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プロローグ だし香るけんちん汁とエラ


「あれ?」


 私はハッと我に返った。

 目の前の木製テーブルには木のお椀に入った何かの汁物が置かれている。そして、右手には木のお箸……。


「これは……、けんちん汁?」


 お箸と一緒にお椀を両手で持ち上げながら、まじまじと見つめて、香りも確かめて、私はその汁物がけんちん汁だと理解した。

 とても美味しそうな“だし”と“醤油”の香りがする。具材は大根、にんじん、ごぼう、里芋、しいたけ、木綿豆腐といったところだろうか。


 正直言って、お腹が減っているので今すぐにでもこのけんちん汁を食べたいところなのだけれど、今居る部屋のこととかこの現状のことが気になって、安心してこれを食すことが出来ない。


 なぜなら、私……さっき死んだんです。


 ◆ ◆ ◆


『俺、どうしてお前みたいな地味なやつと結婚しちまったんだろう……』


 生前、夫に言われた言葉を思い出す。

 彼は大きな病院の次期院長になるような男性だった。一家全員医療関係の家系で、私は彼の一家が経営する病院の医療事務をしていて彼と出会った。

 私の地味で控えめなところに惹かれたと彼は言ってくれた。私は彼のために仕事を辞めて専業主婦になった。


 結婚してから彼とは住む世界が違うと思わされた。お金を掛けるところがまず違った。

 貧乏な母子家庭で育った私は彼の口に合うように高級な食材を使って、少しでも豪華そうな料理を作ってみた。でも、彼は私の料理を食べて何も言わなかった。


 彼の母親にもたくさんいびられた。それでも、彼のことを愛していたから私はすべてに耐えていた。それも、三年も。でも、いつの間にか、愛も何も無くなっていた。私は三十歳になっていた。


『俺、どうしてお前みたいな地味なやつと結婚しちまったんだろう……』


 この言葉を吐いた三日後、彼は私の知らない女性を新しい婚約者だと言って家に連れてきて、私に離婚届けを書かせた。私は離婚届けを出して……役所前でトラックに跳ねられて死んだ。

 確実に死んだ。


 でも、私は今、生きて見知らぬ場所に居る。


 私はお椀とお箸をテーブルに置き、立ち上がって部屋の中を見回してみた。

 灰色の石造りの部屋で、天井にライトはあるもののなんとなく薄暗い。壁際に暖炉があって、けんちん汁はここで作ったみたいだ。


 窓はあるけれど、外に見えるのは日陰で昼間なのに明るくない。ここが、じめっとした空間なのは日が当たらないからなのかもしれない。

 そして、全体的にレトロな感じがする。例えるならば、洋風の昔のお家?


「へ?」


 暖炉の上に丸い飾り鏡があって、そこに映る自分に私はびっくりしてしまった。


 ――灰色の髪に、ラベンダーカラーの瞳……。


 そこに居たのは確実に生前の私ではなかった。そして、日本人でもなかった。地味ではあるけれど、紺色のドレスを着ている。日本では控えめなロリータとかゴスロリとか言われそうだ。十歳くらい若返ったのか肌艶も良い。


 見間違いかと思って、なぜか、箸を持って再度鏡に向かう私。多分、頭が混乱していたんだと思う。

 鏡の前で箸を動かしてみる。姿は違うけれど、私の意思で動いている。


 ――私、めっちゃお箸使うの上手じゃん!


 そう心の中で自分を褒めた。おかしな行動だと自分でも理解しているけれど、多分、必死に気持ちを落ち着かせようとしたんだと思う。その証拠に鏡の中に苦笑いを浮かべている自分が居る。


「……」


 急に冷静になって、私はお箸をお椀のところに置きに戻った。そんなときだ。


「え!?」


 自分の姿に気を取られていて、気が付いていなかったけれど、私はあり得ない物を見つけてしまった。


 壁際に置かれた白くてつやっとした四角い縦長の箱……、それは紛れもなく冷蔵庫で、生前、母と暮らしている頃に使っていた私の背丈ほどの少し控えめな大きさの物だった。でも、どう見ても、この部屋には不釣り合いだし、コードも電力も無いのにどうやって動いているのか分からない。この部屋のライトを見たときから、それは思っていた。


 もしかしたら、この世界には電力ではなく何か“他の力”があるのかもしれない。


「わぁ、懐かしい……」


 私は目を輝かせながら冷蔵庫の扉を開けた。

 母は私が成人する頃に胃がんで亡くなってしまった。そのときに冷蔵庫も処分したため、こんなところで同じ物を見られると思わなかったのだ。


「え、向こうの世界の食材入ってるじゃん。輸入? それとも魔法?」


 冷蔵庫の中には生前目にしていた食材が色々と入っていた。味噌や醤油、めんつゆなど便利な調味料も揃っている。


「久しぶりに梅干しが食べたいなぁ……、願ったら出てきたりしないかな……」


 ぶつぶつ独り言を言いながら、私は冷蔵庫の扉を閉めて、ダメ元でもう一度開けてみた。


「う、そ……」


 どこのメーカーのか分からないけれど市販の梅干しがパックで冷蔵庫の中央に入っていた。「魔法だ。魔道具だ。やったー」と思って一粒口にして、一瞬でがっかりした。


 甘い。とても甘いのだ。

 よく見るとパッケージにはちみつ入りと書いてある。私の好きな梅干しはシンプルに塩っぱいやつだ。これは自分で作った方が良さそうだ。


 ――おっと、忘れてた。


 そっと冷蔵庫を閉じて、けんちん汁のもとに戻る。

 この感じからすると、どうやらこの部屋は今の私の部屋らしい。身体がそう言っている。ということは、このけんちん汁はあの冷蔵庫を使って私が自分で作ったもののようだ。もったいない、食べよう。


「いただきます」


 手を合わせて、私は少し冷めてしまったけんちん汁を食べ始めた。まずは大根から……


「う~ん、味がしみてる!」


 噛んだ瞬間に大根の旨味と一緒にお汁がジュワワっと口にしみ出して、思わず頬が緩んだ。冷めたことによって、逆に味がよくしみ込んだのかもしれない。だしの香りに混ざって少し生姜の匂いがした。


「里芋もとろけて美味しい!」


 一人なのを良いことに独り言でリポートしまくる私。夫に裏切られて見捨てられて悲しんでいるかと言ったら、そんなのは全然だった。離婚届けを出したときの私は確かに落ち込んでいた。でも今はなぜか寧ろとても清々しい気持ちでいる。


 自由に自分の好きな料理をして、美味しく食べて、独り言を言ってもオーケー。二人で居るのに会話もまともに出来なかった昨日までとは違って天国じゃないの。

 私がけんちん汁をもりもりと食べながら、そう心躍らせていたときだった。


「エラ! エラァアア!」


 金切り声に近い女性の声が部屋の扉の向こう側から聞こえてきた。その声が少しずつ近づいてきて、ドンドンと扉を強く叩き始める。


 ――エラって、私のこと?


 そっと、お椀をテーブルに置いて、恐る恐る扉に近付いていく。


「はい……?」


 なんでしょう? というニュアンスを込めて、私は静かに扉を少しだけ開けた。瞬間、急にガッと扉を開け放たれた。扉の取っ手を掴んでいた私はバランスを崩して、前屈みになるように外に出てしまった。視界に紫色が広がる。


「ちょっとエラ! 私たちの部屋のシーツが替えられていないみたいなのだけれど、あなた一体何をしていたの? ちゃんと家の仕事をしなさいよ! あなたのお父様と再婚して、あの方が亡くなられたあとも可哀想だと思ってあなたをここに置いてあげているというのを忘れないことね」


 顔を上げると紫色のゴージャスなドレスを着たナイスミディな女性が私に向かって早口でまくし立てた。

 わざわざ私の立ち位置を説明してくれるなんて優しい。一気にこの世界での私の設定が分かった気がする。


 ――私、この世界でもいびられてたのか……。


 しかも、後ろにお姉様らしき人が二人。緑とピンクのドレスって、目立ち過ぎだと思うけれど、人の服装を気にしている場合ではないらしい。


「すみません。ちょっと頭を打ってしまったみたいで、記憶が曖昧で……」

「馬鹿なことを言うのはお止し! 今すぐ、私たちのシーツを替えて洗濯なさい!」


 私の部屋の扉を開け放ったまま、私の継母と姉二人は隣の立派なお屋敷に戻って行った。

 ここで初めて、私は屋敷の陰となる小屋で一人過ごしていたのだと知った――。

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