第60話 ボクは君に甘えているんだ
使用人の朝は早い。
外がまだ暗い内から起床したソルは手早く顔を洗い、眼鏡をかけると鏡の前でにっこりと笑った。
笑顔の練習である。柚良の計らいで視力の悪さは眼鏡でフォローできるようになったものの、一度癖の付いた目付きはなかなか戻らなかった。
しかし万化亭は客商売だ。
ならばせめて営業スマイルの練習をしようと始めたことだったが、アガフォンには不気味がられている。
ソルの寝癖は固い髪質のためか手で撫で付けるだけで綺麗に直るが、反対にじつに頑固なのがヘルの髪だった。
普段は人形のように可愛らしい髪型をしているが、寝起きはヤマアラシである。
寝相が悪いわけでもなく、更にはきちんと寝る前に乾かしてもなぜか朝にはこうなっているため、ソルは「こいつの前世はヤマアラシだ」と自分を納得させていた。
そんな寝癖を直すのはソルの役目になっている。
――ヘルと名前が似た際、柚良に兄妹みたいなものと言われたからだろうか。
あれから度々気にかけているうちにすっかり世話焼きになっていた。
「……俺とお前って同じ奴隷商出身だろ」
「? はい」
「でもお互いなにが得手不得手かまでは把握してなかったし、……完璧な高級奴隷だと思ってたお前にこんなヤバい面があるってことも知らなかった」
ヘルは特に不愉快な表情はしなかった。
この髪質はヤバいと本人にも自覚があるが故だ。
ソルはしみじみとしながら言う。
「こんな短所もある奴隷なのに拾ってくれた姐さんには感謝しねぇとな」
碌でもない主人に買われていたらどうなっていただろう、とソルは万化亭に来てから何度も考えていた。きっと今より良い環境ではなかっただろう。
ベルゴの里は客を選ぶが、その基準の大半を占めるのは『金を持っているかいないか』だ。
そして暗渠街には金を持ったクズが山ほどいる。
そう言うとヘルも納得したように頷いた。
「感謝は毎日してます、……今日も感謝しながら働きましょう」
「ああ、もちろんだ」
バングルに刻まれた万化亭の家紋と己の新しい名前を一瞥し、ソルはブラシを机に置く。
アガフォンは一足先に部屋を出て授業の助手として必要な準備をしていた。
朝食には間に合うよう行動しているため、この後に合流することになるだろう。
ソルは自分の身嗜みも整えるとヘルと共に部屋を出た。
使用人の寝泊まりする建物は母屋の離れにあり、渡り廊下で繋がっている。
食堂も蒼蓉たちが使うものとは別に用意されていた。
以前はわざわざ自分で食事を離れまで運んでいたそうだが「移動時間がロスだ」と蒼蓉が実権を握ってから変更したらしい。
(姐さんもスゲーが若旦那も万事に対して手練れだよなぁ……怖いけど……)
蒼蓉はソルより年下だが、うんと長生きした老獪な狐に見えることがある。
恐ろしいが同時に憧れでもあった。暗渠街でこのような地位にいるのは相応の理由があるものだ。
その上でソルは蒼蓉を見て納得している。この人ならそうだよな、と。
そんなことを考えながら進んでいると、母屋の高い位置から突然声をかけられた。
「あっ、ソルさんとヘルさん! おはようございます〜!」
「へ!? 姐さん!?」
声は柚良のものだ。
しかし彼女の部屋はもう少し離れた位置だったような、とソルは顔を上げ――呼吸ごと固まる。
随分と寝巻きのはだけた柚良が蒼蓉の部屋の窓から手を振っていた。
あまりにも無防備すぎる姿にソルは「隠してください!」と言いたかったが喉が張り付いて声が出なかった。
代わりにヘルが口を開く。
「柚良様、おはようございます。そして……お召し物がはだけています。確認をお願いします」
「あ! すみません、直す前に見つけてついつい」
お目汚し申し訳ないと柚良はいそいそと襟を整えた。
思わずソルはお目汚しなんてとんでもない! と熱く語ろうとしたが、柚良の真後ろに人影が見えてすんでのところで言葉を飲み込む。
それは柚良に負けず通らず寝乱れた蒼蓉だった。
ソルの目が確かなら異様な色気がある。
蒼蓉は緑色の瞳を瞼で半分ほど覆うとソルたちを見下ろして言った。
「仕事があるんだろう、早く行くといい」
「は……はい! 失礼しました! あと、その」
「なんだい?」
「遅くなりましたが、おはようございます!」
凄まじい勢いで頭を下げたソルはヘルを連れて歩き出す。
なんだかとんでもないものを見てしまった気分だ。
(そうだよなー、そうだよなぁー……婚約者なら『そういうこと』もあるか……しかし思ってたより大人だなぁ……)
朝からあの様子で同じ部屋にいたのだ、そういうことだろう、とソルは柚良たちの姿を頭の中で反芻しそうになって慌てて打ち消す。
ソルも似たような経験がないわけではないが、あまり良い思い出ではない。
同じ部屋で目覚めた後も仲睦まじく過ごすのはいったいどんな気分なのだろうか。
その隣でヘルが呟いた。
「主人たちが仲良しだと嬉しいです」
「ああ、うん、仲良しだな」
別の意味でも憧れになったかもしれない。
そう再認識しながらふたりは使用人用の食堂へと入っていった。
***
窓を閉め、大あくびをしながら伸びをする柚良を蒼蓉は頬杖をつきながら眺める。
ソルの想像したような出来事はなく、ただふたりで寝て起きただけだ。
寝乱れたのはそれはもう盛大で壮大な柚良の寝相によるものである。
微動だにせず柚良を見ていた蒼蓉は朝の気怠さによるものだけではない緩慢な口調で言った。
「……糀寺さん。ボクとしては眼福なんだが、あまり他の人に軽々と見せてほしくないなァ」
「え? あ、寝起き姿ですか?」
「正確には寝乱れた姿だが、まあその認識でいい」
柚良はぽりぽりと頬を掻いてから笑う。
「ソルさんたちはホラ、私たちの家族みたいなものじゃないですか」
「使用人を家族と呼ぶのは感心しないな……」
「まあ同じ敷地内で暮らしてれば見られる機会もありますよ。で、見られたくないからと気を遣っていたら――」
いたら? と蒼蓉が聞き返すと柚良は人差し指をぴっと立てる。
「私が借りてきた猫みたいになります!」
「なったことあったか?」
珍しく半眼になった蒼蓉は手櫛で髪を整えると「仕方ないな」と畳んで置いてあった着替えを手に取った。
「君には実家と同じくらい寛いでほしいからね。実に嫌だが我慢しようじゃないか」
というか、それをわかってて借りてきた猫発言をしたね? とどこか不満げに言う蒼蓉に柚良は「バレましたか」と八重歯を覗かせて再び笑う。
「大丈夫ですよ、普段はこんな姿見せるのは璃花さんや侍女さんくらいですから」
「……アルノスにも見せちゃいけないよ」
「なんでそこでアルノスさんが出てくるんですか!?」
蒼蓉はそこでアルノスの脈無しっぷりを再確認すると、僅かに機嫌を直したのかいつも通りの表情に戻って着替えに袖を通した。
首を傾げていた柚良だったが、自分もそれに倣おうとしてハッと気づく。
そうだ、着替えがない。
とりあえず自分の部屋まで戻ろう、と部屋から出ようとしたところで後ろから蒼蓉に抱き寄せられた。
「他の人に見せるな、と言ったそばからなんてことしようとしてるんだ。着替えなら璃花に持って来させるよ」
「そこまでしてもらうわけには……というか蒼蓉くん」
柚良は振り返るとじっと蒼蓉を見る。
「今朝はやけに、なんというか……隙が多いですね?」
「そうかな」
「ですです」
普段から柚良に対してはガードが甘いが、今日は一部の普段は伏せがちな感情が顔に出やすい上、声音も自然に感じられるのだ。
そう柚良は説明しながら自分で納得する。
「いつもより緊張感がないんですね、これ」
「……」
「まぁ最近忙しいせいか四六時中ずうっと張り詰めてましたし、良い傾向だと思いますよ! ん? でもなんで急に……」
「……君と寝て気が緩んだんだろう」
蒼蓉は声を潜めて言った。
実際には共に寝た際に『自分の欲しかったものが手の内にある』と再認識し、普段から逃さないよう上手く立ち回るために気を張っていたのが緩んだ、とそんな理由だった。蒼蓉本人も指摘されてようやく自覚したものだ。
それは好きな子に良く見られようと常に頑張っていた様子を見られたような気恥しさがあり、蒼蓉は嘘は言わなかったものの真実も言わなかった。
そんなこととは露知らず、柚良は納得しつつ「そうだ!」と手を叩く。
「ホテルの時も思いましたけど、私も存外寝心地が悪くなかったんですよ」
「へえ」
「誰かと一緒に寝ることがあまりなかったからかもですね。で、最近の蒼蓉くんの多忙っぷりは私にも思うところがわんさかありました。ので――」
柚良は腕を伸ばすと蒼蓉の頭をぽんぽんと撫でた。
「たまにこうして一緒に寝ましょうか」
「……いいのかい?」
「ええ、私としても気持ちの確認にはなりませんでしたけど、安心できるのは確かなのでメリットはあるかなって」
自分の気持ちは未だに定かではないが、支え合えるのは歓迎だと柚良は微笑む。
蒼蓉はしばし目を瞬かせた後、柚良の肩に額をくっつけながら呟いた。
「君がいいなら是非」
「いいですとも! ……んー……隙が多いのもありますけど、蒼蓉くん、今朝は甘えん坊でもありますね?」
また恥ずかしくなるようなことを平然と言うな、と蒼蓉は内心で思いつつも気づかれないように小さく笑う。
「まァ――そうだね。ボクは君に甘えているんだ」
そして、今度は真実を隠さず正直に白状した。




