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たえまなく霧雨が音もなく降り続く中、男は二つの墓の前に立ちぼんやりと佇んでいた。
どれほどの時間が経過しているのだろう。
結わえた肩まである薄茶色の髪は雨に打たれ、夕暮れと重なり黒みを帯びてみえる。鼻筋の通った堀の深い顔からは雫がしたたり落ち、髪と同様に濡れている服にポタポタと垂れている。
女は男に声を掛けるのを戸惑いつつも、声を掛けるのを止められなかった。
「風邪をひきます。どうかお屋敷へお入りください」
「—―-貴方には、とても世話になった。娘のことで半ば強引にこちらへ連れてきてしまい、申し訳ないく思っている。娘の亡き後、いつまでも貴方の時間を奪うわけにはいかない」
「私は・・・ミランジェ様には・・」
女の言葉を遮るように、男は言葉を続けた。
「貴方は亡き妻に似ている。話し方、ふと見せる表情さえも。娘が亡くなってから、強く感じるようになった。貴方を見ると辛くてしかたがないのだ。すまない。屋敷を出て行ってほしい。今までの対価として、礼は十分にさせてもらう。他人の貴方がなぜこうも妻に似ているんだ、、、」
―― 私は、、、、だ・・・れ・・・??そう言おうと思った??
パンッ!!
頭の中に何かがはじけ飛んだような音が聞こえた。
今までの自分の過去・性格など女に関するすべてが弾け飛んだような気がした。
自分自身でも自分が何者かわからなくなる。記憶が混濁する。
頭の片隅で答えなければと思うが、言葉が口から出てこない。
―― 気持ち悪い。頭がくらくらする。倒れそうだわ。
息をのみ、なんとか言葉を発しようとしたとき、先ほどよりも雨粒が大きくなり、あっという間に激しく降り出してきた。まるで反論など許さないかの如く。
霧雨はどしゃぶりに変わった。なんの音も響かない。
ただ雨の音が聞こえ全てが飲み込まれ、雨音とともに、かき消されてゆく。
女は踵を返し、歩き出した。聞こえてくるのは、どしゃぶりの雨の音だけ。
男は歩き去る女を一瞥し、ただ、ただ前を向いて立っていた。
前に歩を進めるのも大変な中、女は雨で重くなったドレスを持ち上げ、引きずるように、墓のある裏山から町へ向かって歩き出した。
歩き出したといっても、街になんら目的があってのことではない。
あてもなく、ただ、やみくもに街を目指し歩いていた。ドレスは降りこめる雨水で重くなった。
履いている靴は、とうに役に立たない。
ぐしょぐしょと音がする靴を履き続け、ひたすら町へ向かって歩き続けた。
通常の天気でも、裏山から町までは男の足で徒歩30分以上かかる。女子供であればさらに倍の時間がかかる。
靴の中の水音さえも聞こえないほどの雨。
雨足はさらに強くなり、雨に視界が遮断され、流れのはやい滝の中にいるようだった。
―― あなたは、だれなの?なぜ私の中にいるの?
頭の中に響くもう一人の声。これは自分の声なのだろうか。幽霊の類なのか。
―― そんなことは、私も知らない。雨とともにはじけ飛んでしまったんだもの。
奥様に似ている??私がお会いしたこともない奥様に??
【貴方は誰?】
そんなことは、今、一番私が知りたいわ。
もう歩くことも疲れた。考えるのも疲れた。
このまま眠ってしまえば、、、朝になれば、、、、、きっと。
女は歩みを止めて、気づくと大きな木に寄りかかり目を閉じた。
目が覚めると、一番最初に薄いブルーが目に飛び込んできた。体が鉛のように重く向きを変えることさえできない。手指にさえ力が入らない。
―― いたたた、、、、のど渇いた、お水が飲みたい。。ここは、どこ??
体は重く動かすこともままならず、それに加えて、節々の痛みに頭痛も伴い、体調は最悪だった。
ガチャ
扉が開く音と同時に、ガタイのいい男が入ってた。
―― リョウ様???!!!
「起きたか?」
私が目覚めたことに気づくと、破顔してベッドへ近寄ってきた。
ジークが所属する騎士団の団長である。ジークの娘ミランジェと共に差し入れを持って行ったとき、よく会話をしてくれる気さくな団長だ。
身長192センチと背が高く、瞬発力、行動力、統率力、機敏性、あらゆる能力に長けていると聞いている。
人望も厚く、ジークとはまた違った良さで女性の人気を二分している。ジークと違い独身ということもアプローチが絶えない理由の一つだ。
どれほど女性から声を掛けられても、なびく気配がないため、本命はジークでないのか?!と本人があずかり知らぬところで、まことしやかに噂が広まっていた。
本人が聞いたら逆鱗に触れることは間違いない。
騎士団長の姿を見、霧雨の中の出来事が思い起こされ、濡れたままのジークを慮った。悲哀に満ちた後姿は心に刻まれ、忘れることはできないだろう。
「気分はどうだ?水を持ってきたが飲めるか?」
頭がパニックで???ばかりが、頭に浮かぶ。思うように考えることができない。
「リョウ・・さ・・な、ん・・・」
しかも喉が渇きすぎて、発した声も掠れ何を伝えたいのか、自分でも聞き取ることができない。
その自分が発する声にますます焦ってしまう。
「待て待て、落ち着け。ここは俺の家だ。無理に起き上がる必要はないぞ。説明は後だ。まず水を飲んで、食えるようならスープを飲んでから薬を飲むんだ。まだ熱が下がってはいないぞ」
無理に体を起こそうとしたが腕に力が入らない。生まれたての赤ちゃん動物の方がもっとちゃんとしているだろう。リョウは慌ててサイドテーブルに食事を置くと、アキの背中に優しく手をまわし、体を起こすのを手伝い、そのまま自分を支えに体を凭せ掛けた。
頭は、相変わらず????で埋め尽くされているが、熱と痛みで朦朧としているため、うまく考えがまとまらない。
そんな心中お構いなしのリョウは、ひな鳥に餌を与えるように、水を飲ませてくれる。
コップすら持つことができないアキにとって、恥ずかしいがとてもありがたかった。
それだけ喉が渇いていた。熱を持った体には、冷たい水が心地よく喉を通過してゆく。
飲み切るのが遅かった水は口端からこぼれ、顎を伝って落ちていく。
「これから薬を飲むのに、何も食べないでは胃に悪い。少しでもいいから、スープを飲んでくれないか。味は保証する。この家の料理人が作っているんだ」
アキは黙ってコクンと一つ頷いた。
それを見たリョウは、躊躇いがちにスプーンですくったスープを運んでくる。体調不良のせいで3口飲むのがやっとだった。そもそも支えられているとはいえ、半身を起こしているだけでもだいぶ辛い。
薬を飲ませてもらい、ハアハアと荒い息を隠せないまま、ベッドにゆっくりと寝かせられた。
再び意識が戻ったのは夜中だった。部屋に外の光が入ってこないところをみると、夜中のようである。
―― あれからどれくらいたったのかしら?
先ほど目覚めたときよりか、幾分よくなった気がする。リョウに飲ませてもらった薬が効いているようだ。呼吸もしやすくなった。頭痛が収まったのはとてもありがたい。
サイドテーブルに置いてある水差しからコップに水を入れ、喉の渇きを潤した。ゴクンという音とともに、水が喉を通過していく。
呼び水になったようで、そのまま、3杯水を飲みほした。
―― なぜ、リョウ様お宅に?まったく思い出せない。ジーク様…お風邪を召していらっしゃらないといいのだけれど。ミランジェ様のお部屋に籠られているのかしら?
部屋を見渡したが、明かりがないのでよく見えない。カーテンは厚くぴっちり閉められているので光が入ってこない。
―― 真夜中なのかな・・・
サイドテーブルのそばに置いてあるヒカリゴケスライムは、その周辺が見える程度で部屋の細部までは光が届かない。
―― これを持ち歩けば少しは間取りがわかるかしら・・・
ヒカリゴケスライムが入っている、透明で背の低いコップを手に取り、ベッドから足を下した。
床につけた足に力を入れ、立ち上がった途端。
グラリ。
視界が傾いていく。
―― 倒れるっ!!
慌ててコップを持つ手でサイドテーブルを掴もうと手を伸ばした。しかし、コップと一緒では掴むことは難しく、掴んだのは水差し。
到底 体を支えることなどできず、水差しとともに床に倒れた。
ガシャンッ!
音と同時に水差しが割れ、床が水浸しになる。床が木材のため、大きな音になり部屋に響く。
アキは水差しのガラス破片の上に倒れた。
―― いたっ
見ると、割れたガラス破片が転んだ拍子に太ももに刺さっていた。
体を起こそうと手をついた場所にも小さな破片が落ちており、足だけでなく、手のひらにも傷を負った。あまりの痛さに刺さったガラス破片を取ることさえ忘れる。
―― 私、、、なにやってるんだろう。。。。
堪えきれなくなった涙が、はらり、はらり。
頬を伝って、はらり、はらり。
「なっんでっ 私・・・っく ひっっくぅ」
―― どうしていいかわからないよ。。。
ぽたり、ぽたり、ぽたり。
涙が止まらない。
コンコン
「アキ 大丈夫か?物が割れる音が聞こえたが、大丈夫か?入ってもいいか?」
―― リョウ様?! 起こしちゃった??ど・どうしよう、どうしよう。声を出せば泣いているのがバレちゃう。あ、割ってしまった水差しどうしよう??
「アキ、返事ができないのなら、開けるぞ」
いうなり、リョウが部屋に入ってきた。開いた扉から光が入り、アキの位置まで伸びている。
「ケガをしたのかっ!!」
「っリョウさ・ま、っく あの」
慌てて駆け寄り傷を見ようとするが、廊下から入ってくる明かりだけでは暗くて傷口がよく見えない。
「暗いな」
部屋の電気をつけ傷を見たリョウは、ハッと息をのむ表情をし、
「救急箱を持ってくるから待ってろっ!」
言うやいなや、階段を駆け下りる足音が廊下から響き、足音が遠ざかったと思う暇なく、駆け上がってくる音に変わり、気づけばアキの目の前に座ってケガを見ている。
―― え? はやっ!! すご、騎士、、、息も切らしてない。さすが団長様。鍛え方が違う
一瞬ケガのことを忘れ、リョウのあまりの俊敏さに驚き痛みを忘れる。
「痛むか?破片を抜くぞ。痛みと恥ずかしさは治療のために我慢してくれ」
リョウは、破片が散らばっている場所からベッドへ移動させ、着用しているパジャマのスカートをまくり上げた。アキは反射的にまくられたスカートを下ろそうとする。
「あっ!ううぅ!!」
まくり下ろしたスカートが破片にあたり、思わずうめき声が出る。
「何をしてるんだ。恥ずかしさよりも手当てが先だろう」
アキは恥ずかしさを隠すため、リョウの顔から視線を外し、首を横に向けた。
―― リョウ様 恥ずかしさで私、死にそうです。人は恥ずかしさで死ねる…
リョウは手際よく手足から破片を取り除き、消毒をする。
「ああああああっ!」
消毒のあまりの痛さに獣のような声が出る。手当ての最中も、はらり、はらり。
涙が止まることはない。
―― きっと、痛みで泣いていると思われているんだろうな・・・
そんなことを頭の片隅で考えながら、手当てをするリョウに視線を移した。
「足の傷は思ったよりも深い。俺がこのまま縫合する。傷を縫うのは慣れているから心配しなくていい。何度も経験している。このタオルを口にくわえていろ。舌を噛むなよ。きっと、アキの裁縫より上手いと思うぞ?!」
気持ちを和らげるためか、リョウは砕けた感じで声をかける。数針とはいえ、麻酔なしでの縫合は想像しただけでも痛みを感じる。口の中に優しくタオルを詰められ、返事の変わりにアキはコクリと頷いた。
涙はハラハラからポロポロにかわり、これから来る痛みに恐怖し、そして覚悟を決めた。
リョウはアキの腰に跨り、自身の重みでアキの体を抑え込むと、動きを封じると消毒した針で傷を縫い始めた。
リョウのいうように、縫合は一瞬で終わった。戦の場で医者がいないとき仲間の手当てを幾度もしてきたであろうことがよくわかる。
緊張と痛みでアキの呼吸は荒く、体全体に汗をかいていた。口にタオルが入っているので荒いのは鼻呼吸だ。
呼吸も汗も鼻水も、すべてが女として終わっている状況に、穴があったら埋まってしまいたいと思った。
「よく頑張ったな、もう大丈夫だ、安心していい。俺がそばにいる」
そういいながら、口にくわえたタオルを外し、汗まみれのアキの髪を優しく何度も撫でてくれる。
「安心す・る。。そばにいて、、、、、」
ケガをしていない腕でリョウの腕に触れ、彼に微笑むとアキは意識を手放した。
三度目に目覚めると今度は昼だった。
だった。というのは、レースのカーテンから透けて入る日の光で目が覚めたからだ。カーテン越しの日の光は強くなく、自然に目覚めるには程よい光だ。
「起きたか」
窓際からリョウの声が聞こえた。
声のしたほうを見ると、室内着というラフな上下を着て心配顔のまま私の頬を撫ぜた。剣を握り稽古をしている手は厚みがあり、剣だこが頬で感じられる。
汗と血まみれだった体は、拭かれており、血だらけだった服も着替えていることに気づく。
「リョウ様、頭を撫でて下さるのはお控えください。距離が近すぎます」
「頭を撫でられるのは嫌だったか?俺とアキの仲ではないか」
「っ?!そもそも 私たちはそんな間からではございません」
「ふっ つれないな・・・」
―― いやいや、天下の団長様との距離ではないです。リョウ様、解釈だいぶ可笑しいの理解されています??これが世間で言われるセクハラですかっ?
無理に体を起こそうと体に力を入れると、あちこちから筋肉の悲鳴が上がる。雨に打たれてからの高熱、縫合するほどのケガ、治療を受ける際に気づかぬうちに力が入っていたのだろう。ひどい筋肉痛だが翌日に痛むのは若さの証拠ともいわれているので、少しホッとする。
「動くな。治りが遅くなるぞ、熱と傷で体力が消耗している」
確かに体はきつかった。傷も熱を持ち、じくじくと痛む。その言葉に甘えさせてもらい、横になったまま、疑問とお礼を口にする。
「お気遣い、そして助けて下さりありがとうございました。ご迷惑をおかけし申し訳ございません。だいぶ良くなったので、明日にもお暇できそうです。ここは、、リョウ様のお屋敷ですか?そしてなぜ私はこちらでお世話になっているのでしょうか?」
「……明日出ていくなど、できるわけないと自分でもわかっているだろう。気にすることはない、好きなだけここにいるといい。一昨日、騎士団からの帰り道、どしゃぶりの中、木に寄りかかるように倒れているアキを保護した。ジークには連絡を入れているから、安心していい」
―― 一昨日・・・・あれから3日目なのね。木の下まで歩いたことは覚えてる。。。ジーク様は、お風邪を召してないかしら?食事は食べていらっしゃるかしら?
「問題ない。騎士だからな」
「そうですか、よかった・・・」
―― ん? 私、声に出してた?
リョウはにやりと笑って「顔に出ている」と再びアキの髪を撫でた。
―― リョウ様はスキンシップが多い方なのかしら。。。
アキはテレながら上掛けを鼻まで引き上げた。テレのせいか熱のせいか、頬染まったアキはとてもかわいらしい。リョウは再び触りたいのを我慢し、
「食事にしよう。ほぼ何も食べてないだろう。食後は薬も飲むんだ。今はしっかり静養した方がいい。考えるのは、元気になってからだ」
リョウが部屋を出てしばらくすると、扉がノックされ、ふくよかな女性がトレイを運んできた。
年齢はだいぶ高い気がする。60代くらいだろうか。黄色いエプロンを身に着け、少し白髪が混じった髪は高い位置で一つに束ねられ団子にしている。襟足からおくれ毛が残り女性らしい優しい感じに纏められていた。
「こんにちは。よかったわ、目が覚めて。びしょ濡れでリョウさんがあなたを連れてきたとき、二人でとても慌てたのよ。見せてあげたかったわぁ。リョウさんの慌てた様子。滅多に見られないわよ。ここは、安全だから安心してゆっくり休んでちょうだいね。私はスコーン、よろしくね。お腹減ったでしょう?」
スコーンはサイドテーブルに持ってきたトレイを置いた。トレイのスープ皿からは温かな湯気が立ち上り、隣の皿には柔らかそうな白いパンが二つのっている。アキはゴクリと喉を鳴らした。
初対面の人に腹の音を聞かれ赤面する。
ほぼ3日も何も食べていないに等しい。食事をみるとお腹が減ったことを認識させられた。
「あらあら、ごめんなさい待たせちゃって。一人で食べられる?食べさせてあげましょうか?」
「ダイジョウブ 大丈夫ですっ 一人で食べられます!」
リョウの家で世話になり、食事まで出してもらったうえ、家族のように甘えては申し訳なくて消えてしまいたくなる。
「そう?お代わりもあるからたくさん食べてね。薬も置いておくから、食後に飲んでちょうだいね」
食事とは別に2種類の瓶ものっている。一つは風邪薬だ。解熱効果も高い庶民愛用の薬でこの青い瓶を薬屋で買い求める人は多い。もう一つの白い瓶はケガのための抗生物質だろうか。
ぐぅー
再びお腹がなった。スコーンに体を起こすのを手伝ってもらい起き上がる。背中にクッションをたくさん置いてくれたおかげで、寄りかかることができ、上半身を起している負担が少ない。とてもありがたい。体の向きを変えずに、そのまま食べられるようにとベッドの上にテーブルを設置してくれ、食事を置いてた。アキはスコーンの心遣いに胸が熱くなる。
―― 私もさりげない優しさができる人になろう、そうなりたい
スープはトマト味だった。消化に良いように、煮込まれている野菜もトロトロだ。胃に負担なく食べられる。ここにもスコーンの気遣いが感じられる。見た目と馨しい香りに誘われ、スプーンを手に取った。
「いったっーい」
カシャン!と音を立ててスプーンが皿の上に落ちる。聞き手でカトラリーを握るのはまだ早いようだ。
アキは逆の手に持ち替えてゆっくりとスープを掬って《すく》口にした。
利き手でない分、食べにくいが何とか食べられる。
「美味しい」
芯から温まるとは、こういうことだろう。美味しい食事は、体も心も温め癒してくれる。自分自身に起こった不安な出来事を忘れさせてくれる。
パンは柔らかく、口で嚙みちぎることができた。アキが普段食べているパンは、これよりもずっと固く、口で齧ることができないためナイフでスライスして食べるのが通常だ。このパンのように柔らかいものは、階級が上の人間か、金持ちのみ食べられる、言わば贅沢な種類のパンである。とはいえ、ジークの家に娘であるミランジェの世話役をしていた時は、ジークやミランジェの希望により、共に食事をしていたので、常に柔らかいパンが食卓に出ていた。
侯爵家の副団長ともなれば一般庶民よりも給与が高いことが安易に想像できる。
初めて食べたときの、パンの柔らかさに感動したのを思い出す。
アキは時間をかけてゆっくりと出された食事を終わらせた。まだ食べたりない気持ちもあるが、さすがにおかわりしたいと申し出るのは気が引けた。久々の食事に胃がびっくりするのもよろしくない。
ケガの手当てや静養場所を提供してもらえただけで十分施しを与えられている。
施し・・・だとアキは考えていた。
自分の部下であるジークの娘の世話係に親切にしてくれているだけ。
特別 深い意味はない。
そう、深い意味などないのだ。
上司として、人として、すべきことをしてくれているだけだ。
そう、だから。
髪や頬を撫でる優しい手つきも、心配げに見つめる黒い瞳もすべて、勘違いしてはいけない。
騎士の詰所へミランジェと差し入れを持っていくたびに、笑いかけ言葉を交わしてくれたことの延長戦に他ならないと考えた。
―― リョウ様は、女性すべてに優しい方なのよ。ウン、男としてモテるはずだわ。うっかり私も揺れ動いてしまうとこだった。女のうっかり勘違いはイタすぎる・・・ふむ。これから、どうしよう。
アキは今後の行く末を思案した。出て行ってほしいと言われている以上、ジークのところへ帰ることはできない。初めから、記憶のなくなったミランジェがジークとの家庭に慣れるまで、という約束でついてきている。ミランジェの亡き後、ジークの家に居座る理由はどこにもない。
亡くなったマドレーヌ奥様に似ているアキを見るのは、ジークの精神的にもよくないと理解していた。
とはいえ、一度荷物を取りに戻らなくてはいけなかった。手持ちの荷物は少ないが、それでもあの家の人間に処分させるのも図々しい気がする。
使用人たちはアキに優しかった。家のルールなどわからないことは、丁寧に教えてくれた。新しい環境にすぐに慣れ、生活がしやすくなったのも、使用人たちとの相性が大きい。
もともともと住んでいたぼろ屋へ帰るにも、旅費すら覚束ない。
当面はリョウに甘え、ケガを治すことに専念し体力をつけ、完治後はお礼に暫くここで働かせてもらおう。自分には、ほかに返せるものを持ち合わせていないのだから。
掃除や洗濯などできることはある。役にたつ自信はないが、メイドが増えたほうがより生活が便利だろう。
ジークの家に残してきた荷物は、歩けるようになってから、お礼の菓子折りを持って取りに行こうと決めた。
―― どうしよう。。。おトイレ行きたーい。。。。。歩けるかな。トイレどこにあるんだろう?
昨夜のこともあり、ベッドから足を下すのをためらった。立った途端、また倒れることも容易に想像できる。記憶が呼び起こされ、のたうち回るほどの痛みを想像し、我慢しようかとも思う。
今我慢したところで、いずれ我慢できなくなるのだから、行くなら今。今しかない。
テーブルの上にあるトレイをサイドテーブルに移し、膝上に置かれたテーブルを体の右側に置きなおした。
物語の主役であれば、トイレの描写など出てこない。そんな本にまずお目にかかることがない。その描写を読んだことがある人はかなりの読書家だと思う。プリンスやプリンセスは、食事はしてもトイレにはいかないのだ。ケガや病気をすることがあっても、憧れの存在である彼らはトイレにはいかないし、腹も壊さず、汗もかかない。涙は流すがゲップや飲みすぎて嘔吐するようなくだりなぞない。
それが王道のストーリーだ。
けれど、現実は違う。腹は壊すし、腹も減る、風呂に入らなければ臭くなる。
けれど、人は王道に憧れを抱く。
どんなに人生を頑張って生きても、最後をハッピーエンドで締めくくれる人は多くない。
人生山あり谷ありだと理解しているが、自分の人生を振り返ってみると苦行ばかりが続いていたように思える。
「ふっ やっぱり現実は、こうよね~ 私がプリンセスになれるはずないし!でも~思うのは!自由だっ!!フリーダム!!!」
アキは自虐的にいい、苦笑した。
多くの女性はプリンセスに憧れる時期が一時はあるはずだ。
主役のプリンスやプリンセスになれる人は、一握りの特別な存在。
それでも、もしかしたら・・・私にも。
いつか王子様が。
幸せな結末が。
現実を見ずに、想像してしまうのは一種 現実逃避なのかもしれない。
ひと時の夢を誰が否定できようか。
そして、【幸せ】もまた人それぞれ。
幸せの正解は、ないのかもしれない。
―― 私の幸せって、なんだろう・・・・
「アキさん、食事食べ終わったかしら?」
いうなり、扉が開きスコーンが顔を覗かせた。食器が空になったのを見ると、顔を綻ばせて喜んでいる。完食したことに満足しているようだ。
「お口に合ったかしら?おかわりはどう?」
食事を下げに来たと思ったら、おかわりが必要か聞きに来てくれたようだ。ここでもスコーンの気遣いに頭が下がる。アキはおかわりよりも先に、トイレの場所を尋ねた。
「あ、ごめんなさいね。トイレはこの部屋の右隣よ。バスルームはトイレの隣のドアよ。昨晩、リョウさんがあなたの部屋をトイレの隣に移したのよ~機転がきくわよね。歩ける?」
―― そんな情報はイリマセン。そんなことをされ続けたら、惚れてまうやろっ!なーんてネ。
ケガをしたアキのために、近い部屋に移動させてくれたのだ。血だらけにしてしまった部屋の片づけは誰がしてくれたのだろう。ケガが治ったら一生懸命奉仕させてもらおうと改めて決意した。
「そうなんですね。私のせいで仕事を増やしてしまい申し訳ありません。ご配慮ありがとうございますと、リョウ様にお伝えいただけますか?」
「それは、直接本人にあなたの口から伝えてちょうだい。とても喜ぶわ。リョウさーん、ちょっと」
―― ん?? このくだりは、まさかの本人ご登場??!!・・・・・
「スコーン婦人、大きな声で呼ばずとも小さい家だ。よく聞こえている。トイレだったな」
想像通り、開け放されたままのドアからすぐさまリョウが顔を覗かせた。早すぎるリョウの姿に、扉の横で待機していたことがよくわかる。アキとスコーンの会話も聞いていたのであろう。
リョウもまた、スコーンと同様に食事を食べたか体調が気になって仕方がなかったのだ。
「ふふふ」
―― やさしい
呼ばれてすぐに姿を現したリョウに思わず笑い声がこぼれた。
「何がおかしいんだ?」
「いえ、何もありません」
笑われたリョウは少し拗ねたような感じで、片方の口を釣り上げたままベッドに近づき、そっとアキを抱き上げた。太ももの傷に支障がないよう気を付けて抱き上げられたのがわかる。
「?! リョ・リョウ様。私、歩けますっちょ・ちょっとお待ちくださいっ」
「このまま連れてく」
―― こ、これが噂のお姫様抱っこですかー?!人生では・初めてされました~!祝!初体験!!じゃなくて、腰、大丈夫でしょうか。。
感動しつつもテレてしまうアキをよそに、リョウは扉を抜け目的の場所へ運んでゆく。
お姫様抱っこは、不安定で居心地が悪いと想像していたが、意外や意外。全くそんなことはない。
どっしりと抱きかかえられ、落とされる心配はない。
逆に居心地がよく、もっとしてほしいとさえ感じてしまう。騎士として普段の訓練の賜物かもしれない。
―― 目的場所が場所がトイレって…私のロマンスーーー まぁ、これが現実よね
「リョウ様、何度もごめいわ」
「構わん。謝るな」
ぶっきら棒に言葉を返すリョウの耳がうっすらと紅色に染まっているのを見て、リョウもアキと同じように照れているのがわかった。
とくん。
とくん。とくん。どくん。
心臓の音が先ほどよりも大きくなり、体中に響いている気がする。一気に体に熱が集まり、リョウに触れている個所すべてが火照り、思わずリョウの首筋に頭を埋めた。
びくっ
その瞬間リョウの体が強張るのがわかった。それも一瞬だった。
背中に回していた手をそっとアキの髪へ運び、グッと力を入れて抱きなおした。
「リョウ様申し訳ありません、近づいてしまって」
「い・いや。謝ることではない。逆に俺は、、、」
それを見ていたスコーンは、にんまり口に笑みを浮かべ、「やっと、リョウさんに春が」と内心喜んでいたことは二人は知らない。
トイレの扉を開けると壊れ物を扱うように、そっと床に下ろされた。自分の足で立てるまで体を支えてくれる。ケガをしていない手で壁をおさえ、倒れないことを確認できると「ありがとうございます」
と礼を述べた。
―― リョウ様の顔を見てのお礼はハードルが高すぎるぅ
俯きながら礼を伝える姿にアキの恥じらいが感じられ、リョウ自身も顔を赤く染めた。
「いや、少し経ったら迎えに来る」
なんでもない、という素振りでそっけなく答えると扉を閉めて出て行った。
廊下ではスコーンがにやにやと笑いながらリョウを見ている。
「なんだ、そのふざけた笑いは」
「うまくいくといいですね。春ですね~」
「何をいっているのか、わからんな。それに季節は今、秋だ」
「秋・・・アキ・・・一体、何を思い浮かべたんでしょうね?」
「ぐっっ 無駄口をきくなら給料を減らすぞ」
「照れなくてもいいじゃありませんか」
「スコーン婦人の勘違いだ」
わざとドスドスと足音を立てリョウは階下へ降りて行った。
この小説を選んで読んでくださった皆様、ありがとうございます!
初投稿で拙い点もたくさんあると思いますが、楽しんで頂けますと嬉しいです。
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