緊急速報
クララと踊っているときから、王宮で留守番をしていた騎士が来たのには気がついていた。
執務室からの連絡を持ってきたのだろう。
それを受け取ったカイルが魔伝で連絡してこないということは、盗聴されては困る案件だということだ。
たぶん、すぐに王宮に戻らなくてはならない。
そう分かってはいたけれど、もう一曲だけクララと踊りたかった。
彼女の手を握り、体を引き寄せる。会話をして、息遣いを感じる。
それだけのことが、まるで蜜のように甘い誘惑だった。
結局はローランドに阻まれてしまったが。
そうして、私はクララを残してパーティー会場を去ることになった。
出口にさしかかるあたりで、カインからさりげなくメモを渡された。
思ったとおりの緊急事態だ。
「みな、すまない。宰相殿からの連絡だ。執務室へ戻るぞ」
側近たちは心得ていたのか、すぐに私に従ってきた。そして、これも想定内ではあったのだが、その中にローランドの姿はなかった。
あいつがクララの手を引いていったのを見た。
あの二人が一緒にいると思うと、胸に黒い感情が広がる。この感情は嫉妬だと、もうずっと前から気がついていた。
「ローランドがまだ残っているようですが」
「連れきてくれ。彼の父、宰相からの連絡だ」
「御意」
カインは騎士特有の仕草で、胸に手をあて軽く頭を下げた。そして、そのまますばやく会場へ戻っていった。
カイルは勘がいい。たぶん、私の気持ちに気がついている。だから、クララの様子を見に行ってくれたのだ。
王宮の執務室に戻ると、宰相からの緊急書簡が届いていた。
私は執務机に向かう傍ら、指で封蝋をやぶった。流麗な筆は、隣国の王女の来訪が明朝になると記されていた。
隣国の王女セシル。
良好な外交関係を保っているので、幼いころから親交がある。年齡は同じだが、妹というよりも姉のような存在だ。
それでも、こんなに急な来訪というのは今までにはない。とうとうその日が来たということだ。
「明朝、セシル王女が到着する。みな、今夜のうちに準備を整えてくれ」
部下たちは急ぎ足で、それぞれが業務に戻っていく。王女を迎えるには、それなりの用意が必要だ。
私もまずは制服を着替えなければ。すべてはそれからだ。
その先の対応に思考を巡らせていたとき、ローランドが戻ってきていたのに気がついた。ずいぶん顔色が青ざめている。
ローランドがクララに危害を加えるはずはない。それでも、彼女の側にいられない自分の立場が苛立たしかった。
「宰相殿からだ。お前も支度を」
「はい」
ローランドは私から書簡を受け取ると、ちらっと目を走らせて腕にかかえた。
すれ違ったときにクララの香りがしたような気がしたが、気づかないふりをして自室へと向かった。
ローランドは忠実な臣下で、いい友達だ。横恋慕をしているのは、むしろ私だ。
クララは彼の幼馴染で許嫁。ローランドは私の知らないクララの長い過去を知っている。
それを思うと、つい黒い感情が心に満ちてくる。
私は王族だ。こんな感情は制御しなくてはいけない。今夜はうまく感情を制御できたとは言い難いが、それでも努力し続ける必要はある。
自室に戻ってしばらくすると、ドアがノックされた。
「入れ」
入ってきたのはローランドだった。
さっき渡した書簡を手に持ったままだったが、仕事の話じゃないと、私は直感した。
「どうした。何かあったか」
「クララをからかわないでください。あいつはまだ子供だ。夢と現実の区別がない」
直球で来た。こいつは駆け引きなどできない真っ直ぐな男だ。疑心暗鬼になる前に、不安材料は払拭しておきたいのだろう。
「どういう意味だ」
「こういう意味です」
ローランドは書簡をかかげた。
「隣国の王女は、殿下との婚姻同盟のために来る。クララに馬鹿な夢を抱かせないでほしい」
「彼女の夢は、お前が決めることじゃないだろう」
私はつい本音を言ってしまった。
それでも、どんな小さなことであっても、彼女を貶めるようなことを言う人間を放置するわけにはいかない。
彼女は自由だ。その心も体も。
「それでは、殿下はあいつの夢を叶えてやれるとでも?『お姫様は王子様と結婚して末永く幸せに暮らしました。めでたしめでたし』って? そんなものは幻想だ。これが現実でしょう!」
ローランドは再び書簡を掲げた。
私を睨むその目には明らかに怒りが宿っていた。そして、彼は私が何も言えないのを知っている。知っていて、私の反応を試している。
「たとえ殿下であっても、あいつを傷つけるようなことは許さない。側近を辞すことになっても構わない。貴方にあいつは任せられない」
その言葉に私が反応する前に、カイルが私たちに割って入った。
「ローランド、言い過ぎだぞ」
いつのまに来たのか。ローランドの腕を掴んで、少し後ろに引かせた。
「殿下、申し訳ありません。こいつは殿下と美しい許婚のダンスを見て、少し妬いているんです。王女との婚姻も近いことだし、今は女性のことでもめるのはいささか都合が悪いかと」
ローランドは噛み付くようにカイルを睨みつけていたが、やがて書簡を持った手をおろし、カイルの手を腕からはらった。
そして、その場にひざまずいて頭を垂れた。
「申し訳ありません、殿下。臣下としてあるまじき振る舞いを。いかようにもご処分ください」
ローランドは下を向いてはいるが、全身から立ち上る憤りのオーラは消えていなかった。
それでも、彼は臣下としての礼を守り、言い過ぎたというだけで私に謝罪をしている。
それは私が王族だから。ただ、それだけの理由で。
単に身分高く生まれただけで、私はこの男を跪かせている。たとえ、彼の言ったことが正しくても。
「いや、私こそすまなかった。クララが妹のように可愛らしくて、ついかまいたくなってしまったんだ。パートナーがいる令嬢にたいして、気安すぎる態度だったろう。この件は不問だ」
「寛大なご沙汰に感謝いたします」
ローランドはそう言うとすっと立ち上がって、まっすぐに私を見た。そうして口を開いた。
「俺はクララを守りたい。あいつの笑顔を守るためなら、なんだってするつもりです」
私を見つめるローランドの目には、もう怒りは灯っていなかった。
その代わりに、瞳は情熱に溢れ、希望に満ちて輝いていた。
私は思わず、目をそらした。そんなにはっきりと愛を宣言できる、ローランドという男が羨ましかった。
「もういいだろう。業務に戻ってくれ」
「承知しました」
ローランドはそのまま退室し、私とカイルだけが残された。
私は行き場のない苛立ちを抑えようと、ガッと壁に拳を打ち付けた。小指の付け根あたりから血が滴ったが、カイルは何も言わなかった。
「ローランドはいい男だ」
私は自嘲を込めて、できるだけ静かに言った。するとカイルはふっと笑ったようだった。
「この国に、殿下以上の男はいないと思いますが」
「私が高いのは身分だけだ。それ以外はなにも持っていない。意思も未来も希望も。王族のしがらみでがんじがらめだ。当たり前の個人として生きる自由もない」
「それでもです」
カイルはそう言うと、小さくいい添えた。
「誰であっても心だけは自由です。誰にもそれを縛ることはできません。たとえそれが、自分自身の心でも」
もしかしたら、カイルも苦しい恋をしているのかもしれない。
普段はあまり感情を見せない騎士の、その寂しげな瞳が私の苦悩を映した鏡のように見えた。
しかしそれは、一瞬だけ微かにきらめいて、そしてすぐに消えてしまった。




