愛されたい [クララの視点]
それは本当に突然のことだった。
王女様の侍女に上がって十日目の夜、私はいつもより早い時間に王女様の部屋に呼ばれた。
王宮勤めは、十日連続勤務で三日連続休暇という、シフト制が採用されている。
明日から三日間は帰省することになるので、みな支度が忙しいのだろうか。
王女様のお部屋には、他の侍女は誰もいなかった。
「クララ、明日の準備は終わったかしら」
王女様は洗いざらしの髪にくつろいだ部屋着で、真っ赤なワインを飲んでいた。
少し呂律があやしいところを見ると、随分と酔っているようだ。
いつも殿下の部屋に行く前には、念入りな支度をされているのに、今夜はお化粧も落としたままだった。
「はい。それほど持って帰るものもありませんし」
三日ほどの里帰りに、大きな準備は必要ない。私の場合は領地が遠いので、王都近郊のタウンハウスに帰るだけだ。ほとんど手ぶらでも問題なかった。
「よかったわ。じゃあ、今夜は私のために働いてくれる?」
王女様はホッとした顔をして、嬉しそうに聞いてきた。
「はい。なんでもお申し付けください」
夜は特に仕事もないし、王女様のお願いを断る理由はなかった。
「今夜、私のかわりにアレクのお世話をお願いしたいの」
「え?それは、あの、どういう…」
私は耳を疑った。王女様のお世話ではなく、殿下の……?執務室の業務のことだろうか。
政務については何の知識もないし、ましてや業務に携わった経験もない。どう考えても無理だろう。
「私、そういった経験がなくて、あの……、ちゃんとできるでしょうか」
王女様は私の返答を聞いて、なぜか一瞬、とても驚いたような顔をされた。
そして急に満面の笑みをうかべて、私のそばへ駆け寄ってきて、優しく私の髪をなでた。
「大丈夫。そんなに難しいことではないわ。すべてお任せすればいいのよ。引き受けてくれて嬉しいわ。アレクもとても喜ぶわ」
そうだろうか。足手まといなだけでは?
それでも、王女様のこの様子では、この後そう長く起きているのも、厳しそうだった。あきらかに飲みすぎだ。
「私でよければ、よろこんで」
その返答を聞いて、王女様はとても満足されたようにソファーに腰掛けて、呼び鈴を鳴らした。
それに応えて部屋に入ってきたのは、上司である侍女長様だった。
「支度は侍女長がするわ。大丈夫、この人はプロだから」
「え、あの、私、このままで大丈夫です」
上司に支度をしてもらう部下がどこにいる?いくら王女様のお願いでも、そこは職業婦人として固辞しなくては!
そんな私を、王女様はまじまじと見つめて、ため息をついた。
「そういうのが好み?たしかにガードが堅いほうが、男の征服欲をそそるかもしれないけど。でもその服はボタンが多すぎるわよ。脱がせにくいと思うわ」
「何の話ですか?」
「いやだわ、クララ。今夜は私の代わりに夜伽にいくのよ」
「ええっ!」
私は思わず大声で叫んでしまい、侍女長様から厳しい叱咤が飛んできた。
それは無理!無理無理無理!ないないないない!それはない!
「王女様、それは無理です!そんなことできません!」
私がそう言うと、王女様はソファーからスラリと立ち上がって、私のほうをじっと見つめた。
その顔は真剣で、思いつめたような気迫があった。
「アレクはとてもお疲れなの。癒やしてさしあげる人が必要だわ。でも私は今日はお相手できない。クララ、あなた、相手がアレクでは不満なの?」
「王女様、そんな意味ではなくて!いくらなんでも無理です。殿下だって嫌がられます!」
「そんなこと。試してもいないのに、分からないでしょう?」
王女様が笑いながらそう言うと、それを引き受けて侍女長様が静かに言った。
「殿下には、王女様の代わりに侍女がくること、すでにお伝えしています」
その言葉には、なんの感情も入っていないように聞こえた。
「いえいえいえいえ!無理です。そんなの無理です!」
私が泣きそうになって言うと、王女様はため息をついて、ゆっくりと目を伏せた。
「そうなの。どうしてもダメなのね。そうよね、あなたにはローランドがいるものね」
ローランドは別に関係ない。
でも、理由はなんであれ、王女様はどうやら諦めてくださったようだ。私はほっと胸をなでおろした。
それなのに、その後の言葉を聞いて、私はさらに追い詰められることになってしまった。
「今夜はヘザーにお願いしましょう。クララがローランドのために断ったと聞けば、ヘザーは引き受けてくれると思うわ。婚約者もいないし、兄上殿もお咎めにはならないでしょう」
「ちょ、ちょっと待ってください!ヘザーには好きな人がいるんです!」
「そんなこと言ってなかったわよ?」
「ヘザーがかわいそうです!いきなりそんなことになるなんて!」
「彼女だって、いつかは政略結婚をしなくてはいけないのよ。親友の幸せのためだと知れば、きっと聞き分けてくれるわ。それに殿下は情が深い方よ。ヘザーを優しくかわいがってくださるわ」
「そんな」
私は王女様の言葉に真っ青になった。
ヘザーは、ヘザーなら、どうするだろう。ちゃんと断われるだろうか。殿下のお相手をするのは嫌だと言えるよね……。
ううん、ダメ。王女様は本気だ。私かヘザーのどちらかを、必ず行かせることになる。
私が断れば、ヘザーが行くことになる。ヘザーは私とローランドのためなら、絶対に引き受けてしまう。
じゃあ、殿下はどうするだろう。ちゃんとヘザーの伽を断ってくれるだろうか。
大丈夫、殿下は断ってくれる。きっと大丈夫。だって、殿下は王女様を。
「私には他に愛する人がいるの。身も心もその方に捧げているわ」
私は王女様の言葉を思い出した。
殿下は王女様に愛されてはいない。優しい殿下がそれを知っていたら、どれだけ苦しいだろう。
得られない王女様の心の代わりに、別の誰かを欲っしても不思議じゃない。
殿下はそれを望んでも許される身分だ。
その相手がヘザーであっても、誰であっても。そして、その人が、やがて殿下の子を産む。
そんなのは嫌だ。王女様以外の人が、殿下に愛されるなんて嫌だ。
「さ、クララはもう戻っていいわ。ヘザーを呼びましょう」
王女様の声に、私の決意は固まった。
ヘザーを巻き込んではダメだ。ここで止めないと、取り返しがつかないことになる。親友を人身御供にはできない。
……違う、そうじゃない。これは、人助けなんかじゃない。私の本当の気持ちは、そうじゃないんだ。本当の理由は、私にだって分かってる。
ヘザーが殿下に愛される。そんなことを考えるだけで胸が苦しい。この気持ちは、ヘザーのためなんて、そんなきれいごとじゃない。
「私が行きます」
気がついたときには、もうそう言ってしまった後だった。
王女様は嬉しそうに頷くと「ありがとう」と言って、寝室のほうへ退出してしまった。
「クララ様、こちらの奥のドアから、後宮に入ります。お支度はそちらでいたしますので、ついてきてください」
侍女長様はことの成り行き判断し、部下である私を様付けで呼んだ。殿下の側室候補として。
もう後戻りはできない。私は覚悟を決めた。
後宮と呼ばれる場所は、かつて王族の愛妾が囲われていたところだと聞く。
私はそこで全身を磨きあげられ、真っ白な夜着を着せられた。
鏡の中の私は、まるでウェディングドレスを来た花嫁のように、頬が上気して見えた。
体だけでもいい。一瞬だけでもいい。殿下に、アレク先輩に、愛されたい。
もう自分の気持ちをごまかせない。私はすでに引き返せないくらい、殿下を愛してしまっていた。