取引をしないか?
「ちょっと、何か言ってくださいよ」
両手で隠した隙間からチラッと見てみたけれど、彼はジッと私の方を見ているだけで何も言ってくれなかった。
「取り敢えず、父の服を持ってくるので、それを着てください」
バスタオルを彼に投げて、私は屋敷の父の部屋に向かった。お義母様とお姉様たちは優雅にドレスを見せ合っていて、何が楽しいのかと思ったけれど、それのおかげで私は見つからずに済んだ。
「やっぱり……、人……」
もしかしたら、仕事で疲れていて、犬がイケメンに見えただけなのでは、という考えも間違いに終わった。私が父の服を持って小屋に戻っても彼は確実に耳と尻尾を持った男だった。
「これ、どうぞ」
「ああ……」
バスタオルを頭から被っている彼に服を差し出すと素っ気ない声と共に手が伸びてきた。ちょっと、お礼くらい言いなさいよ、と思ってしまう。
「それで……あなたは一体、何者なんですか?」
ちょっと落ち着こうと思って、私は冷蔵庫を開けながら彼に尋ねた。落ち着きたいときは料理だ。この世界に来たときにけんちん汁を飲んで落ち着いたのを思い出した。今日もそれで落ち着こう。そう思ったのに……
「こちらが聞きたい。お前は一体、何者なんだ? 魔女か?」
「へ?」
後ろから私の肩越しに冷蔵庫を覗き込まれてドキリとする。
「お前が作った訳の分からない実を食べたら傷も治ったし身体も人間に戻った。まあ、中途半端ではあるが」
チラッと後ろを振り返ると、彼は自分の獣の耳や尻尾に触れて確認していた。戻ったということは、彼は元々人間だったということだろうか。
「私は別に魔女ではありません。ただの人間です。戻ったって、あなたの力ではないのですか?」
心当たりがまったくない。昔は魔女狩りとかいうのもあったみたいだし、ここは積極的にきっちり否定していこう。
「お前知らないのか? この世界に強力な解除魔法や回復魔法を使える者はそうそう居ない」
「へ、へぇ、そうなんですか」
この世界に魔法があるということは否定しないようだ。適当に返事をしながら、私は冷蔵庫の中からけんちん汁の材料を取り出し始めた。
「それだって魔道具だろう?」
——いや、ただの冷蔵庫ですけど。
まあ、確かにこの世界に冷蔵庫があるのはおかしい。別に冷蔵庫が欲しいと私が願ったわけでもないし、この冷蔵庫にすごく思い入れがあったわけではない。この世界の特別な魔道具に混ざって、ただ冷蔵庫があっただけということなのだと思う。理由はなんであれ、とても重宝していることに変わりはないのだけれど。
「たまたま手に入れただけです。——私、エラと言いますが、あなた、お名前は?」
名前を聞くなら自分から、というルールを採用して私は自分の名前を言ってから彼に名前を尋ねてみた。ちゃんと手元は動かして、もう小さな流しで野菜の皮を剥きに掛かっている。
「ギルバートだ」
彼はぼそりと答えてくれたけれど、隣に立たれているとなんとなく料理がしづらい。緊張するというか、なんというか。
「そうですか。あなた、見た感じ犬だったのですが、ネギは食べて大丈夫なのでしょうか? 犬でも食べられるお好み焼きでも作りましょうか?」
犬にネギは毒だと聞いたことがあるのだけれど、と彼に確認しようと思って私は手元の包丁から視線を上げて隣を見た。彼は……
「……」
また犬になっていた。
それでも彼は慌てるわけでもなく、ただ狼のような目つきでジッと私を見上げていた。
——黙ってると、ちょっと可愛い……。
私は彼を見つめ返したあと、瞬きを何度かして、「勝手に作りますね」と野菜に向き直った。
それにしても、私はどうして見ず知らずの男性に料理なんて作ってあげようとしているのだろうか。もしかして、無意識に彼の反応を楽しみにしてる? 無愛想だし、あんまり期待は出来なさそうだけど。
それと貸してあげた父の服はどこに行ってしまったのだろう、と思う。彼は着ていないし、どこかに転がっているわけでもない。まるでふっとどこかに消えてしまったみたいだ。また人間に戻ったときに裸だったりしませんよね? と思ってしまう。
チラチラとギルの方を見ながらも、私は暖炉の火でけんちん汁を煮込み、犬も食べられるお好み焼きの調理に取りかかっていく。
用意するものは薄力粉、卵、水、山芋、キャベツ、絹ごし豆腐、豚の薄切り赤身肉。桜えびとかつおぶしも大丈夫なので、それも。
作り方は簡単。卵、水、絹ごし豆腐を大きな器で混ぜて、そこに摺り下ろした山芋を入れて、また混ぜる。次に薄力粉と桜えびと千切りにしたキャベツを加えて、ざっと混ぜる。
暖炉の火からけんちん汁の鍋を下ろして、そこにフライパンをセット。
そのフライパンにサラダ油を少々入れて、混ぜたお好み焼きの種を適量投入。
上手く丸く出来たらその上に豚肉を並べる。
焦がさないように見ながら、裏面に綺麗な焼き色が付いたら上手くへらを使って裏返す!
豚を並べた面も同じように焼き色を付けて、お皿に移して、かつおぶしを上からトッピングする。
ソースはかけない。
「ここ、どうぞ」
椅子にギルを座らせて、私も向かいの椅子に座る。ちょっとテーブルが小さいかもだけど、お皿二枚とお椀二個は載った。
果たして、彼は一体どんな反応をするだろうか?
「よければ、どうぞ」
見ず知らずの男に料理を作るのもそうだけど、見ず知らずの女の作った料理を食べるのもちょっと普通じゃないことかもしれない。だから、私は彼が食べやすいように声を掛けた。
彼は黙ってスンスンとお好み焼きの匂いを嗅いで、パクッと一口食べた。
人間の彼は無愛想で、犬の彼も表情はあまり無いけれど、ペロリと口の周りをひと舐めして、一瞬尻尾を振っていたように見えた。私にはそれだけで良かった。彼の行動で彼が喜んでくれていると分かったから。
「ふふっ、美味しい? 良かった」
ほとんど無意識に私は彼の頭を撫でて、頬を撫でていた。ふわふわで可愛い……、と思ってハッとする。
中途半端に人間になったギルが私の手を掴んで、こちらをジッと見つめていた。
「ご、ごめんなさい。つい……」
彼に手を掴まれたまま、私は謝った。
——良かった。ちゃんとさっき貸した服着てる。っじゃなくて、この状況、一体、何?
「あの……」
手は掴まれたままだし、彼の顔にはあまり表情が無いし。勝手にふわふわを触ったこと怒ってる? それとも、何か戸惑ってる?
これは私から何かを尋ねた方が良いのだろうか? と思ったときだった。
「取引をしないか?」
「はい?」
急に彼に言われて、私は固まった。