第97話 ヘルパーニュの血
ヘルの炎の鎖鎌は内側に渦巻く風を孕んでおり、任意の方向へ風を吹き出すことで瞬間的に加速した。
熱気がふたりの黒髪を舞い上げ、炎の刃が恐ろしい速さでクメスフォリカに迫る。
しかし彼女の腕があった場所にはすでになにもなく、いつの間にか離れたクメスフォリカがバックステップを踏んだところだった。
そこへ伸びたのはヘルの炎を突き破る形で現れた柚良の蔓である。
それもバリア魔法を纏わせた蔓だ。
魔導師本人ではないため利きが甘く長時間は持たないが、それでも他者の炎で少しも焦げていない。
柚良だからこそできる強引な連携技だった。
「なンだァ? アタシを焼き殺したら若旦那が死ぬだろ、いいのか?」
「蒼蓉くんは死にませんよ」
柚良の声も目も自信に満ち溢れている。
訝しげに眉根を寄せたクメスフォリカだったが、すぐに笑みを浮かべると背後から大量のカラスを呼び出した。幻覚なのか本物なのか一瞬では――否、時間をかけて凝視しようがわからない代物だ。
カラスは四方に舞い飛び、柚良たちの視界を汚染していく。
時折死角から飛び出し、肌を掠った嘴にはたしかに質量があった。
幻だろうが本物だろうが、クメスフォリカがそこに『いる』と定めている時点でそれは揺るぎない事実として他者の脳に刻まれるのだ。
「酷ェ奴らだ、アタシは家族と暮らしたいだけなのによ!」
「家族は相手を殺そうとはしません!」
「あァ、……なーんだ、バレてんのか。けど甘ちゃんだなァ、家族だからって殺意を向けないなんて夢物語だろ」
嘲笑するように笑いながらクメスフォリカはカラスの群れに飛び込んで消える。
クメスフォリカが逃げることはない。彼女の目的はヘルを殺すことである。
そう判断した柚良は蔓で網を作ると巨大な虫取り網のように振り回した。
いくら見えなくなってもクメスフォリカがこの場所にいることに変わりはない。
幻覚で無いものをあることにするのと、あるものを無いことにするのとでは勝手が違うのだ。
網に引っ掛かったクメスフォリカが姿を現わし、足を止めたのは二秒ほど。
ドスに似た刃物で蔓を切り裂いたクメスフォリカは隙間からするりと抜け出した。
しかし柚良はクメスフォリカが完全に離れる前に蔓に沿って氷を追わせる。
その一部が靴に食いつき、あっという間に凍てつかせた。
つんのめったクメスフォリカは凍傷を負う前に靴を脱いで転がり出たが――次に襲い掛かったのは凍らせたことで重量が増し、硬くなった『蔓だったもの』だった。
「ははは! 聞いた通りのバケモンめ!」
「もう、みんなそう言いますけど失礼ですね!」
柚良は凍った蔓を切り離して投擲し、クメスフォリカが防御に回っている間に右手から圧縮した水の矢を放った。
凡そ水とは思えない勢いで飛んだそれはクメスフォリカの肩を射抜いた――が、そんなクメスフォリカの姿が一瞬で掻き消える。
気づけばその姿はヘルの真横にあった。
クメスフォリカの長い足による鋭い蹴りが飛び、ヘルの体が宙を舞う。
しかし咄嗟にバリア魔法を展開していたヘルは床に転がってもすぐに立ち上がり、柚良のほうへと退いた。
「思ったより訓練されてるな、そいつに教えてもらったのか? 殺すのが惜しいくらいだが、ウチの面汚しはアタシの手で消さねぇとなァ」
「あなたがヘルさんを殺そうとしてるのは一体……」
「ヘルパーニュは由緒正しい殺し屋一族なんだよ」
力に溺れず仕事を全うして血を繋げ。
それがヘルパーニュの家訓だとクメスフォリカは言う。
「なのに兄貴は私欲のためにしか力を使わないし、なによりクズだった。まァそれはアタシも似たようなモンだけどな、ただ一族に泥を塗るようなことは許さねぇ」
「……自由奔放な人だと思ってましたけど、意外と縛られた人なんですね」
「矜持があるって言え、矜持があるって。で、暗渠街に来て目的を遂げたンだよ、けどなァ……新たな目的ができちまった」
クメスフォリカは目を細め、見下すようにヘルを見た。
もう殺意を隠そうともしていない。
「本人も気づいてないみてぇだったが、兄貴はここでガキをこさえてやがった。ヘルパーニュの血をなァ、そんな簡単に撒かれちゃ困るんだよ」
「だからヘルさんを殺そうと……?」
「そうだ。単純でわかりやすいだろ。ただ、こういう面汚しや裏切者を始末するのにも手順ってのがあってな」
その手順は決められた拷問を繰り返し、代々伝えられてきた文言――縁切りや厄払いの意図が込められた言葉を発しながら首を切り落とすという儀式めいたものだとクメスフォリカは説明した。
柚良は様々な文化に触れてきたが、その中でもとびきり物騒ですねと眉を顰める。
この手順を踏むのに時間がかかるため、ヘルを一度引き取るという形で手元に置きたかったのだという。
「外の世界は好きだ、色んな酒があるからな。でもアタシは腐ってもヘルパーニュ、一族を保つためにも決まり事は守る。それにそろそろ故郷の酒が恋しいんだ、早く死んで帰らせてくれ」
クメスフォリカはそう眉をハの字にすると走り出した。
この場では先ほど述べていた手順は踏めない。
ということはヘルを生け捕りにして逃げるつもりなのだろう。柚良はヘルの周りに水の壁を作り出したが、しかしクメスフォリカが接近したのは蒼蓉だった。
ぎょっとした柚良だったが、自分の真後ろに気配を感じて前へと飛び退く。
見れば柚良の後ろにもドスを手に提げたクメスフォリカがいた。
幻覚である。だが物理的に干渉できる以上、それは実体と違わない。
蒼蓉に走り寄ったクメスフォリカはドスを一閃したが、イェルハルドの小刀によって甲高い音と共に防がれた。
「万化亭の若旦那! ホントはクメスレツカを連れてきてなんかないんだろ? アイツはアタシが殺したからなァ!」
「さっき察せるようなことを言っていたね」
「契約不履行確定だ。そんでもってもう決裂までしてる。なのになんで首が繋がってるんだ?」
万化亭の契約っていうのはその程度なのか、とクメスフォリカは嘲るように言う。
面白げに自分の首をさすった蒼蓉は片腕をそっと伸ばした。
「――契約は最後の約束の品……ヘルをお前に渡した時点で遂げられた」
「最後の?」
「ほら、クメスレツカならそこにいるじゃないか」
そう言って黒い爪で指したのは、クメスフォリカの真後ろだった。




