敬礼をした。

「閣下、ご助力、感謝申し上げます!」

「気にするな。

 役目だ。」

「はっ!」

 直立不動の姿勢をとる。

「帰るぞ。」

 ギルバートがラナに言う。

「はぁい。」

 ラナがうれしそうに返事をする。

 彼らの馬が主人の側に戻ってきた。

「じゃぁね、ルーエ。」

 ラナは、ギルバートに向けたのと同じ笑顔をルーエに見せた。

「はい、お嬢もお気をつけて。」

 ルーエが二人を見送る。

(人の気も知らんで…)

 ルーエに苦笑が浮かぶ。

(また今夜もテキラの瓶が空くな。)

「ルーエ!」

 また呼び止められた。馬車から下りてきたのは、『王立』第三騎士団のジェイド・ヴェズレイ副団長だ。長い赤毛の先を結んでいる。

「火は?」

「『公爵』閣下が消してくださいました!」

「そう!

 ってことは魔物…?」声が低くなる。

「のようです。」ルーエも合わせて小声で答える。

 ジェイドが火災現場を見回した。

「…随分と壊したねぇ。」

「申し訳ありません。」

 ルーエが頭を掻く。

「行政部に怒られるなぁ。

 でも、ギルバートに全部任せたら、王都が半分ぐらい無くなっちゃうから『よし』としておくかな。」

 ジェイドも苦笑いを浮かべる。

「報告書は明日出してね。」

「え?」

「この現場、君が一番、階級上だから。」

 ジェイドが笑い、ルーエは宙を仰いだ。

 夜空を見上げて、思い出す。

「怪我人は!?」

「治療院の救護班が来ている。

 怪我人の搬送が始まっているよ。」

 ほっとする。それからもう一つ思い出す。

「一緒に来てくれた治療院の医師殿がいます!」

「え、誰?」

「あ、

 …エリー・ケリー先生です。」

「エリー!?」

 酷く驚いたのはジェイドの方だった。


 ◇◇◇


 エリーは額の汗を拭った。

『王立治療院』の救護班が到着し、彼女の処置患者を引き継いでくれた。

 煤けた空気のせいで、白の制服が少し汚れている。ルーエから託されたマントも誰かの上掛けに使われてしまった。

(謝らなきゃ…)

 立ち上がってルーエの姿を探した。

 騎乗の二人を見送ったルーエの後姿を見つけた。

 彼のもとに歩き始めたが、足を止めてしまった。

 ジェイド・ヴェズレイがルーエの傍らにいる。

 何か話をしているようだ。

 エリーは、彼らに背中を向けた。まだ、目の前にも人が大勢いる。

(気持ち悪い…)

 少し歩きだすと何かがこみ上げてきた。

 建物の影に入り込む。立っていられなくてしゃがみ込む。こみ上げてきたものが口の端からこぼれ出た。口元を抑えたが止まらない。食べたものをもどしてしまった。食道が焼けるように痛み、冷たい汗が顎から地面に落ちる。白い制服が汚れる。

(汚い… 私は汚い…)

 涙が落ちた。エリーは情けなくて、蹲ってしまった。

「センセ?」

 誰かに呼ばれた気がした。顔を上げられない。まだ、嘔吐くのが止まらない。何も出ないのに。泣き声も出ないのに。

 背中に大きな手が添えられた。ゆっくりと撫でてくれている。

 少し楽になる。もう片手が彼女を支えてくれているようだ。思わず、その袖を握りしめてしまう。

「全部、吐いちゃいなさい。」

 誰の声? ゆっくりで温かい。

「お父様…」

 エリーが微かに呟くと、彼女の身体が崩れ落ちた。

 慌てて、ルーエが抱きとめる。

「先生!」

 抱えた身体は華奢で折れそうだ。思わず、そっと抱き直す。

「エリー、」

 酷く心配そうな顔でジェイドが彼女を覗き込んだ。

「副団長?」

「…思い出させてしまったね、エリー。」

 ジェイドが頬に触れる。

「えっと?」

「私が連れて帰るよ。」

 ジェイドがルーエの手からエリーを抱き上げた。

「できれば、彼女のことは内密に。」

 ルーエが頷いた。


 ◇◇◇


「ルーエ、目が血走ってるぜ。」

 廊下ですれ違う同僚が彼を揶揄う。

「うるせぇ! 徹夜で報告書、書いてたんだよ!」

 副団長室の扉を叩く。

「イ・ルーエ・ロダン、報告書の提出に参りました。」

「入りたまえ。」

 上司のジェイド・ヴェズレイの返事で、部屋に入った。

 正面のジェイド卿のほかに、亜麻色の長い三つ編みを肩に乗せた武人が腕組みをして立っていた。深紅の上着が誰かを物語っている。

(げっ!)ルーエがのけぞりそうになる。

 現役騎士団の中では、最強と言われる『右翼』のマリー・ケリー・アナスン侯爵だ。ジェイド卿の許婚者でもある。

 視線が怖い…。

「マリー、そんなに睨んだら、ルーエが卒倒するよ。」

「…。」

「ほ、報告書です。」

 ルーエが恐る恐るジェイドに差し出す。

「そこ、入れておいて。」

 提出物箱にそっと入れる。

 やっぱり、マリーの視線が怖い…。

「手を見せてもらおう。」

「えー。」

 マリーの命令にルーエがすくみ上る。ジェイドに助けを求める視線を送るが、顔を背けられてしまった。

 マリーの手がルーエの手を取った。まじまじと眺められる。

「男の手だ。」

「そうだよ、マリー。」

 ジェイドが言う。

「エリーが拒まなかった手だ。」

「えっと、意味が…」ルーエが困惑した。

「黙ってろ。」マリーに一喝された。

「マリー?」ジェイドも困惑する。

 マリーが微笑を浮かべた。

「手が大きいと言われるだろう。」

「はぁ。」

「先代侯爵は手が大きくてな。

 エリーは父親の大きな手が好きだった。ほっぺたが全部覆われて気持ち良かったそうだ。」

 マリーがルーエの手を離した。

「先代はな、『近衛』を追われたあと、剣を握らないようにと両手を焼いたんだ。」

「…。」驚いて声が出なかった。

「酷いやけどで、エリーのほっぺたを触ることが出来なくなった。」

「『近衛』を追われるって…」

「ジェイド、邪魔をしたな。」

「マリー?」

「もう戻る。これでも忙しいのでな。」

 ジェイドが微笑む。その顔を見てまたマリーが吠える。

「なぜ、結婚式の準備を私がせねばならんのだ!」

「だって、マリー、嫁ぐのが私だから。」ジェイドの返事は軽い。

 マリーが眉を顰める。

「イ・ルーエ・ロダン!」

「はっ、閣下!」ルーエが直立姿勢になる。

「またな。」

 そう言い残して、マリーが部屋を出て行った。

「えっと、自分、何をやらかしたんでしょうか!」

 心配げにルーエが尋ねた。

「お眼鏡にかなっただけだよ。」

 ジェイドが笑う。

「報告書はわかったから、もういいよ。

 あ、これ記録所に返しておいて。

 記録所の保管棚は中に書いてあるから。」

 ジェイドは、書類筒をルーエに渡した。そして、また書類の山に埋もれる。

 ルーエは一礼すると部屋を出た。

 渡された書類筒を抱えて記録所に向かう。

(こんなのは、ペーペーの従卒の仕事だ。)

 ちょっと不満に思いながら、記録所に入る。

 入口で、書類筒の中を見た。書類の保管位置を示す年月日が入っている。

(十二年前か…

 結構、奥だな。)

 だんだん、埃をかぶった箱の並ぶ奥へ進む。明かり取りの窓の下の棚だ。年月日の入った箱をおろす。床に置いて蓋をあける。書類筒の中身を保管箱の中に開けた。丸まった黄ばんだ羊皮紙を伸ばしながら並べるが…。

(『エリー・ケリー・アナスン』?)

 そう記された書類に手が止まった。

(いやいや、関係ないだろう…)

 でも、誘惑と好奇心に勝てなかった。

 そっと引き抜いて目を落とす。

 軽い気持ちで読みだした文章は最後まで文字を追えなかった。

(…重すぎる。)

 薄っぺらいものなのに酷く重くて、そっと片付ける。

 保管箱の蓋もそっと閉め、大事そうに棚に戻した。


 ◇◇◇


 それから普通の日々が続いている。

 ルーエは、正式にジェイド副団長の副官に異動となり、五歳も年下の上官のために走り回っている。まあ、定刻で帰れるのは有難い。暮らしもこなれてきたし、そろそろ…。

 非番の日は、夕刻の開店準備をしている。

『王立』では表向き副業は禁止だが、家業の手伝いは許されている。ルーエの場合は家業の手伝いではなく『家業』そのものだが。さすがに店に立つのは憚られるので、開店前と閉店後の掃除が家主の仕事だった。

 扉の鈴が鳴る。

「あ、店、まだなんですよ。」

 扉の開く音にルーエが言いながら顔を上げる。

「えっと…」

 ちょっと言葉に困った。床磨きのモップの手を止める。

 エリー・ケリー・アナスンは、そっと緑のマントを脱いで腕にかけた。

 白い、王立治療院の医師の制服。

 エリーが頭を下げた。

「先日は、ご迷惑をおかけいたしました。」

「先日って…

 こちらのほうこそ、お力添えをいただきました。

 先生には感謝しかありません。」

 ルーエの方が戸惑いながら答える。

 エリーは顔を伏せたままだ。

「姉がロダン様に失礼なことをいたしました。」

 困った、ルーエが答えに窮する。

 エリーが顔を上げた。表情が強張っている。

「私に関わったばかりに、申し訳ありません。」

「…別に。

 謝ってもらうようなことは何もありませんよ。」

「もうご迷惑をおかけすることはありません。」

「どういう意味です?」

 エリーが背中を向けた。店を出ようとする。

「ま、まって!」ルーエが慌てて呼び止める。

「この前、飲みに来てくださいましたよね!

 教えてください、何で、うちの店だったんです?」

 エリーが立ち止まった。

「…看板が…クジラでした。」

「クジラ…。 

 ああ、クジラの事、知ってるんですか? ここは海から遠いから関心ないでしょ?」

「クジラは、大きくて… すごく大きいって聞きました。

 大きな身体で、何でも飲み込むって。」

「センセ?」

「嫌なことも飲み込んでくれるといいのにと思っただけです。」

「嫌なこと?」

「あの日、忘れたいことがあって…

 クジラが飲み込んでくれればいいのにって。」

 エリーはそういうと早足で店を出て行った。

 扉の鈴が大きく鳴る。

「…。」

 ルーエは黙ってエリーを見送るとモップの柄に顎をのせて、ため息をついた。

(…クジラかぁ。)

「ほんと、オレ、女運、悪すぎ!」

 ルーエは、またゴシゴシ床を磨き始めた。


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