第54話 キスしていいかい
「なるほど、イザヴェル地区の『九つの会』のボス……レイラー・エリヴァイの死亡情報か。たしかにウチにはまだ入ってない情報だね」
柚良が万化亭へ帰宅した後、焦榕に託されたメモ書きに目を通した蒼蓉は頬杖をつくと目を細め、数秒経ったところで璃花を呼び寄せると「裏取りを三時間以内に」と指示をした。
柚良は蒼蓉を覗き込む。
「凄く嫌そうな顔ですけど、やっぱり嘘かもしれないんです?」
「いや、十中八九当たってるだろうさ。そしてあいつが直接仕入れた情報なのに犯人についての情報が書いていないってことは、元からマークしてた連中ではなく――厄介な新興組織か個人の可能性がある。レイラーはかなりの手練れだったからボクの予想では前者かな」
心当たりがあるのか蒼蓉はそう呟いた後「でも顔に出るほど不快なのはそのせいじゃないよ」と柚良の問いを否定した。
「舌の根の乾かぬうちに糀寺さんに接近したからさ。璃花や他の側近も外にやる機会があるっていうのにわざわざ君を選んだ根性が神経を逆撫でする」
「わー……ほんと嫌いなんですね〜……」
「それにね、ボクは心配なんだ」
心配? と首を傾げた柚良だったが、直後に笑みを浮かべて「あの程度の結界なら任意のタイミングで破れますよ!」と胸を張る。
しかしそれは見当違いだった。
蒼蓉はそっとイスから離れると眉根を上げて柚良の頬を撫でる。
「君は太陽だからさ、ここの連中には随分眩しく感じるんだよ」
「えっ……なんか素敵なものに喩えてもらえてる……?」
「それ故に眩しいものに焦がれることもある。あまりボクに心配かけないでくれ」
「心配、心配ですか……うーん……」
口をへの字にした柚良は蒼蓉を見上げた。
蒼蓉は自分自身にかかる負担に鈍いところがある。
なんでもそつなく出来る上にリスク管理も完璧、ミスをすることはない。そして過負荷だらけな日々に慣れている――と、本人が自負しているからこそだろう。
たしかに今は上手くバランスが取れているが、いつかガタが来るかもしれない。
(蒼蓉くんにその辺りをもっと自覚してほしいんだけど……)
そういえば蒼蓉くんも私に対して似た悩みを持ってたっぽいな、と柚良は思い当たり、なら先人に倣ってみようという思考に辿り着く。
柚良は蒼蓉と同じように手を伸ばすと、彼の頬に手の平をやって軽く撫でた。
「蒼蓉くん、それを言うなら私も結構心配してるんですからね」
「……おや、そういえば前にもそんな言葉をかけてくれたな。君に心配されるなんて嬉しいよ」
「嬉しいならもっと体に気をつけてくださいよ。オーバーワークすぎですし、もし倒れちゃったらどうするんですか」
蒼蓉は柚良の頬から手を離し、代わりに己の頬に添えられた彼女の手に自分の手を重ねて笑みを浮かべる。
「糀寺さんはボクが死んだら悲しんでくれるわけか」
「? 悲しいし寂しいですよ」
「本当に?」
「親しい人の死は呪いにもなりますからね、一生魂に刻まれる呪いです。――が!」
柚良は張りのある声で言うと口角を上げた。
「蒼蓉くん、なんかそういうの好きそうなので! もし死んだら蘇生魔法から降霊魔法まで片っ端から試して無理やり連れ帰りますので宜しくお願いします!」
「全部禁忌じゃないか」
「ここ、暗渠街ですよ?」
そう真顔で言った柚良を見て、蒼蓉は肩から力を抜くと横隔膜を痙攣させたような乾いた笑い方をした。よほど面白かったらしい。
「君がそれを言うようになるなんてなぁ」
「ふふふ、蒼蓉くんに染められましたので。……まぁ、でも」
柚良は頬から手を離すと変わりに「少し屈んでください」と指示してから蒼蓉の頭をぽふぽふと撫でた。
「蒼蓉くん、私のこと未亡人にはしないでしょ」
「……」
「あ、婚約者だと未亡人ってことにはならないか……じゃあ未亡人(仮)! そんな扱いに困るものにはしませんよね?」
信じきった笑顔を向け、柚良は赤紫色の瞳に蒼蓉を映して言う。
「ただ、早死にはしないことをオススメしますよ。蒼蓉くんだって私と長く一緒にいたいでしょう?」
「まあ……そうだね、その通りだ」
蒼蓉は眉間を軽く押さえると小さく言った。
柚良は頭から手を離し、屈んだままの蒼蓉に「ただ」と言葉を重ねる。
「私も心配してるんだぞって伝えたくて口にしましたけど、お互いに無理しなきゃ難しいこともありますよね。ここはそういう場所ですし」
柚良に蒼蓉の心配を取り除ききることは不可能だろう。
今回も結界は破れたが実際に使用するのを止めることはできなかった。
そして、同じように蒼蓉も柚良の心配を取り除ききることはできない。万化亭の若旦那という立場を保持するには必要なことなのだから。
「お互いに心配かけあって、心配しあって、そんな感じが続いてくと思うんです。今回は心配かけてごめんなさい、けれど私も蒼蓉くんが心配なことを忘れないでくださいね」
「……糀寺さん」
「はい?」
「キスしていいかい」
「なにを唐突にどストレートなこと訊いてるんですか!?」
せっかく正直に想いを伝えたのに! と柚良は憤慨したが、蒼蓉は引き下がらなかった。
「いやァ、正直言って今まで君と普通の恋愛をしてみたかったから無理やりには手を出さなかったが、婚約者なんだ。これくらい良いだろう?」
「私、まだ自分の気持ちについて理解しきってませんが!?」
「それはどの段階まで進んでるんだい」
「……第二相臨床試験くらいですかね」
結構いってるじゃないかと蒼蓉は意外そうにしながら柚良に半歩近づく。
いつもの香木の香りが強くなった。
「人に純粋に心配されることがあまりなくてね、君の言葉を随分と気に入ってしまった。そのおかげで底なしに感じられるほど君が愛しいから触れ合いたいわけだ」
衣擦れの音をさせて柚良の両肩に手を置いた蒼蓉は心底楽しげに笑った。
照明で逆光になっているせいか仄暗く見えるが、瞳の緑色だけは鮮明にわかる。
柚良は難題に直面したような顔をしながら唸り、その様子を見た蒼蓉は「なるほど」と呟く。
「そんなに抵抗感があるのか。それなら手首くらいなら許してくれないか?」
「なんでそこなんです!? う、うーん……けど手首くらいなら、でも……」
「恥ずかしいならよく考えてごらんよ、今のボクは学生服じゃァない。あの時ほどのインパクトはないさ」
学生服の蒼蓉に抱き締められた柚良は、その時に初めて自分がクラスメイトから想いを寄せられていると自覚した。
遅すぎる自覚だったが、そのきっかけが学生姿であったことを考えるなら、今の蒼蓉は万化亭で普段着にしている和風と中華風の混ざった服装をしているためクラスメイトのイメージからは程遠い。
加えて爪は艶やかな黒、大きな耳飾りは目を引き、伽羅の香りを纏っているのだ。
優等生の『蒼蓉』からは百八十度異なっていた。
「このまま待っても蒼蓉くんは引き下がらない気がしてきました」
「その通り、引き下がらないとも」
「わかりましたよ、けど手首ですからね?」
右手を差し出した柚良に蒼蓉は「迷いなく利き手を出してくれたことも嬉しく思うよ」と言う。心の機微を言葉にする頻度が増えたのは柚良にはそのほうが伝わると学んだ賜物である。
蒼蓉は柚良の気が変わる前に、と手の平側の手首に口づける。
唇から伝わる柚良の鼓動を感じ取り、蒼蓉はしばしの間だけ瞼を下ろした。
恋焦がれていた相手が自分のもとへ堕ちてきてくれた。
それも生きたまま。今もこうして生きている。鼓動は生の証だった。
生きていて困る知り合いが多い中、こうして生きているだけで心躍る相手はなかなかいない。
得難い宝物だ。
その宝物は、蒼蓉にとっては夜明けをもたらす太陽だった。
「……蒼蓉くん、長いんですけど」
「あァごめんよ、脈を取ってた」
「なにしてるんです!?」
唇を離すと柚良の顔が視界に入る。
今は素の姿だというのに柚良の頬が僅かに赤い様子を見て――蒼蓉は、やはり自分が心から望んだ太陽が目の前にあるのだと、まるでただの十七歳のように曇りなく笑った。




