君は光、僕は影
「明後日の婚約式なんだけど」
呼び出しに応じて部屋に戻った私に、セシルは早速、要件を伝えてきた。
私は上着を脱いで、テーブルの上に置いた。
まだ夕方という時間だが、つい癖でブランデーの瓶に手が伸びそうになったのを、セシルに止められた。
「まだ、飲むには早いわ」
「すまない」
クララが王宮を去った日から、どんなに体が疲れていても眠れず、アルコールの力に頼ってしまっていた。
飲みすぎだと自覚はあるのに、自制ができないことを恥じていた。
「後で、魔法茶を運ばせるわ。すぐに眠れるから」
「そうだな。頼む」
魔法茶には強い睡眠作用があるため、就寝中の防衛力が落ちる。
それを危惧して使用していないが、さすがに少し強制的にでも、寝たほうがいいかもしれない。
「式では、クララの婚約発表もするわ」
やはりそれか。そういう話だとは思っていた。
セシルが僕の部屋で話すことは、たいていが最高機密だった。
王宮内はどこで誰が聞いているか分からない。内通者の洗い出しも遅々として進まない中、クララに関しての話題には、細心の注意が払われていた。
そうか、今夜、私に魔法茶が必要だと言ったのは、つまりそういうことなのか。
「わかった」
私は眉間を指で押さえながら、ソファに腰を下ろした。頭がガンガンと痛む。
これは実際の痛みなのか。それとも精神的なものなのか。
「他にも、婚約するカップルがいるのよ。それで、段取りなんだけど」
「ああ、いいよ。君に任せるから。よろしく頼む」
私は適当に手を振って、その話題を終わらせようとした。だが、セシルはかまわず続けた。
「筆頭公爵家だから、ローランドから奏上してくることになると思うわ」
「わかったから。もうこの話はやめてくれ」
セシルはふーっとため息をつき、ブレンデーの瓶を手にとって、グラスに注いた。
そして、一つを私に手渡し、自分は一つを掲げた。
「愛しい婚約者のために。今日はこの一杯で終わりよ」
私は適当に杯を掲げて、そしてぐっとブランデーを煽った。喉を通る強い刺激に、喉が詰まるような感じがした。
「クララは元気よ。ヘザーに様子を見てきてもらったの」
どう答えていいか分からず、私は黙って暖炉の灯に反射して光るグラスを見つめていた。
「縁って不思議なものね。貴族は政略結婚が基本よ。だから、たとえ一方であっても、愛する人と婚約できるなら、それはとても幸せだわ」
「そうだな」
一方であっても……か。そうかもしれない。
ローランドはクララを愛している。ずっと昔から。子供の頃から。
お忍びで遊びに行った公爵家で、僕は初めてクララに会った。今から十年以上前だ。
クララはまるで妖精のように可愛くて、僕は一目で恋に落ちた。こんな子を妃にできるなら、王太子になるのも悪くないと思うくらいに。
そして、その頃はもう、ローランドはクララを愛していた。
クララは、誰を愛しているのだろうか。
あの夜、ソファーで抱きしめたクララは、たしかに私のものだった。そう思った。
だが、彼女は最後まで、自分の気持ちを口には出さなかった。僕を好きだとは言わなかった。
彼女が誰を愛しているのか、私は知らない。私が知っているのは、私が彼女を愛していることだけだ。
「話がそれだけなら、もう戻るが」
私はグラスを置いて、ソファーから身を起こした。ブランデー一杯では、頭痛は消せなかった。
これ以上、クララのことを思い出すのは辛い。できれば仕事に没頭したかった。
「いいわ。でも、ローランドも婚約するのだから、ちゃんと祝福してあげてね。じゃないと、ヘザーが心配するから」
執務室にはローランドがいる。この話を聞いたあとで、黙っているわけにはいかないだろう。
それに王女の秘書になったヘザーはクララの親友だ。私のローランドへの態度が、ヘザーからクララに伝わることもあるだろう。
クララを不安にさせてはいけない。
「言われなくても、分かっているよ。心配しないでくれ。義務は果たす」
私はそう言うと、逃げるように部屋を後にした。
ドアを締める直前に、背後にセシルの重い溜息を聞いた気がした。
運がいいのか、悪いのか。気分転換に出た回廊で、ローランドに遭遇してしまった。
この男を避けたくて執務室に戻る前に寄り道したのだが、それが仇になった形だった。
私を見たローランドは、すこしきまり悪そうな顔をして、そっと道を開けた。
ローランドにとっても、私を避けたかったことだろう。
主の想い人と結婚するというのは、ローランドのような忠誠心の篤い臣下にとっては、それほど気分がいいものでもないはずだ。
だが、主従である前に、私たちは友人であり、ただの男だ。
一人の女を争って、勝ち得たことに身分の上下は関係ない。潔く負けを認めるしかない。
「セシルから聞いた。正式に婚約するそうだな」
ローランドは少しだけ戸惑ったように見えたが、すぐに黙って頭を下げた。
「ご報告が遅くなって申し訳ありません。急に決まったことだったので」
クララのために、彼女の婚約を急がせたのは我々の事情だ。ローランドが恐縮する謂れなどない。
それなのに、どこまでも謙虚な態度を取る友人に、私は敗北感でいっぱいになった。
人としても、男としても、私はこの男には及ばない。
そして、同時に目がくらむような嫉妬も覚えた。そのせいなのか、私の口調は挑むようにきつくなった。
「本当に彼女を幸せにできるのか」
ローランドは私のほうを見て、ゆっくりと頷いた。その落ち着きが、揺るぎない自信を感じさせ、私はさらに焦燥感に駆られた。
「僕たちは幼馴染です。長いこと一緒にいて、気心も知れています。お互いによい伴侶になれるかと」
「そうだったな。とにかく、おめでとう。幸せになってくれ」
「ありがたきお言葉」
ローランドは胸に手を当てて、私に臣下の礼を取った。私もそれに、鷹揚に頷いてみせた。
茶番だとはわかっているが、とにかく、このまま、この猿芝居を終わらせなくてはいけない。
それが私たちに、今、この場で科せられている課題だった。
私たちが次の言葉に窮しているところで、思わぬ助け舟がでた。
少し離れた場所に、ヘザーが控えていた。
私が自分の存在に気がついたと知り、ヘザはカートの端をちょっとつまんで、淑女の礼を取った。私もそれに黙礼した。
「申し訳ありません。少し出てきていいでしょうか」
ヘザーの姿を見て、ローランドがそう言った。
ローランドはずっと、王宮に詰めている。クララの様子を、聞きたいのだろう。
それを止める権利など、私にあるわけもない。
「ゆっくりしてこい。婚約者が気になるだろう」
「お心遣い感謝いたします」
ローランドはそう言うと、ヘザーの元へと足早に去っていった。
そう言えば、ローランドとヘザーも幼馴染だったと、そのときに気が付いた。
あの二人の領地は隣同士だ。クララが公爵家へ入れば、それこそいつも、ヘザーがそばにいてくれるだろう。王女の秘書になったくらいだ。ヘザーも当分は他家へ嫁ぐ気はないはずだ。
あの三人が一緒のところは、よく学園で見かけた。楽しそうにじゃれ合う姿が、あまりに自然で眩しかった。
そして私はその中の一人に、クララに強く惹かれていった。
彼女がいれば、自分も光の中で生きられるかもしれないと思った。
冷たい大理石でできた回廊は、あの学園の緑とは程遠い。そして、この冷たい墓場が、私の生きていく場所だった。
王宮に捕らわれたクララを、自由な光の中へ返せたことを、今は喜ばなければならない。
そう思って、私は再び前へと歩き出した。




