第100話 それとこれとは別の話さ
アジトへ戻るための面倒な手順をこんなにも煩わしく思ったことはない。
そう口元を歪めながら、クメスフォリカはようやく辿り着いた扉を開けた。
いつも通り廊下を進み玄関ホールへと向かう。
玄関ホールとは名ばかりで普段は構成員が時間を潰したり会議や相談に使っている場所だが、グループで仕事に出ていると閑散としていることも多い。
今日は後者のようだった。
クメスフォリカは広いホールに響くよう声を出す。
「おい、浩然かジェジはいるか!」
「両方いますよ。……おや、珍しく派手にやられましたね?」
玄関ホールの真ん中に伸びる階段から浩然とジェジが降りてきた。
それぞれいつも通りの黒いスーツ姿と、ヨレたシャツを着た姿だ。
クメスフォリカは傷を指しながら「痛ェったらありゃァしねぇ」と文句を言う。
まるで転んでできた傷に対するような口調だったが、炎の刃で裂かれた傷口は裂傷と火傷を同時に負っていた。食い込むような痛みは撤退したその瞬間から終始続いている。
「貴女なら幻覚で痛みも散らせたでしょうに」
「魔力をほとんど使いきっちまったんだよ。面倒な拘束から抜け出すのに普段はやんない使い方もしたしな」
「ほう」
「あ~……とりあえずジェジでいいや、治療してくれ。この様子だと回復魔法使える奴は出払ってンだろ」
彫師に治療をさせるな、とジェジが無表情なりに眉間にしわを一本寄せて表現したが、そんなささやかな意思表示がクメスフォリカに届くはずがなかった。
どのみち回復魔法を使える人間が戻ってくれば治すよう押し掛けるため、今は応急処置だけである。つまり誰でもできるだろうとクメスフォリカは言っているのだ。
しかし口を挟んだのは浩然だった。
「申し訳ありませんが我々はこれから研究施設へ向かう予定でして。ここは……メタリーナ様ならお部屋にいらっしゃったはず。そちらに手当てを頼まれては?」
「メタリーナにぃ?」
「女性同士ですし、そちらのほうが都合のいいこともあるでしょう」
クメスフォリカも浩然たちも性別を気にするような感性は持ち合わせていない。
これはただの口実だ。
しかしここでゴネていても痛みを感じる時間が長引くだけである。
クメスフォリカが最初にふたりを呼んだのも屋敷にいる可能性が高い二名だったからこそであり、もし出払っているならそれこそ「メタリーナに頼むか」という思考になっていたことは本人も理解していた。
「仕方ねぇなァ、じゃあ行くわ。……あ、それと」
「まだなにか?」
「万化亭にちょびっと情報渡しちゃったんでヨロシク~」
クメスフォリカは飄々とした様子でそう言うとメタリーナの部屋に向かって歩き始めた。
ジェジが怒りをたっぷりと含んだ様子でクメスフォリカの背中を睨みつける。
そして一言も発さないまま一歩踏み出したが、そんなジェジの背を浩然がぽんぽんと叩いた。
「大丈夫ですよ、把握しております」
「……だが、あの万化亭に情報を渡すというのは敵に武器を渡すようなものだ」
「ええ、恐ろしいことですね。しかしそういうことに備えて拠点を移動させやすくしているのです、痛手ではございません。それより……」
浩然はクメスフォリカが角を曲がって消えた方向を見ながら言った。
「ここで我々の右腕たるクメスフォリカ様を失うほうが痛手でしょう」
隠世堂は任務さえこなしていれば互いに過干渉はしない。
クメスフォリカは独断で動き、恐らく万化亭と取り引きをしたが、手傷を負って戻ってきたところを見るに交渉は決裂したのだろうと浩然にも予想がついた。
そして資金の調達のためにニェチェ家の洗脳を命じたのは隠世堂である。
万化亭の介入によりその計画は阻止されてしまったという一報は事前に入っているため、その時になにかあったのだろうということも予想の範囲内に含まれていた。
それでも泳がせていたのは、これくらいのことなら大目に見ることが可能だと判断したからこそ。
むしろその結果、うっかりクメスフォリカの命を奪われなくて良かったと浩然は言っているのである。あれほどの負傷をして戻ってくることは予想の範囲外だった。
「もちろんジェジ様が個人的に罰を与えるというなら止めはしません。しかし今は先に予定を消化致しましょう」
「……わかった」
ジェジは浩然の後について移動しながら、もう一度だけクメスフォリカの消えた廊下を振り返る。
あんな右腕などさっさと切り落としてしまえばいいのに。
左腕に刻まれた蛇の刺青をさすりながら、そう小さく呟かれた言葉はジェジの耳以外に届くことはなかった。
***
パグナーメンツ・ホテルから撤退後、万化亭に戻った蒼蓉たちは柚良をベッドに寝かせて治療を行なった。
ただし治療といっても気を失って転倒した際にできた擦り傷だけである。
本来なら立った状態で力なく倒れればそれだけで致命傷を負う可能性もあったが、気絶してから倒れるまでの一瞬はまだバリア魔法ないし強化魔法が効いていたのか、擦り傷だけで済んでいた。
それでも柚良は目覚めない。
「恐らくボクたちと同じような幻覚を今も見せられているんだろうが……様子見しかできないのか?」
「ここまで影響を与える幻覚魔法自体が稀有でして、我々ができることはほとんどありません」
長年万化亭に仕えている魔導師の常戒は申し訳なさそうに答えた。
柚良が目覚めない今、万化亭で経験を積んで豊富な魔法知識を持った魔導師の筆頭は彼である。
戦闘には不向きだが柚良が来る前は魔法関連の相談をよく持ち込まれていた。
そんな常戒にもお手上げの状況だったのである。
だが様子見もだらだらとは続けていられない。
ただ眠っているように見えるが、実際には幻覚を見続けているのだ。
つまり脳を休められない。
人間は魔法を使わなくても六日から七日ほど寝ないと幻覚を見た上、そのうち視力低下や記憶障害が起こるほど衰弱していく。
蒼蓉も必要に応じて拷問の一環として睡眠妨害を利用することがあるからこそ、その恐ろしさをよく理解していた。
「若旦那、ここは幻覚系の魔法に明るい組織か人物を探して協力を仰いだほうが宜しいのでは――」
「いや、四日は様子見しよう」
「四日もですか!?」
ギョッとする常戒をよそに、蒼蓉は寝かされた柚良の額を柔らかく撫でる。
「もちろんその間に協力要請の準備は進めておくけどね。……ただ今回の件に関しては、うん、完全に勘なんだが柚良さんなら大丈夫な気がするんだよ」
「……ば、万化亭の若旦那らしくないセリフですね」
情報を得た上での予想なら問題ない。
しかしはっきりとした情報のない状態で「大丈夫な気がするから後手に回ろう」と言うことは万化亭の若旦那としての言葉としては危ういものだった。
蒼蓉は同意しながら笑う。
「でも柚良さんだからね、それこそなんとなくなんだが――」
「……」
「――自分の意思でこの状態を保っている気がする」
「……なにか目的があったとして、いくら糀寺様でもそこまでするでしょうか?」
する、と蒼蓉は言った。即答だった。
現実での経過時間までは把握していないかもしれないが、柚良も幻覚だとすぐに気づいているだろう。
なにせ蒼蓉もヘルもイェルハルドも自力で気づいて戻ってきたのだ。
予想した通りに倒れていた影の面々も半日かからず全員目を覚ました。
強度の差はあっても柚良ならその差はあって無いようなもの。
なのに柚良だけ戻ってこないということは、幻覚の中に気になるものを見つけた可能性がある。
「幻覚は幻覚であって現実ではない。そこで情報収集なんて意味があるのかボクにはわからないが……柚良さんがやりたいなら止めはしないさ」
そう言って蒼蓉は肩を竦めた。
ただし結果はどうであれ柚良をこのような目に遭わせた奴は許さない。そんな感情と共に蒼蓉は「一応無駄な足掻きもしておこう」とクメスフォリカの痕跡を探すように指示を出す。
その間に今回得た情報の精査をするから、と璃花に情報を書き連ねた紙束を持ってくるように言った。
「精査なら自室のほうが宜しいのでは」
柚良が寝かされているのは柚良の部屋だ。
最近は蒼蓉と寝ることが多かったため、ベッドが使われるのも久しぶりだった。
そして柚良の部屋には魔法関連のものは山ほどあるが、情報を照らし合わせ真偽を探るなら蒼蓉の自室のほうが向いている。それは常戒でさえ理解していることだ。
蒼蓉は暗い目をして眉を下げた。
「柚良さんなら大丈夫だろうと思っているが――しかし心配くらいはしているからね。だから」
それとこれとは別の話さ、と。
蒼蓉はベッド脇に座ったまま柚良の三つ編みをゆっくりと解いた。




