修道院から始まる逆襲譚
※この作品はフィクションであり、モデルと思わしき実在の人物・団体・事件などとは一切関係ありません。
大陸における覇権国家の一角、フランティア王国の国政はその年大いに混迷を極めた。
それはありふれた、お馴染みの一大事。
誰もが憧れ、敬愛した第一王太子、彼は貴族学院にて知り合った男爵家の令嬢、マルガレータに入れ込み、己が正当な婚約者を疎ましく感じ始めていた。そして遂には彼女を悪役令嬢として追い落とすことまでも画策し、実行に移してしまったのだ。
学園主催の夜会の場、彼は学友たちと共に婚約者たる伯爵家令嬢を糾弾し、新たにマルガレータとの婚約を宣言した。当然彼の取り巻きもこの下級貴族の娘に魅了されており、それどころか現国王ですら彼女の擁護側に回ってしまっていた。
最早この二人を止める者などいない、誰もがそう落胆しかけた。しかし、そこに待ったをかけるものが一人。そう、悪役令嬢の汚名を着させられたあの令嬢だ。彼女は元婚約者の弟、第二王太子と協力し此度の断罪への逆転方法を用意していた。
即ちマルガレータが現在に至るまでに重ねた逢瀬の数々、言うなれば多くの不貞行為の証拠をかき集めたのだ。自分以外の男とも肌を重ねているなど思いもしなかった王太子の衝撃もさることながら、何より重大だったのは現国王との肉体関係すらも彼女は突き止めていたことだ。
その証拠を突き付けるなど王家に喧嘩を売ったも同然の行為である。だが彼女は恐れず、勇気をもって彼らの罪を示した。伴侶の浮気に憤慨した王妃の助力もあり、事態は徐々に伯爵家側の有利に傾き始める。遂に王も己の非を認め、次期国王に定められていた第一王太子、そして騒動に加担した貴族子息たちは廃嫡されることとなった。責任問題から現国王は退位し、新たに即位したのは件の悪役令嬢と結ばれた第二王太子であった。
妖艶な肢体を用い多くの為政者を堕落させた大淫婦に、己が勇気と知略で立ち向かったその二人の姿は貴族や多くの国民の心を打ち、世間は新王の婚姻を盛大に歓迎した。
一方、万民に嫌悪されたマルガレータは国政をかき乱した咎で国はずれの修道院送りになったそうだ。その足取りに興味を抱く者などは無く、彼女は一人寂しく僻地へ追放されていった。
―――――
薄暗い灯りに包まれた修道院付き図書館、そこでは一人の修道女が読書に耽っていた。彼女こそが巷で話題の婚約破棄騒動の主犯格、元男爵家令嬢マルガレータである。
その装いはかつての絶頂の頃からは考えられない物だが、それでもなお彼女の美しさは際立っていた。荘厳なウエーブのかかった金髪は頭巾によって覆い隠されているが、少しも輝きは失われておらず眩い光沢を放っている。肌の露出は皆無な服装であるがその曲線美を抑えるには至っておらず、贔屓目に見ても男なら魅力を感じずにはいられない、そんな少女だった。
この地で司祭としての任を与えられ数十年、この私ユリウスですら初めて担当する国家反逆者の監視という職務は滞りなく進んでいる。当初の聞いていたイメージと異なりこの地に送られた彼女は従順に今日まで振舞ってきた。聖職者としての奉仕活動を全うし、暇さえあれば書物の読み解きに精を出す、そんな日々が繰り返される。
おおよそ勉学には興味なさげに見えた彼女のその意外な姿に思わず理由を問えば、
「以前の私には学が足りませんでした。男を手玉に取る方法は知っていても、政治や法には疎かった。だからこそあの伯爵家の令嬢に完敗したのです。」
と真面目な顔で彼女は答えてきた。
「まるで未だ復権など企んでいるかのような話しぶりですね。」
「それが何か?どうせ司祭様には私の昇進に賭ける思いなど分からないでしょう!?」
疑惑の念に駆られ口を開けば、彼女は声を荒げ険しい目付きで睨み返す。図星であるが故の焦りなのだろうが、生憎私にはその問いかけに対する回答が準備できている。
「分かりますとも。私も貴方と同じ、『貧民街』出身なのですから。」
瞬間、時が停止したように固まる彼女を尻目に私は言葉を続ける。
「我らがフランティア王国最大のスラムにて生を受け、商売女の娘として育った、貴方の経歴はそう聞き及んでおります。無論、母の死後は男爵家の隠し子であるという事実を伝手に社交界入りした点についても同様に。」
「教会の情報網も伊達ではないようですね。それで?かの毒婦に未だ邪心在り、とでも王家に報告するのですか?」
「まさか、そんなつまらない真似をするはずがないでしょう。私もこの教会に拾われるまでスラムで孤児として生きてきた。故にこそよく分かります。貴方の胸の内が、心に燻ぶる野望が、手に取るように分かるのです。」
淡く潤みながらもその内面の如くどこか濁ったように見える彼女の瞳、その一点を私はより黒く淀んだ眼差しでのぞき込む。高鳴る期待と興奮に口上はより饒舌に滑り出す。
「貴方はとても貪欲だ。自分一人だけなんて満足できない、そんな顔をしている。もっと多くの世の人々を巻き込んで事を成したい、そんな思いがひしひしと伝わってくるのです。さぁ、聞かせてください、貴方の望みを。」
やや食い気味に語りかける私の圧に押され、彼女はひた隠しにしてきた己の内を吐露し始めた。
「ええ、そうですとも!この際だ、全部ぶちまけてやりますよ!貴族社会に潜り込んで私は思い知らされました。彼らはより良い国政を、と口では言いながらも実際は精々平民階級程度までしか視野になく、私たち最下層の貧民など眼中にないのだと。だからこそ私は変えたい!嘲笑われ、捨て去られた者の力を知らしめてやりたい!そのためには富が、権力が何としても必要なのです!」
肩で息をするその姿にはいたたまれない悲壮感と力へ固執する必死さが見て取れる。やはり彼女は逸材だ。明確な目標への渇望と熱意、そしてそれを叶えるだけの能力を兼ね備えている。ならばあとは最後の欠けたピースを示してやればいい。私は内心でほくそ笑みながら残された一片、出世への方法という道筋へ誘導した。
「貴方は大変運が良い。時期も、身分も、そしてその技能も、全てが完璧だ。ならば成すべき事は1つ。」
もったいぶった身振りに彼女の注目が集まる。目を見開き、私は強く気迫を籠めて言葉を紡いだ。
「私と共に次なる『教皇』の位を目指しましょう。」
―――――
『教皇』、それはこの大陸全土に深く根付いた宗教、ナグライキ教における最高指導者の称号である。当然その位に登るなど高望みもいいところだが、あながちそれは突拍子もない願望とは言い切れなくなっている。
本来教皇は清貧に努め、神の恩寵を説き、万民の希望となる、そんな高潔な人物の理想として親しまれてきた存在だった。しかし、ここ近年はその在り方に変化が生じている。
宗教の与える影響の拡大と共に教皇はより世俗に近くなり、やがてそれは教会全体の腐敗の加速へと繋がったのだ。賄賂や忖度が横行し、聖職にありながらその地位を私欲の為に振りかざす者が多数を占める、そんな腐った組織の構造がそこにはあった。特に今現在教皇位に就いているアルフォンソ3世の横暴は凄まじく、親族縁者の積極的な登用、即ち縁故主義的な政策の悪評は国内外でも知れ渡っている。
だからこそ、だからこそユリウス神父とマルガレータにはチャンスがあるのだ。この時代、成り上がりに必要なのは人徳ではなく金、そしてコネ、それらが全てだった。人間としての内面ではない、要はどれだけ他者の欲望に沿えるかが肝心なのだ。その点がこの二人には有利に働く。長年の職務経験で培った神父の人脈、そしてマルガレータの類まれなる篭絡術、この二つをもってすれば教皇位も夢ではないと、そう神父は考えたのだ。
教皇の選出には多くの勢力の水面下での闘争が滲み出る。故に、その妥協案として新たな教皇には比較的年老いた者が選ばれやすい。老い先短い老人なら政権も長続きはせず、結果として単一の勢力が権力を独占できないように機能しているのだ。
かのアルフォンソ3世もその例に従い、老齢の身でその階級に至った。余命いくばくもない状態、なおかつ流行り病にまで罹患したその姿には、誰もが彼の死期が差し迫っていることを悟らされている。そう、つまり彼の臨終までに二人は賛同者を集め、新たな勢力を興さなければならないのだ。
教皇への就任を目指すユリウス神父、そして彼を補佐する修道女マルガレータ。二人三脚の成り上がりが始まった。
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神父はその修道院務めの功から打診されていた枢機卿の階級を長年辞退していたが、今年に入り遂にその任を拝領した。マルガレータという優秀な協力者との出会いに運命を感じ、彼は諦めかけていた夢に向かって走り出していたのだ。
枢機卿は教皇の選出投票に参加できる高位聖職者であり、この就任は彼の明確な教会権力への介入の宣言でもあった。ならば当然自らの陣営に取り込もうと接触を図る者も多数おり、連日彼の元には有力な、良く見知った顔ぶれが集いだす。大陸各地に幅を利かす商人、様々な派閥を率いる同輩たち、さらには周辺諸侯までもが来訪者に名を連ねていた。
如何にして味方に引き込むか、如何にして都合の良い駒としてやろうか。彼らの脳内はそんな複雑怪奇なる謀略が渦巻いていた。しかして彼らは知ることになる。肉欲の抗い難さを、本当の快楽を。
新たな老枢機卿の侍らすは一人の修道女、しかして彼女はかつての男爵家令嬢である。清廉とはおよそかけ離れた艶かしい身体つき、愛玩の如き可憐さを醸し出す仕草、そして何より絶頂から転落した身の上という寄る辺のない儚さに彼らはたちまち虜となった。なし崩しに床の間に押し倒し、行為に及ぶ。その快感を、欲情を獣の如く貪り合い夜の帳は落ちていった。
ミイラ取りがミイラになる、とはよく言ったものである。神父の懐柔に訪れた者はこぞってマルガレータに入れ込んでしまい、果ては逆に彼ら自身が二人の派閥へと吸収されるまでに堕ちた。
献金をばら撒き、武力をもって脅しつけ、房事においては心を射止める。
この二人だからこそできる手段、いわば外道にも近しい戦法すらも彼らは進んでやり遂げた。その先に待つ決戦を見据え、なにふり構わず穢れた道を歩んでいったのだ。
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一つの冬と夏が過ぎ、闘病の果てにかの巨悪、アルフォンソ3世が崩御いたしました。
故人には申し訳ありませんがこの時を待っていた、そう言わせてもらいます。
足早に行われた葬儀の後、九日間の喪に服する期間を跨ぎ、遂に念願の教皇選出の会議が行われようとしていました。新教皇の選出は定員80名の枢機卿たちの投票を午前、午後の二回繰り返した先に決定されるとのことで、当然ユリウス神父も前日から興奮冷めやらぬという状態でした。根回しは大丈夫か、賄賂は十分か、指名の打ち合わせはもう済んだか、など慌ただしく動き回る彼をなだめ、早めの就寝を勧める私自身ですら胸が高鳴っているのが感じられるのです。王太子殿下との婚約破棄劇ですらここまでの緊張はなかったあたり、私のこの戦いに賭ける思いも並大抵ではないのでしょう。
さて、そんな私たちの陣営の様子はと言えば、すでに枢機卿団の約四分の一が懐柔済みとなっております。初めは後ろ盾すらない状態からのスタートを思えば、中々良く頑張った方でしょうか。神父の巧みな交渉術もさることながら、彼らがこちら側に付き従ってくれたのはやはり私たちの生まれに起因するものでした。
前教皇から通例となりだした縁故主義政策、それは既存の枢機卿たちにとってはまさに最大の脅威なのです。いつ自分も権力の座を追われ、どこの馬の骨とも分からぬ輩に取って代わられるか、その恐怖を常に抱え疲弊する彼らは元来身寄りのない貧民出身の私たちに目を付けました。身内の登用に怯えるのなら、そもそも身内の居ない者を担ぎ上げればいい、そういった利害の一致が彼らをユリウス神父の推挙に至らせたのです。
しかし事はそう簡単にはいかぬもの、私たちの前に立ちはだかる壁も当然存在するのです。
我々と同じく四分の一の枢機卿たちの支持を占める派閥、前教皇の縁者たるルパープ家の一団がまさにそれです。彼らはいわばアルフォンソ3世直々の後継者という正当性があり、潤沢な資金を背景に多数の支援者を取り付けていました。神父の懸念としては自陣営の者が彼らに買収されているのでは、という拭い切れない不安があるのです。
さらに残りの枢機卿団にも人徳面を重視する真っ当な方、日和見主義な方、少数グループを率いる方など多くの勢力が混在しており、私たちの勝利も確実とは言い難いのが実情です。
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早朝の祈りから始まり、教皇選出会議は異状なく午前の部を終えました。
投票の権利こそ枢機卿に限られておりますが、補佐の聖職者も入場は許可されており、私はユリウス神父に連れ立って会場を後にしました。
選出会議は投票の前に意見陳述の機会が設けられており、一部の方はその場を利用して次代の教会の課題を示し、あわよくば己を売り込もうとします。当然彼もこの一部の方に該当し、その弁論をもってどれだけの中立派をこちら側に傾けれるかが勝負の分かれ目となるのです。
「今のところ裏切りの兆しもなく、順調に進んでますね。」
「ええ、しかし私の呼びかけにどれだけの方々の心を動かせたのか、それが気掛かりです。所詮は我欲に溺れた老獪の言、大して響きもしないでしょう。」
言葉の端々から感じる自嘲の念、それはまた同時に彼の肉体面での衰えも感じさせられました。当然でしょう、ここまで権謀術数を張り巡らせようとも彼は所詮老い先短い老人、実際には今日一日の過密スケジュールですら疲れの波として押し寄せてきているのです。
足取りの重たい彼に寄り添い、支えの役目を果たす、房中術くらいしか取り柄のない私には精々これくらいの手伝いしか今は出来ません。
初めは互いに利用するだけの関係でした。私が多くの男に股を開くことを咎めないどころか、むしろ積極的にそれを活用する、そんな男など信用できるはずがないでしょう。
ですが私は知っているのです。彼が夜な夜な懺悔の言葉を吐き、嗚咽を流していることを。罪深い行為に手を染めることの悔恨を、そしてそれ以上に私という一人の少女に苦労を強いていることへの謝罪を嘆き続けているのです。決して表には出さない、否、出すことのできない彼の憂悶に私は触れました。
尊敬はしません。恋愛感情なども抱きはしません。それでも私は彼を信頼はするようになりました。その微妙な距離感が、私には今まで未体験だった家族の温もりというものに感じられたのです。私と同じくらいの、もしかするならそれ以上の悪であろうと、私は最期まで彼と共に戦い抜くと誓ったのです。
軽く昼食を済ませ、私は再び彼と共に会議堂まで足を運び始めました。
次の彼の登壇時の演説、それが全ての分け目となる午後の部は言わば教皇選出の天王山とも受け取れる場面であり、当然私たちの意識は嫌が応にも張りつめたものになります。
だからでしょうか、周囲に警戒を向ける余裕などその時の私には皆無であり、故にこそその隙を突かれてしまったのです。
角を曲がった先、突如物陰から貧相な身なりの男が飛び出し、彼は瞬時にユリウス神父の元へ間合いを詰めました。
あ、と私の無様な声が零れた頃には神父の胸には既に鋭利な刃が突き立てられており、赤い血潮がとめどなくあふれ始めているのが見て取れます。咄嗟の判断で下手人を突き飛ばし、私は急いで血反吐を吐きながら床に倒れこむ彼に駆け寄りました。短剣は心臓の辺りに深々と差し込まれており、傷口から流れる鮮血の大河が彼の命が風前の灯火であることを顕著に物語っています。
その場を後に走り出した下手人は騒ぎを聞きつけ集まった他の枢機卿たちにたちまち取り押さえられ、私はそれを尻目に応急処置を試みるのですが、その流血は留まるところを知らず、あろうことか彼の指先からは温もりが失われるまでに段階は進んでいました。
目の前の唐突な惨状に私の心は酷く動転し、視界すらもぼやけていきます。嘘だ、嘘だ、これは悪い夢だ。何度心中で同じ言葉を反芻すれども現実が変わることはなく、服に滲む赤の鮮やかさだけが確かなものとなる様に遂に私は涙すら溢していました。
「大丈夫、落ち着いてください。全てはきっと上手くいきますから。」
弱々しい細指がそっと頭をなで、私はそれが彼から私への呼びかけであると理解しました。
「こうなることは薄々勘付いていました。ルパープ家は対抗馬となる私を真っ先に抹消しに来ると、そう読んでいたのです。」
「ならば何故、何故それを受け入れたのです?!事前に警備を増やすことだってできたし、私を盾にして生き延びることだってできた。なのにどうしてあなたは死を受け入れようと…。」
「貴方に未来を賭けたからですよ。」
なけなしの気力を振り絞り、彼はその最後のはかりごとを明かしていきます。まるで遺言のように、今わの際の激昂のように。そっと優しく、しかして力強く神父は語りかけてきました。
「貴方には最後にお教えしようと考えていましたが、我々の派閥は当初から投票用紙にはマルガレータ、貴方の名を書き記していました。他陣営には私が推挙されていると錯覚させ、その実、本命は年若い貴方を選ばせていただいたのですよ。『教皇には老い先短い者が就任すべきだ。』そんな暗黙の了解の裏をかく、それが今回の作戦でした。」
息を切らし、喉から迫り上がる血の塊に咳き込みながらも、彼はなお己を奮い立たせ続けました。あと少し、ほんの少しの間の延命を切に願い、必死に足掻かんとする姿、そこには彼の並々ならぬ執念と雄志が感じ取れます。
「おそらくルパープ家は最王手の候補を物理的に消した後、その混乱を利用して派閥を切り崩し強引に票を勝ち取るつもりだったのでしょう。しかし結果は大失敗、派閥は崩壊どころかより強い結束で持ち直し、中立派には邪魔者は容赦なく切り捨てる冷血漢のイメージを抱かれてしまった。ならば後は貴方が悲劇のヒロインを演じ切れば枢機卿団の形勢は一気にこちらに傾くでしょう。」
「分かりません。たとえそうなのだとしても、あなたがそこまでして私の為に命を懸ける理由が分からないのです。」
私は半ば憤慨すらも孕み、なお泣き崩れながら質問を投げ付けます。
貧民街に生きていた頃は死が日常にあり、他者の生命の終わりなどさして興味を抱けませんでした。しかし今は違います。これほどまでに目の前で消えゆく命が愛おしいと、終わらないで欲しいと願っているのです。母には最期の日まで名前すら呼んでもらえず、男爵家では厄介者として疎まれ続け、そんな人生の中初めて出会えた他者からの温かみが、血すら繋がっておらずとも感じれる家族のような安心感が私の感性すら変えてしまったのでしょうか。ともかく私は彼との離別を認めることができないのです。
「これが私にできる唯一の贖罪ですから。」
刻々と力を失う彼の身体を支え、私はその一言一句すら聞き逃さぬよう顔を近づけました。彼の皺にぽたぽたと私の涙がこぼれるたび、彼が物悲しそうな表情をしているのが伝わります。
「同意の上とはいえ、私は貴方の肉体を立身出世の道具として用いました。貴方は強がって『こんなのは慣れっこだ。』と言いますがやはり無理をしていることが隠しきれていない。私はそれに気付いていながら、見て見ぬふりをして今日まで歩んできたのです。それは許されない、許されるべきではない大悪です。」
「そんなことありません!私はあなたがいたからここまでこれたのです!」
「嬉しいことをおっしゃって下さる。しかし、私は悪人だ。貴方にも最後まで辛い立ち回りを強要させてしまう、そんな鬼畜生だ。こんなところで立ち止まっている場合ではないと、私ははっきり宣告するのです。私にほんの少しでも恩義を感じて下さっていると言うならば、物語を進めるのが義理というものだ。さぁ、今こそが好機です。憎き対立者を廃し、その勢いに乗じて教皇位に手を伸ばしたルパープ家、その目の前に立ち塞がるは大本命たる悲劇の少女、それこそが今の貴方に与えられた役目なのです。私が命を投げ打って作り上げた最低最悪の舞台、ぜひ上手に演じ切ってください。」
血の気の失せた腕にそっと押され私は悟りました。行かねばならぬのだと、この今生の別れを乗り越え、二人の大願を一人で背負い歩かねばならぬのだと。体温は冷めきり、今にも崩れ落ちそうな神父のその手を握り返し、私は立ち上がりました。
「未来ある若者の糧と成れて、私は幸せですよ。」
かすれ声の最期の挨拶にうなずきを返し、血まみれの凶器と彼の法衣をそばの者から受け取り、私は前を見据え歩みを進めました。彼の無残な死の証拠を携え、憎むべき一族の糾弾を、そして真に教皇に成るべき者の正義を示しに向かうのです。『何より、美しい少女の悲嘆の涙に心動かされぬ者など居りますまい。』いつか神父がつぶやいていた言葉も、今考えるなら今日この日のことを指していたのかもしれませんね。
この悲しみも、涙も、全てが本物なのだとしても私は与えられた役を纏い立とう。例えこれが彼の筋書き通りの舞台だとしても、私は喜んでその掌の上で踊ってやろう。
そんな決意を胸に私は会議堂の扉をあけ放ったのでした。
―――――
元プリステス男爵家令嬢マルガレータ改め、第216代教皇マリアンヌ1世、彼女の治世は非難轟々の幕開けとなった。あからさまな非正規手段による教皇位への選出は当然多くの反感を呼び、彼女の出身地たるフランティア王国王家やルパープ家一門は公然とその体制を否定する立場をとっていた。
しかし後世の有識者の多くはマリアンヌ1世を擁護する持論を展開している。
史上初めての女性教皇という点や枢機卿ユリウス神父との親交など勿論特筆すべき点は多々あるが、やはり何と言っても彼女の残した業績こそがその評価を高めている要因なのだろう。
前教皇アルフォンソ3世が次代の親族後継者の享楽の為に用意した莫大な教会財産、彼女はそれを何の惜しげもなく公共事業に投資した。具体的に言えばそれは徹底的なまでの貧困層への支援に他ならず、各地には多くの孤児院や学園が建立され、貧民街の衛生や治安も年を追うごとに徐々に改善されていった。
教会直営の学園からはやがて高い能力を活かし、諸国の国政で辣腕を振るう者も輩出され始め、やがてそれは各地での非貴族出身の高官登用の一大ビックウエーブを生むことに繋がった。多くの歴史家はこれこそが本大陸における民衆独立の先駆けであると位置づけている。
即ち彼女の即位以前からの望みとして掲げられていた『社会的弱者による貴族階級に対する逆襲』は無事成功したと捉えることができるわけだ。
しかし即位に至るまでに後ろ暗い過去があったのもまた真実である。野望の為には悪さえも許容すべきか、その点についてはしばしば議論の題材として槍玉に挙げられることが多い。
だが何にせよ、彼女は一度は墜ちた身から這い上がり、下克上を成し遂げた女傑であることに変わりはない。歴史は勝者が作る、そんな言葉をよく耳にするが、このように敗者でありながら見事に復権を成し遂げた者もいることは注目に値する。我々もこれに習い、一度の敗北や座越に挫けず彼女のように大望を抱いて事に当たりたいものだ。
《ナウロパ大陸教会史 第六章》より抜粋
ここまで読んでくださったことに感謝です。
ご意見、ご感想お待ちしております。
誤字報告して下さった方、ありがとうございます。