婚約者の仮面 [クララの視点]
カイルと食べた晩餐は、素晴らしかった。
素材の良さを引き出す調理法は、この屋敷のシェフの腕にかかっているはずだ。
テーブル・セッティングもすばらしく、いくつもの燭台に灯るロウソクの火が、さらに料理を美味しく見せていた。
それでも、私は、あまり量を食べることはできなかった。
王宮を出た日から、ずっと食欲がなかったので、胃が縮んでしまったということもある。
でも今は、それよりも緊張のほうが大きいと思う。
カイルと話し合わなくてはいけないことが、たくさんありすぎて。それを順序立てて話せるかどうか不安で。
デザートのいちごシャーベットを食べ終わった頃、私はやっと本題に入ることができた。
「あの、カイル。謹慎中だって聞いたんだけど。喧嘩したって……」
「未熟な人間なのを恥じてるよ。でも、相手に怪我はない」
「カイルは?怪我はしてないの?」
「ないよ。謹慎も明日までだし」
よかった。私はほっと胸をなでおろした。
双方に怪我がないなら、それほど大事にはなっていないのだろう。謹慎は、反省を促すための措置に違いない。
「謹慎中なのに、家にいなくてよかったの?」
「王宮への出入りを差し止められただけで、外出は問題ない」
「そうなの。よかった。今日はどこに行ってたの?」
カイルが会話に少し間を置いたので、これは聞いてはいけなかったのかもしれない。
どこへ行こうとカイルの自由であって、私に聞かれる筋合いもないだろう。
「預けていたものを取りに行ってたんだ。ヘザーが来たときに家にいなくてすまない」
「わ、私こそ。勝手にヘザーを家に入れてしまってごめんなさい。その、あのときのことなんだけど……」
今がチャンスだ。婚約の話をすぐに取り消してもらわないと。
私のためについてくれた嘘だけど、このままだとカイルに迷惑がかかってしまう。
焦る気持ちを抑えるように、私は話す順番を頭の中で確認した。
そんな私の様子に、カイルには何かを察したようだった。私を誘導するようにして、サロンに移動した。
移動の間も、私の頭の中はぐちゃぐちゃだった。どうすれば、すべてが丸く収まるのか。
結論はでていないけれど、とにかく婚約はダメだと思う。
そう言おうと思ったとき、急にカイルは私の前で片膝をつき、ゆっくりと私の右手を取った。
その行動に驚く暇もなく、カイルの言葉で更なる衝撃が私を襲った。
「クララ、僕と結婚してほしい」
私は頭が真っ白になり、しばらく思考が停止した。これはプロポーズというものなのだろうか?
なぜ?なんでカイルが私にプロポーズしているの?
「どうして、私と?」
思っていたことが、そのまま口から出てしまった。
でも、だって、これはおかしい。カイルから結婚を申し込まれる理由がない。なにかの間違いだと思う。
「北方から、君を守りたい。今、それができるのは僕しかいない。王女にも頼まれている」
カイルの返答を聞いて、私は急に力が抜けた。
そうか。そうだったんだ。王女様と殿下の婚約を確固たるものにし、私が殿下の愛妾であるという猜疑を晴らす。
王宮を出たときから、これは決められていたことなんだ。
王女様の命令では、私たちに選択権はない。私が拒否すれば、カイルにまで迷惑をかけてしまう。
私の存在意義って一体何だろう。誰の役にも立たないどころか、みんなの迷惑にしかなっていない。
いっそ消えてしまったほうが、誰のためにもいいかもしれない。
「分かりました」
カイルは勘がいい。私の悲痛な心を読み取ったのか、まるで泣いている子をなだめるように優しく言った。
「今すぐに、結婚するわけじゃない。当面は、婚約者になるだけだ」
それを聞いて、私はますます悲しくなった。
こんなふうに優しくしてもらえる価値なんて私にはない。誰にとっても邪魔者なだけの存在。それが私なのに。
「形式だけの婚約者……ということですか?」
「そう思ってくれていいよ」
それを聞いて、少しだけ安心した。情勢が落ち着いたら、すぐにカイルをこの任務から解放してあげられる。それなら、私の罪も少しは軽くなるだろう。
「……よろしくお願いします」
今はもう、そう言うしかない。
私のせいで、こんな目に合わされるカイルに申し訳なくて、私はもらった婚約指輪もよくよく見ることもできなかった。今日はわざわざ、これを引き取りに出てくれたらしい。
お芝居の小道具みたいなものに、こんなにも労力とお金を使わせてしまうなんて。私って、どれだけ図々しいんだか。
あまりの情けなさに目頭が熱くなり、私は急いで頬を手で包んだ。大丈夫。泣いたりしない。
せっかく頑張って茶番に付き合ってくれているカイルの気分を、害してはいけない。
「ありがとう。嬉しい」
私が精一杯の笑顔を作ってカイルを見上げると、カイルも優しく微笑んでくれた。その心遣いがかえって辛かった。
婚約者の義務として、私たちを唇を重ねた。
次第に深まっていくカイルのキスに応えながら、私はスパイスが香る甘いワインに、酔わされているような感覚に堕ちていった。
暖炉にはもちろん、グリューワインの鍋はかかってはいなかった。
翌朝、私はいつもと同じ時間に、マリエルに叩き起こされた。
昨夜は遅くまでカイルと一緒だったので、いつもより睡眠時間は格段に短い。眠い目をこすりながら、私はのそのそと寝台から降りた。
「おはよう、マリエル。カイルは?」
「もうとっくに起きておいでですよ?お呼びします?」
昨夜の醜態を思い出して、私は首をブンブンと振った。
いくら婚約者らしくとは言っても、淑女としての振る舞いにしては、ちょっとあれはやり過ぎだ。
カイルはさぞ呆れているだろう。たぶん、私は酔っていたのだ。シャンパンとカイルに。
真っ赤になっている私を見て、マリエルはにやにやと笑っている。
だから、そういう生暖かい目でみるのはやめてほしい。穴があったら入りたい。
それでも、この婚約をみなが祝福しているようだ。偽装なので、騙しているのは申し訳ないけれど、それでもこの状況はありがたいと思う。
婚約者という立場に守られると、こんなふうに安らげるとは思わなかった。
私にはやっと居場所ができた。この役目が終わるまでは、私はもう何も考えなくていい。殿下のことも、これからのことも。
そう思うと、不思議と心が凪いでいく。
「さあ!今日は式典ですよ!婚約発表をされるクララさまも、今日の主役といったら主役なんですからね!しっかりお支度しましょう!」
「その前に何か食べたい」
マリエルにコルセットを付けられる前に、朝食を食べておきたい。
空腹のために倒れるなんてことは、今日は絶対にできない。
一世一代の舞台の幕が上がったら、私は全身全霊で、この役を演じきらなくてはいけない。
カイルの婚約者という仮面をつけて、私もやっと殿下の役に立つことができる。国のために、義務を果たせる。
私はそれが嬉しくて、そしてちょっとだけ泣きたい気分になった。




