右足を引き摺る男
◆ ◆ ◆
気持ちの良い朝陽を受けて、私は目覚めた。部屋の中には一人。
結局、昨夜、部屋を移動したのはギルの方だった。国を守ることに関してはたくさん語るくせに、他のことになると彼は口下手になってしまう。特にする会話もなく、私たちはそれぞれの部屋で眠りについた。
——よし、今日からこのお店を任されたんだ。頑張るぞ!
そう思いながら、身支度を整え、自分の部屋を出たときだった。
がりがりっ
真正面の部屋から何やら不可解な音がした。いや、私の聞き間違いかもしれない、とも思ったけれど、耳を澄ませてみると、やっぱり、がりがりっという音が聞こえた。
「ギル?」
昨夜、彼がどこの部屋に移動したのか、私は知らない。
——あれ? そういえば、マーカスが出て行ってから、ちゃんとお店の鍵を閉めたっけ?
考えたら、サァッと血の気が引いてきた。どうしよう、誰かが入ってたら。
「ギル? ギル、どこですか?」
侵入している誰かを刺激しないように、小声でギルを呼ぶ。しかし、返事はない。彼が中で犬になっているだけなら、きっと吠えて教えてくれるはずだ。でも、がりがりっ音がするだけで何の反応もない。ということは、もしかして、中でギルは誰かに殺されて……?
——ええい! ままよ!
考えが迷走するまま、焦って私は勢いよく、部屋の扉を開けた。
「……」
犬になったギルが私のことをジッと見上げていた。
——犬になってただけじゃない!
私は心の中で叫んだ。
どうやら回すタイプのノブで、犬になったギルでは開けられなかったようだ。鍵が掛かっていなくて良かった。
「ギル、どうして吠えないんですか?」
わしゃわしゃと頭を両手で撫でながら、私がそう問いかけると、犬のギルは「どうして吠える必要がある?」という顔をした気がした。
——もう、このままもふってやるんだから! 肉球だってふにふにしてやるんだから!
私は犬になったギルの身体に思いっきり抱きついた。太陽の香り……、朝もふ、このもふもふ感がたまらない。肉球も、猫ほど柔らかくはないけれど、ふにふにで癒される。ずっと、ふにふにしてられる。
「あっ、ごめんなさい。つい……」
どのくらい経ったのか、ギルに手を甘噛みされて、私はやり過ぎたのだと気付かされた。ちょっと恥ずかしい。そうだった、ギルは人間だった。
「朝ご飯作りますね?」
誤魔化すように私はスンっという顔で立ち上がった。
この後、朝食の卵かけご飯で人間に戻ったギルに「少しは加減を覚えろ」とちょっぴり叱られた。だから、私は拗ねた。ちょっぴり拗ねた。すると……
「昼から開店だろう? 何か俺に出来ることはあるか?」
話題は違うけれど、彼はそんなことを言ってくれた。本当はそんなことを言ってもらいたかったわけじゃないけれど、彼の優しさには甘えたいと思った。単純な私、とも思った。
だから、私は遠慮せず、彼にじゃがいもを市場で買ってきてもらうことにした。じゃがいもはダメになるから冷蔵庫に入れられないし、出すことも出来ない。彼は何も文句は言わず、「分かった」と朝の市場に出かけていった。
男性がいると重い物を持ってもらえたりして助かる、ということを感じたのはギルに出会ってからだ。この世界ではレディファーストなのか、それともギルだけなのか分からないけれど、彼は率先して私のことを助けてくれる。前世の記憶の中に、こんなにも男性に優しくしてもらったことがあっただろうか?
「緊張する……」
そう呟きながら、私は客席の方を見た。ここのキッチンはシンクとコンロがカウンターに向かって並んでいる。オープンキッチンという形だ。お客さんの顔が見えるし、お客さんからも私の顔が見える。
壁にもどこにもメニュー表はなく、ここに来るお客さんがどんな料理を好むのか、私にはまだ分からない。最初のお客さんには、どんなものが食べたいのか聞いてみてから料理を作りたいと思う。
料金も分からないので、取り敢えず、800ジゼル、日本円で800円くらいでスタートしてみようと考えた。食堂だから高いかな? でも、ワンコインじゃ安すぎる気がするし……。
ふと店の扉が開く気配がして、私は視線をそちらに向けた。
「おはよう、エラ」
視界に入る燃えるような赤い髪。
「あ、マーカス。おはようございます」
まだ開店していないけれど、マーカスは様子を見に来てくれたようだ。
「あの、料金なんですけど、まずは800ジゼルで設定してみようと思うんです。どうでしょう? 高いですか?」
初めてのことで戸惑いながら私はマーカスに尋ねた。料理のことはどうにか出来ても、お金のことはトラブルのもとになりそうだ。
「いいや、高くないよ。ちょうど良いんじゃないか?」
私が心配し過ぎたのか、ははっと爽やかに笑いながら彼は答えた。
「良かった……」
ほっと胸を撫で下ろす。これで料金設定は落ち着いた。
「すまない、昨日、勢いで任せちまったから困ってるよな」
少しだけ、申し訳ない表情をしながらマーカスはへへっと笑った。
「いえ、このお店の評判を落とすようなことはしたくないなと思っているだけで……」
困っているし、戸惑っているけれど、引き受けたからには頑張りたい。
「そう思ってくれていれば大丈夫。また様子を見に来るから、頼んだぞ」
「あ、はい」
マーカスは爽やかに手を振って、店から出て行った。彼は少し急いでいるように見えた。妹さんの看病を抜け出してきてくれたのだ。そちらが心配なのに、離れて来ているのだから、当たり前か。
——妹さん、何だったら食べられるかな?
ギルの言ったことが本当に正しいのなら、私の料理には傷や病を治す力がある。それでも、ギル一人しか治していないし、彼の場合は傷だった。病に効くかは分からない。
そして、何より、マーカスの妹は今、液体しか飲めない状態だという。しかも、それもむせてしまうので少量……。
——液体だとむせてしまうし……、おかゆは少しでも粒があると食べられない……。スープもダメ……。
悩みながらシンクのところで仕込みをしていると、また店の扉が開く気配がした。マーカスが出て行ってから、そこまで時間が経っていなかったため、私は「マーカス、何か忘れ物ですか?」と言いながら顔を上げた。
でも、そこに立っていたのはマーカスではなかった。ギルでもない。見知らぬシルバーの髪をした若い男性だった。
男性は右足を引きずるように中に入ってきて、突然
「何か食わせろ!」
と椅子を蹴り飛ばした。
「……」
唖然とする私。何が起こったのか理解して、怖いという気持ちが心と身体に表れ始めたとき、扉がまた開いて、今度はギルが入ってきた。瞬間、彼と男性の視線が合致する。
「シルバ……」
じゃがいもの入った麻袋を抱えたまま、ギルは若い男性を見つめて、そう呟いた——。