月の女神
王宮の朝は早い。だが、3時半という時間はまだ早朝とすら呼べないだろう。
いくら急を要するといっても、一国の王女が他国に到着するべき時間ではない。特に夜は警備が手薄になるのだから。
それを押しての行幸とは、ずいぶんと強行軍だったものだ。
不在である父国王の代わりに、私とその側近たちが我が国の代表として、王女を迎えた。
王女が乗っているとは思えないような、簡素で地味な馬車が到着する。
国境の砦からは我が国の騎士も、従者に身をやつして警備をしてきたが、それでも目立たないように人数を抑えてあった。
馬車を先導していた隣国の騎士が、馬から降りて馬車の取っ手に手をかける。
まるで夜そのままのような、真っ黒なマントとフード。闇にその姿を隠してはいるが、かなりの使い手だ。その身のこなしに隙はない。
馬車のドアが開く瞬間、ピリッと空気が破れるような音がした。馬車には護符が施してあったようだ。
中から、やはり夜の闇色のコートを着て、そのフードで顔を隠した女性が現れた。騎士の手をとり、ゆっくりと馬車を降りる。
そして、その女性は門の中に入ると、安心したようにフードを取った。
そのとたんに、月もでていないというのに、まばゆいばかりの銀髪が輝き、灰色の目が嬉しそうな笑みを湛えた。
「おひさしぶりね、アレク。会いたかったわ!こんな時間にごめんなさいね」
そういうと、彼女は腕を大きく広げて、私の首にまわしてきた。
彼女の華奢な背中をぽんぽんと軽くたたいてから、私はその腕をつかんで下ろし、さっとその場に跪いた。
「セシル王女には、ご機嫌うるわしく」
それを見た王女が、すっと右手を差し出したので、私はその手の甲に敬愛の口づけを落とした。
すると王女はふふっと笑った。
「相変わらずお堅いのね。まあ、いいわ。とにかく中へ入れてちょうだい」
王女が従者たちに合図をすると、馬車はそのまま闇に消えていった。
王女のそばに残ったのは、さきほどの夜の騎士だけだった。名はレイという。
「レイのことは気にしないで。私の護衛よ。部屋に通しておいて」
レイは、正確に言えば騎士ではなく、高位の魔術師だ。その功績は他国にも広く知られている。
王女の護衛であり、いつ何時でも王女のそばを離れない。影のような存在だ。
「カイル、案内を頼む」
私がそう言うと、レイは黙礼をして、カイルのほうへと歩いていった。
レイはカイルとは初対面のはずだ。それなのに、不思議と張り詰めていた空気が緩んだ。
レイが警戒を緩めたせいだが、何故だろうか。
私はそのまま、王女の腰に軽く手を当てて、王宮へといざなった。
夜通し馬車に揺られたにしては、王女の顔に疲れはなく、その歩みは軽やかだった。むしろ私の足取りのほうが重い。
「部屋で少し横になりますか」
それでも私は王女の体調を気遣って言った。
「貴方の部屋に行きたいわ。いいでしょう?」
彼女の挑発的な言い方に、私は言外の意図を感じ取った。だが、自分達の立場を考えて、敢えて釘をさした。
「まだ夜中とも言える時間帯です。淑女が男性の部屋を訪ねると、あるいは貴方の醜聞にもなりかねませんが」
それを聞いて、王女はまた楽しそうに笑った。
「気にしないわ。いいじゃない。私たちは婚約者でしょう。貴方の部屋で温まりたいの」
「承知しました」
私はあきらめて承諾した。ここで固辞することは、王女の体面を傷つける。
配下の者たちは、あれこれと憶測を言い広めたりはしないだろう。
だが、ローランドがどう思うのかだけは気がかりだった。守秘義務があるとはいえ、感情まで秘めることは難しい。
そして、隠したところでどこかかから情報は漏れる。それが王宮だ。
私は王女をそのまま自分に私室へと案内した。彼女を中に入れると、誰も近づけないよう衛兵に指示を出す。
側近たちはおのおのが私に挨拶をし、それぞれ予定されていた業務へ戻っていった。
私はローランドの顔を見ることはできなかった。彼が私をどう思っているのか、それを知りたくなかった。
「ずいぶんやってくれるじゃないか」
勝手知ったる私の部屋で、セシルはどかっとソファーに腰を下ろした。
この王女は昔から猫かぶりだ。ごく親しいものにしか、その本性を見せることはない。
「しょうがないじゃない。どうせ王宮中には父と北方の手のものが入ってるし、貴方の部屋くらいでしか気が抜けないわ」
セシルはコートを放り出して、テーブルの高坏にもられたチョコレートを頬張った。
「確かに、私の部屋は強固な魔法陣で結界が貼られてはいるが、それにしたってわざわざあそこで、ああいう態度は不要だろう」
私は少し呆れて言った。しかし、セシルは全く意に介さないようだった。
「ふふ。私、このチョコレート大好き。辛党の貴方の部屋にこれがあるってことは、貴方もある程度は期待していたんでしょう?私との熱くて甘い逢瀬を!」
悪戯っぽくウィンクしてくるセシルに、私はやれやれとため息をついた。
確かに熱くて甘い、彼女の大好物のホットチョコレートも用意してあった。
彼女が私と個人的な会合を持とうとするとは、ある程度予想はできていたから。
「私の配下は北方のことは知っている。だがら、あそこで演技する必要はなかった」
セシルはそれについては何も言わず、立ち上がってこちらに来た。
そして、先程のように私の首に腕を回し、体をピッタリと寄せてきた。
さすがの私も、彼女の甘い匂いに少しくらっとして、自分の腕を彼女の腰に回した。
「敵を騙すには、まず味方からって言うでしょう。それにここも完全ではないわ。だからこのままで聞いてちょうだい」
他には誰もいない部屋の中にもかかわらず、セシルは耳元に唇を近づけてささやいた。
彼女は絶世の美女と誉高い。私じゃなければ、簡単に籠絡されただろう。
私はセシルを腕に抱いたまま、隣国の状況を聞いた。
思った以上に事態は深刻だった。
セシルとの軍議は日が高くなるまで続いたが、その間、彼女は僕の腕の中から離れることはなかった。