第99話 胸糞の悪い幻覚だ
錯誤を目的とした幻覚魔法はオート発動ではなく、すべてクメスフォリカの指示下で行なわれる。
つまりあくまで手動の幻覚魔法であり、転移しているわけでもないためクメスフォリカの認識外、もしくは彼女の反応を上回るスピードで仕掛けることができれば回避される可能性がぐっと下がるというわけだ。
よってクメスフォリカは戦闘向きではなく潜入調査や情報収集、物品の奪取、窃盗、組んだ相手のサポートを得意としていたが――それでも単独で動くことが多い理由はシンプルだ。
魔法に頼らない個人の身体能力と戦闘センスが極めて高いのである。
「オイオイ、内臓やられたら酒が飲めなくなっちまうだろォ!」
長々と走った赤い線から血を垂れ流す脇腹を押さえて離れたクメスフォリカは恨みがましい声と、楽しげな笑顔で言った。
流れた血はショートパンツに染み込んで左側を赤黒く染めたが、痛みが麻痺しているわけでもないというのにクメスフォリカは眉すら寄せていない。
傷は浅くはないが深くもない様子だった。
ヘルは大きな鎖鎌をふわりと消して柚良へと駆け寄る。いつの間にか黒い煙は散っていた。
「申し訳ありません、やりそこねました」
「対人戦で初めて使った結果なら及第点ですよ」
柚良はヘルに微笑むと、その微笑みを保ったままバチンッと炸裂音をさせてクメスフォリカの周囲に電気の檻を作り出す。
雷をそのまま檻の形に加工したような凶悪な姿をしており、近づいただけで髪が逆立つ代物だ。そのぶん魔力消費が激しいことが見て取れる。
「クメスフォリカさん、降参してください。……普段なら長持ちしない檻ですが、私、今はストックしておいた魔力をたんまり持ってきてるので結構イケますよ」
柚良は蒼蓉から贈られた魔力を貯めておけるペンダントを摘まみ上げた。
天才に優秀なサポートアイテムを与えるとどうなるか、のわかりやすい例である。
クメスフォリカは脇腹を押さえたまま肩を揺らして笑った。
「そうだな、一週間は持つだろ」
「ふふふ、おわかり頂けますか。触れても即死はしないけれど気絶したり熱傷を負うくらいには威力を調整してあります。触らないほうが身のため――どえっ!?」
思わず妙な叫び声を上げた柚良の視線の先では、クメスフォリカが忠告も聞かずに電気の柵へと近寄る姿があった。
髪がふわりと持ち上がり、黒い結膜がより鮮明に見える。
その目に恐怖は浮かんでいない。
クメスフォリカは肉や髪の焼ける臭いをさせながら檻の隙間に身体を捻じ込んだ。
すべてを電気で覆うと致死性が上がるため敢えてその形を取らせた魔法であり、柵の隙間を通れば脱出できるように見えるが、成功した者はほとんどいない。
直接触れなくともすり抜けられるほど接近した時点で感電するのである。
そして直接触れずにすり抜けるといっても、それは小柄な人間に限ったこと。
クメスフォリカは180に手が届く高身長で、すらりとしているものの小柄とは決して言えない。必ず体のどこかが触れる。
それでも檻の隙間から抜け出たクメスフォリカは、体から白煙を立ち昇らせながら突如両腕を上げたかと思えば勢いよく振り下ろした。
同時に強い風が巻き起こったが、不思議なことに風は障害物にぶつかることなく建物の外まで吹き抜ける。
ヘルは目を瞬かせて目の前に現れたものを見た。
「これは一体、どういう……」
記憶の中の姿そのままの母親がこちらに向かって手を振っている。
その表情は穏やかだったが、背後から近寄る男に気がついていない様子だった。
クメスフォリカによく似た面差しの黒い結膜を持つ男だ。
男は手に持った大型のナイフを母親に突き立てようとしている。
ヘルは思わず叫び声を上げそうになったが、これはきっとクメスフォリカの幻覚だと思い至った。
理解したところで解き方などわからない。
しかし、これに乗じてクメスフォリカがなにかをしようとしていることくらいはわかる。
「……っ! 悪趣味な……」
ヘルが即座に自身の周りに炎の壁を作り出した時、その向こう側から母親の苦しげな叫び声がした。合間にヘルを呼んで助けを求める声はどうしても胸を抉る。
それでもヘルは耳を塞ぐことなく身を守り続けた。
しばらくしてどこからともなく舌打ちが聞こえ、周囲の空気が変わった。
――否、戻ったのだと理解したヘルは炎の壁を解く。
「……! 柚良さま、蒼蓉さま!」
気がつけば柚良は床に倒れ、蒼蓉は片膝をついていた。
しかし傷を負わされたわけではない。
ヘルが視線を走らせるとクメスフォリカの姿も消えていた。
前回は契約の結果だったが、今回は完全に逃げられてしまったらしい。
あの幻覚も取っておいた魔力を逃げるためにすべて使った結果であり、だからこそ誰の息の根も止めずに去ったのだろう。
ただひとつ優先するとすればヘルの誘拐だ。
しかし、それはすぐに幻覚だと見破って展開した炎の壁により阻止された。
だからこその舌打ちだったのだ。
「ッ……胸糞の悪い幻覚だ。夢見が悪くなりそうだよ」
「蒼蓉さま、大丈夫ですか? やっぱりみんな幻覚を見せられたんですね」
「ああ、柚良さんが……いや、幻覚は悪夢みたいなものだ、気にしないでおこう」
幻覚の内容を口にしかけた蒼蓉はゆっくりと立ち上がると服の汚れを叩きながら周囲を見る。
イェルハルドまで倒れており、反応の無さからホテル周辺に待機させていた影たちもまともに動けなくなっているようだった。
訓練された者でさえ意識の消失を伴うほどの幻覚だったが、威力にムラがあったのはクメスフォリカに細やかなコントロールをする余裕がなかったからだろう。
一番の狙いだったヘルに強くかからなかったのは皮肉な話である。
「完全に逃げることを優先したか。しかし……まさかここまでの威力とはね」
「それに柚良さまの檻を抜けてくるとは思いませんでした」
力技だけで押し通ったわけではないようだが、ヘルにはその原理がわからない。
(柚良さまならきっと一目見て予想を立てているはず、……?)
はっとしたヘルは柚良を見る。まだ目覚めていない。
その頃には蒼蓉もそちらへ足を向けており、柚良を抱き起すと眉根を寄せた。
「柚良さんならすぐに看破してくると思っていたんだが……まさか、まだ幻覚だと気づいていないのか?」
「だ、大丈夫でしょうか」
「……幻覚の内容によるが……」
魔法が絡んだ案件なら柚良は心配いらない。
そう考えていたのは蒼蓉もヘルも同じだった。しかし現状は一番酷い状態である。
その時、イェルハルドが目を覚ましたのか声の伴わない叫びを上げて飛び起きた。
周囲を二度ほど見回してから状況を把握したのか、恥じ入った顔をしながら蒼蓉のもとへと駆け寄る。
そして震えの残る手でメモ帳に字を書きつけた。
『申し訳ありませんでした。万化亭へ戻りますか?』
「ああ、追うにしたって影があの状態じゃあね。……柚良さんもいつ目覚めるかわからないから、ここは見逃そう。ただし」
蒼蓉は先ほどまでクメスフォリカのいた場所を睨みつける。
そこには赤い血痕が未だに生々しく残っていたが、途中からそれすらも消え去っていた。
だというのに、蒼蓉はまだ先に続いているかのように視線をスライドさせていく。
「――次は逃がさない」
隠しきれない怒気を孕んだ声で言い、蒼蓉は柚良を横抱きにすると立ち上がった。
蒼蓉くんって力持ちですね、と。
普段なら飛んでくるであろう明るい声は、まったく聞こえなかった。




