ラッキースケベみたいなの
エラとして生活を始めて早一ヶ月以上が経ちました。継母と姉二人にいびられながら家事をする日々。でも、私、全然めげていません。いつかこの家を出るのだと考えながら毎日を生き生きと過ごしています。生前の夫や姑とは違い、ここの家族は何が言いたいのか、まだ分かりやすいので助かっています。
——いびられながらも継母たちには適当に良い食事を与えておいて、自分はさらに美味しいものを食べているだなんて、強かな女ね、エラ。
そう思いながら、私は洗濯物を干しつつ、近くに干してある梅干しの様子を見ていた。
継母や姉二人は虫が出るから、と庭に近付こうとしない。だから、私は冷蔵庫から出した完熟梅と赤しそと粗塩を約一ヶ月漬けて、数日前から庭の日の当たるところにこっそり干している。もうほとんど完成の状態だ。
「うん、良い感じ」
大小様々な洗濯物を干し終えて、梅干しのチェックも終えて、洗濯物かごを持って、私は次の仕事に取り掛かろうとした。
「ん?」
何やら、どこからか視線を感じる。洗ったばかりの真っ白なシーツの裏……?
風でなびくシーツの向こう側、そこに“それ”は居た。
真っ黒くて大きな、狼みたいな犬。それがシーツの向こう側に行儀良く座っていた。
「野犬……? まさか、迷子?」
私が戸惑いながら声を掛けると犬はのそりと動いて、こちらに歩いてきた。でも、なんとなく左後ろ足を引きずっているように見える。血も出ているようだ。
「怪我してるの?」
犬なのだから、当然のごとく私の問いに答えてくれるわけもなく、私との距離を詰めてきて……
「あ、ちょっと! それはわんちゃんには塩っぱすぎるって!」
パクッと干してあった梅干しの一粒を食べてしまった。器用に種だけを口から出したから大丈夫って、そんなわけはない。人間だって梅干しの食べ過ぎは厳禁なのに、犬にとっては過度な塩分は毒ともなるだろう。
「ちょっとわんちゃん、こっち来なさい。水をあげるから」
噛まないでよ? と思いながら、そろりと犬の方に手を伸ばしていく。瞬間、あの声が屋敷の中から聞こえてきた。
「エラ! エラァ! どこにいるの!?」
——まずい……! お義母様だわ……!
「わんちゃん、あの人たちに見られたらきっと酷い目に遭うから、私と一緒に来て」
犬は私の方を見て、喜びも怒りもしていなかった。ただ、すっとした顔でジッと私を見ていた。
「こっち」
私は犬に手招きをしながら自分の小屋の方に歩いていった。すると、犬は黙って、後ろ足を引きずりながらついてきた。意外と賢い子なのかもしれない。
「ここに居て、絶対に吠えないでね」
小屋の扉を開いて、犬を中に入れて私は扉を閉めた。
「エラ!」
「は、はいっ! なんでしょう? お義母様」
扉を閉めた直後、後ろからお義母様に声を掛けられて私は少しだけうろたえてしまった。
——どうしよう、野良犬を部屋に連れ込んだなんてバレたら怒られてしまう……。また仕事を増やされる……!
「バスルームの掃除はしたのかしら?」
「あ、はい、してあります」
「今夜の夕飯の買い物は?」
「行ってあります(本当はする必要ないんですけど、怪しまれないように行きました)」
「洗濯は……してあるわね」
「はい、してあります」
パタパタとなびくシーツを見てお義母様は、すっと納得して黙った。
「他の仕事も手を抜くんじゃありませんよ?」
「はい」
自分の中で一位二位を争う真面目な顔で私は返事をした。すると、お義母様はふんっと鼻を鳴らして屋敷の方に去っていった。
——あっぶない、なんだ、わざわざ確認しに来ただけか。遠足の忘れ物チェック項目なみに厳しいじゃない。
しかし、確かにお義母様はたまに私を試したりする。暇つぶしとして私を困らせたいのだと思う。本当、良い性格をしている。
「はぁ……」
ほっとしながら、私は扉を開けた。すぐそこに犬が居て、変わらない表情で私を見上げていた。
「ごめんね」
小さな流しにあったお皿に水を入れて、私は犬に飲ませてあげた。そして、犬の身体を見て気が付いた。
「って、あなたすごい汚れてる。ちょうどそこにお湯が沸いているから水を足して洗ってあげるわね」
私は屋敷のバスルームを使わせてもらったことがない。亡くなったお父様が生きていた頃のことは知らないし、もしかしたら、前は使わせてもらっていたのかもしれないけれど、今は自分の部屋の排水溝のある部分の上に木の大きな桶を置いて、そこに沸かしたお湯と水を入れて温度を調整して入っている。
「よし、良い温度。でも、あなた後ろ足を怪我しているのよね?」
心配になって、隣で大人しくしている犬の後ろ足を見てみた。
「あれ?」
目で見て、手で触れて確認してみたけれど、もう血は出ていないし、怪我もしていないようだった。私が足に触れるのを嫌がるように犬は普通に後ろ足を動かして私の手から逃れた。
——自然治癒力が高いのかしら?
「とりあえず、ここに入って」
犬が噛むかもしれない、ということはもう完全に忘れきっていた。あまりにも静かで従順なのだ。すでに大人しくお湯をはった桶の中に入っている。
「よしよし」
次のお湯を暖炉で沸かしながら、私は犬をわしゃわしゃと洗い始めた。ここの石鹸は生前使っていた物よりも泡立ちが悪いものの自然由来の物なので犬にも使うことが出来る。それを使って丁寧に洗ってやると、みるみるお湯が黒くなっていき、毛は黒いままだったけれど……あれ?
私は両手で犬の頭を洗っていた。その手の指の間には二つの黒い獣の耳があって……、でも、でもでも……!
「きゃああ!」
私は犬の頭から手を離して、自分の両目を塞いだ。
「戻ったか……」
目の前からぼそりと呟く男性の声がする。
「ど、どういうことなんですか? あなたは一体、誰なんですか?」
私は犬を洗っていたはずだった。でも、気が付いたら、いつの間にか黒い獣の耳と尻尾を持った男の人の頭を洗っていたのである。
——なに、このラッキースケベみたいなの! 別に私、望んでなかったんですけど!