第48話 外堀→埋められてる 俺→埋められそう
ああびっくりした、というのが柚良の感想である。
どう見ても色恋沙汰を対象にした感想ではないが、数時間が経過してもあの時のことを――学生服の、かつての『クラスメイト』の蒼蓉に抱き締められ愛の言葉を囁かれた時のことを思い出すと、一番にこの感想が飛び出してくるのだ。
万化魔法専門学校へと出勤した柚良は時間まで自分の机の上を片付けながらそんな考え事をしていた。
(制御不可能な心拍数と体温の上昇……あと高揚感? これって普通は恋愛対象との接触で起こるものだし、なら私は蒼蓉くんが好きなのかな……)
もしそうなら婚約期間中に自分の気持ちを確かめるというミッションは完了したことになる。
だがここで問題があった。
柚良にはこういった経験がない。つまりなにを以て『自分は蒼蓉が好きだ』と確定するのか、その基準が曖昧なのである。
結婚するなら恋愛結婚で、と考えている身としては問題も問題、大問題だった。
こういう事柄については誰に相談するのが適切なのだろうか、と思考を巡らせる。
外部からのアドバイスは重要だ。
(まず生徒はNG。下手すると私より経験豊富な子も多いだろうけど、プライベートとは分けないと)
柚良は光を反射する婚約指輪を凝視しつつ考え込む。
(他に経験豊富そうな人……バーニアル代理校長? いやいや、これは私だってマズいってわかるから却下! それならマユズミ先生……は、うーん……)
マユズミは柚良に対してとても親身に接してくれる。
初めは何度か敷地内で迷ってしまったが、そんな柚良を見つけると目的地とは逆方向に用事があってもわざわざ送ってくれた。
授業の補佐も今は入っていないが、初めの頃はよく助けられたものだ。
しかしマユズミは蒼蓉を警戒している。
敵というよりも油断ならない男性として。
(後からなんとなーく察したけど、あれって多分蒼蓉くんを『女を利用するアブない男』とかそういう風に思ってたからなんだろうなぁ)
たしかに危ないが、少なくとも柚良にとっては暗渠街で一番安全な男だ。――と、本人は思っている。
もしそういった心配からなら、婚約者だと明かした今ならまた違った反応をするかもしれない。
ならマユズミ先生に相談してみよう、と柚良は立ち上がりかけたものの、それはマユズミが職員室を出ていくのと同じタイミングだった。
(あっ、そうか、担当が一限目だっけ)
メタリーナが抜け、後任が決まっていないためマユズミがせっせと穴を埋めているのだ。長期間且つすべての授業を穴埋めすることはできないがマユズミなりに頑張っている様子である。
つまり、ここしばらくの彼女は忙しく疲労していた。
疲れているところにこんな相談はしたくないな、と柚良は再び机に向き直る。
そんな柚良に声をかけたのはアルノスだった。
「柚良ちゃん、これ頼まれてたペーパーテストの結果のコピーね」
「わ、ありがとうございます!」
授業はそれぞれ分野が異なるが、すべて根っ子の部分で『魔法』という存在と繋がっている。
そのため他の授業で生徒たちがどのような結果を出したかという情報も重要になってくるのだ。
次の授業の参考になります、と紙束を受け取った柚良はハッとする。
「アルノスさんならもしかして……」
「ん? まだなにか頼みごとが――」
「あります! アルノスさん、お昼休憩にランチをご一緒しませんか!」
アルノスは目を真ん丸にし、なんとなく部屋の四隅を見てから声を潜めて訊ねた。
「それ、オトモダチ的にはOKなやつ?」
「? 問題ないと思いますけど……」
「よし、ならいいよ。時間になったら俺から声をかける」
「ありがとうございます。あとその、できればなんですが……」
今度は柚良がきょろきょろと辺りを見てから声を潜めてアルノスに耳打ちする。
「……ひと気のないところで、二人きりで宜しくお願いします!」
「それ本当にセーフ判定出てるの!?」
アルノスは即座にツッコミつつも、しかし「断らないけど! いいけど!」という返事も即座に行なったのだった。
***
普段、弁当を持ち込んでいる教員は職員室か屋上で昼食を取ることになる。
ただし、そのぶん人の目があるということだ。特に屋上は生徒も利用している。
そこで『ひと気のないところで』という柚良のリクエストに応えるため、アルノスが提供したのは薄暗い校舎裏だった。
(こんな場所でも二つ返事でOKするんだから、やっぱめちゃくちゃ危なっかしいな柚良ちゃん……)
だがアルノスはそこが魅力的に感じてしまう。
それもこれも恋心を自覚してしまったからだ。
加えて散々な目に遭ったというのに気持ちが冷めないのだから筋金入りだな、とアルノスは己の気持ちを恨めしく思う。
(しかもメタリーナが散々愚痴ってた場所に柚良ちゃんを連れ込んでメシ食ってることになるんだよな。はー……なんだこれ、変な扉開きそうで参る……)
しかも柚良は他人の婚約者だ。
蒼蓉が彼女を利用しようとしているのか未だに確証は得られていなかったが、いくらアルノスが疑って見ていても婚約者は婚約者。
様々なことが判明する前よりのめり込んでいるのだから、変な扉の一枚や二枚すでに開けているのかもしれなかった。
アルノスはため息を飲み込んで柚良に問う。
「で? わざわざこんな場所まで来たんだ、話すことがあるなら時間がなくなる前にしなよ」
「へへへ、お世話かけます。その、じつはですね」
柚良は真剣な顔で弁当を置くとアルノスに訊ねた。
「蒼蓉くんにぎゅってされて愛の言葉を囁かれたら、それはもうめちゃくちゃドキドキしたんです!」
「なんで俺にそれ言うわけ!?」
まさか惚気るために呼び出したのか。
好きな子の惚気を聞くなんて地獄すぎないか。
そんなアルノスの胸中を知らない柚良は「経験豊富そうだったので……!」と正直に答える。
「こんなことになったのは初めての経験だったんですが、これが相手を好きだっていう証拠になるのか気になりまして。如何でしょうか?」
「は、初めて? それいつ?」
「今朝です!」
「今朝!?」
更に仰天したアルノスはサンドイッチを取り落としそうになった。
疑問がいくつも頭の中をぐるぐるしている。
これはひとつひとつ捕まえて紐解いていくしかない。
「ゆ、柚良ちゃんは蒼蓉様と好きあって婚約したんじゃないのか?」
「ちょっと色々ありまして、保護された後に私のことが好きだと言われて……私も大恩があったので、なら自分が蒼蓉くんをどう思ってるか確かめようと思ったんです」
「いやいや、けど付き合い自体は長いんでしょ?」
「うーん、これも色々ありましてがっつり会話したのは比較的最近ですね。でも存在自体は結構前から知ってましたよ」
「そんな相手と婚約ぅ……?」
外堀を埋められている。
アルノスは冷や汗を流した。
やはり蒼蓉は規格外の力を持つ柚良を囲いたいだけなのではないか。
しかしそれにしてはおかしいのも事実だ。
抱き締められた程度でドキドキしたのなら、今までそれ以上のことはしていなかったということになる。
――もちろん柚良のことなので奇怪な判定基準かもしれないが。
(あーもー、訳わからないことばっかりかよ……!)
アルノスが混乱している中、柚良は真面目な顔で話を続けていた。
「そこでですね、私、ちょっと考えてみたんですよ」
「な、なにかな」
「同じ条件でドキドキするか検証してみればいいんじゃないかなと! アルノスさん、ちょっとぎゅっとして愛の言葉を囁くふりをしてくれませんか!」
「殺されるし埋められるし流されるし撒かれる!!」
思わず声量を抑えずそう叫んだアルノスは左右を確認した。
誰かに聞こえたのでは、という心配ではなく、どこかに蒼蓉の密偵が潜んでいるのではないかという心配だ。
正直に言うなら抱き締められるなら抱き締めたい。
ぶっちゃけあの日のような策略ではなく、下心100%でホテルに誘いたい。
ついでに素直に言うなら愛の言葉のバリエーションも飽きさせないくらい浮かぶ。
だが命は惜しい。
そもそも他人の婚約者にそんなことをさせるな。
全力で止めろ。そう数多の思考が去来し、アルノスは両手をぶんぶんと横に振る。
「暗渠街に表みたいな法はない! 代わりにその地区を治めてる組織そのものが法みたいなものだ、つまりここの法は万化亭! だから柚良ちゃんにセクハラをすると死ぬ! 俺が!」
「そこまで!? 挨拶みたいなハグでもいいんですが……うーん、文化の違いもありますもんね。諦めましょう」
アルノスがホッとした時、学校の予鈴が鳴り響いた。
「お、おっと、早く食わないと。……とりあえずもう少し様子見してもいいんじゃないかな、人の気持ちって理解するまで時間がかかることもあるしさ」
「人それぞれってやつですか」
「そうそう」
ちょっと焦りすぎだったかもですね、と言いながら柚良も急いで残りの昼食を食べ、ふたりして立ち上がる。
ふたりとも午後に入ってすぐに授業があるわけではないが、教師特権と言わんばかりに昼休みの時間をオーバーしては生徒に示しがつかない。
アルノスに教師としての矜持はあまりないものの、学校のバックに付いている万化亭の顔に泥を塗るようなことをすればどうなるかはよく理解している。
さあ急いで帰ろう――と歩き出したところだった。
「そうだ、柚良ちゃん。実体験もいいけどまず物語とかで慣れ……」
「ふぎゃ!」
「ぅおっ!?」
思いついたアドバイスを伝えようと不意に足を止めて振り返った瞬間、アルノスの胸板にぶつかった柚良が声を上げる。
思わず柚良の肩を支えたアルノスだったが、その柔らかさと小ささに意識を奪われている間に体勢が崩れ、踏ん張るのが一歩遅れた。
結果、アルノスが尻餅をつくようにして後ろに倒れ、その腕の中に柚良がすっぽりと収まる。
「……」
「……」
アルノスの頭の中に小さな宇宙ができた。
しかし思考は停止しているくせに抱き止めた柚良の感触がダイレクトすぎて様々な想像が頭を駆け抜けていく。
しかも、しかもである。
柚良からも抱きつく形になっているのである。
呆けた顔で固まっていたアルノスだったが、一瞬の間に命の危険を思い出し、柚良に声をかけようとしたところで――柚良の手がなにかを確かめるように動いた。
「ふむ、ふむふむ……」
「ゆ、柚良ちゃん? 動かれると色々、その」
「……大丈夫みたいです!」
すっくと立ち上がった柚良は体の汚れを払うより先にアルノスに手を差し伸べた。
「なんだかお兄ちゃんに支えてもらったみたいな安心感でしたよ、アルノスさん!」
「お兄ちゃん……」
「あっ……それにしてもすみません、お怪我ありませんか?」
いや俺のせいだから、と言いながらアルノスは柚良の手を借りつつ立ち上がった。
未だに柚良の感触が残っているせいか手を握っただけで顔が火照る。
慌てていると柚良が「時間がヤバいですね、とりあえず戻りましょうか!」と走り出した。しかしアルノスは突っ立ったまま己の胸に手の平を当てる。
しかし、こんなことをせずともわかるくらい鼓動が主張していた。
「いや、これ、俺のほうがドキドキさせられる側じゃね……」
変な扉は一枚や二枚どころか、もう最後まで開けられてしまったのではないか。
勘弁してくれよとなんとなく泣きそうな気持ちになっていると、柚良が曲がり角から「アルノスさん早く早く!」と手を振った。
その姿がいやに眩しい。
――どんなに足掻こうと、ここまで達した気持ちは消えはしないのだろう。
そんな予感が走る。
「……ティーンエイジャーかよ」
アルノスは吹っ切れた様子で一度だけ下を、というよりも己の下半身を見ると目を伏せ、そして柚良に手を振り返すと言った。
急いでお手洗い行ってから戻るから先に行ってて、と。
ひとまず人畜無害を極めようと努力した笑顔と共に。




