第95話 三日後、パグナーメンツ・ホテルにて。
蒼蓉がクメスフォリカと落ち合う場所として指定したパグナーメンツ・ホテルは万化亭が仕切っている两百龍の中にある廃ホテルである。
その昔、万化亭の傘下で手広いオーナー業を行なっていたパグナーメンツという男が建てたものだが、その才能は一代のみであり二代目に世代交代してから一気に落ちぶれた。
その結果に数多と誕生した廃墟のひとつだ。
万化亭としてはパグナーメンツが世代交代する少し前から次世代の様子を調べて見切りをつけていたため、さほどダメージはなかった。
しかし廃墟に碌でもない人間が引き寄せられがちなのは表の世界も裏の世界も同じである。
そんな人間がたむろしないように管理をするのも、取り壊して新たな建物として利用するのも相当な手間だった。
なにせ手広くやっていたからこそ一件や二件の数ではないのだから。
これは蒼蓉の代に引き継がれた負の遺産のひとつだった。
しかし蒼蓉はこれをまったくの利用価値がないものとは思っていない。
そう、今日のように危険な取引の場として遠慮なく使用することができるのだ。
「よォ、三日ぶりだな。もう少し遅かったら酒を飲み始めるとこだったぞ」
「少し早めに来るってマナーは理解していたようだね」
クメスフォリカはがらんとした廃ビルの中央に引っ張ってきたソファで寛いでいた。それ以外の使用していない家具の類は別室に固めてあるため、入ってすぐのホールには柱しか見当たらない。
周囲の窓は黄ばんで汚れており、射し込む光も淀んでいる。
そんな空間の真ん中で寛ぐ姿は異様だ。
周囲に人の気配はなく、ひとりでここへ来たことがうかがえる。
例えば蒼蓉の影たちのように気配を消すことに長けた人間、劉乾のように気配を消す魔法を持った人間が潜んでいる可能性はあるが――ここは蒼蓉のテリトリー且つ、準備期間はたっぷりとあった。調べはついている。
いつもの服に黒いコートを羽織った蒼蓉は片手で後方に合図をした。
トコトコと歩いてきたのは黄色いチャイナドレスに身を包んだヘルである。
それはおめかしなどという可愛いものではなく、交渉材料として整えられた身なりだった。
髪飾りや首飾りに使われている宝石は魔石ではないものの高級なもので、リボンの布も大変手間のかかる方法で織られたものだ。
細かな刺繍の施された靴もこの日のために作られたものだとわかる。
蒼蓉はそれを手のひらで示した。
「金は別途渡すが、これも我々の誠意の一部だ。売れば十年ほど働かずに暮らせるよ、まぁ君のような酒の飲み方をすればもっと短くなるが」
「はっはは! 四年で溶かすな」
「そしてこっちが情報料。これに見合ったものは持ってきたかい?」
蒼蓉がそう言うと同時にイェルハルドが重そうなケースを持って現れた。
中身を示すようにクメスフォリカに向かって蓋を開ける。
中に入っていたのは紙幣で、帝国で流通しているものではないことが柄、サイズ、色ですぐにわかった。クメスフォリカは目を眇める。
「ウチの故郷の紙幣か、とんでもねぇ威嚇だな」
「そう、そこまで調べがついてるぞっていう意思表示になるのだけれど……残念、契約者にそこまで無礼を働くわけにはいかないから種明かしをしよう。これはクメスレツカが持っていた紙幣をヒントに集めたものだよ」
クメスフォリカの兄、クメスレツカ。
彼が持っていたものをヒントにしたということは、契約内容のひとつである『クメスレツカを探し出す』を守ったことになる。
クメスフォリカは「これもまた随分と遠回しだな!」と大笑いすると蒼蓉の足元に紙束を放り投げた。
「調べたこと、忘れる前に全部そこに書いといてやったぜ。ったく、ペン相手にこんなに手ェ酷使したのは初めてだ」
「なるほど、検めさせてもらおう」
「なあ、まさか全部確認してからじゃねぇと契約を進めないとか言わないよな?」
「すべてを裏取りするのに数日かかるからね、この場では要点だけだよ」
すでに万化亭が得ている情報、もしくは答えの候補を絞っている段階の情報からヘルを渡すだけの価値があるものをこの場で検め、信憑性が高ければ合格だ、と蒼蓉は笑う。
ただし万化亭がどこまで把握しているかクメスフォリカに明かす義理はないため、蒼蓉はどの情報を検めるかは口にしなかった。
イェルハルドが紙を拾って危険の有無を確かめた後、手渡されたそれを蒼蓉はパラパラと捲った。
悪筆だが様々なことが書かれている。
隠世堂の隠れ家の正確な位置はクメスフォリカにもわからないようだった。しかしそこへ入る手順が詳しく記されている。儀式めいており想像以上に複雑だ。
組織の規模もクメスフォリカが把握している人数が記され、協力者や後ろ盾としている他の組織には見知ったものがいくつもある。
「……構成員名簿がないな」
「そっちは保険。先に全部渡したら何するかわからないだろ」
「はは、こちらには契約の枷があるのに?」
「その枷が嵌ってンのはお前だけだろ、若旦那」
もし契約を反故にして蒼蓉の首が飛んだとしても、柚良やイェルハルド、そして護衛として潜んでいる影たちに一斉に襲い掛かられてはクメスフォリカでも苦戦する。
幻覚魔法は多人数相手に効果を発揮するものだが、例えば柚良が広範囲で高威力な魔法を放てばクメスフォリカも巻き込まれて負傷する可能性が高い。
位置を誤認させたところで相手のカバー範囲が広ければ意味を成さないのだ。
もちろん、普通はこんな場所でそんなものを放つことはない。
しかし蒼蓉の死はトリガーになるかもしれないものだ。
万化亭の契約は蒼蓉にとって不利に見えて、クメスフォリカにとっても枷だった。
「まあ……仕方がないな。協力組織の名簿からある程度は絞れるから良しとするか」
「どの組織もそんなにセキュリティガバガバじゃないっつーのに、万化亭は怖いな」
名簿だけでそこまで辿り着く情報網が恐ろしい。
そう肩を竦めるクメスフォリカの前にイェルハルドがケースを滑らせる。
クメスフォリカは遠慮なくそれを足で開き、紙幣を見下ろすと踏みつけるように閉じてから「貰っとく」と呟いた。
足元から上げられた視線がヘルを捉える。
ヘルは緊張した様子だったが、幼い顔に恐怖は浮かんでいない。
そんな彼女をクメスフォリカは人差し指で呼び寄せた。
「次はそいつだ。で、こっちから構成員名簿を渡して最後にクメスレツカをこっちへ寄越してもらう」
「いいだろう」
「わざと隠してるんだろうが、渡す段階になったら素直に引っ張り出せよ?」
クメスレツカの姿は廃ビル内にはない。
目に見える位置にいるのは蒼蓉、柚良、ヘル、イェルハルド、そしてクメスフォリカだけである。
ギリギリまで見せず、しかし紙幣で匂わせているということは蒼蓉が『交渉を終える前にクメスフォリカがヘルとクメスレツカを掻っ攫って逃げる』ことを警戒しているからだろう、とクメスフォリカは踏んでいた。
蒼蓉はいつもの笑みで「もちろんだとも」と答えるとヘルの背をぽんと押す。
ヘルは深呼吸し、一歩踏み出したが――わずかに体が震えた。
その肩に後ろから柚良が手を置く。
「ヘルさん、大丈夫です。私が見守ってますよ」
「……はい、ありがとうございます柚良さま」
柚良の顔を見上げたヘルは小さく頷き、再びクメスフォリカの方へと向き直ると、今度はしっかりとした足取りで歩を進めていった。




